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「そいつを外から見たイメージと、そいつが心の中に持ってる世界って、案外違うもんなんだよ」
長谷川は言った。
「僕も、手が無い事で、色んな人に同情されるけど、生まれてから一度も自分を可哀相だと思った事はないしな」
言ってしまってから、長谷川は考え込むような顔をした。
「でも、外側から見て可哀相に思えるなら、それもひとつの世界なのかな? どう思う?」
どう思う? と、いきなりふられても、にわかには答えられない。そんな質問は難しすぎるし、何より憧れの人を目の前にして、少々舞い上がっていたせいもある。何も答えられない俺を置き去りにして、長谷川は言う。
「ひとつだけ確かなのは、これが僕の中の世界ですと自信を持って言えるのは、僕の絵の中にだけある」
「だとしたら、あなたは、強靱な意志の持ち主だ」
俺は、やっと、それだけ言葉にできた。
「強靱? そうかな?」
「ええ。とても。……失礼ですけど、長谷川大輔さんですよね」
「……僕の事、知ってるの?」
「ええ。さっき、2棟での実演を見せてもらいましたから」
「そうなんだ。ありがとう。……ところで、君は、ここの職員かなにか?」
「いいえ、ボランティアスタッフです」
「ああ、ボランティアか。それなら、由紀恵さんを呼んでくれるかい?」
「由紀恵さんて、田辺さんのことですか?」
「ああ。そうだよ。帰るまでに一度ここに立ち寄ってくれって言われて来たんだ」
「ここに? この教室内にはいませんけど? この時間に約束したんですか?」
「いや、特に時間の指定はなくて、ただ、一度ここに立ち寄って欲しいって……だから、何か用事でもあるのかと思ったんだけど」
「そうですか。でも、田辺さんはここに居ないし、ここに来る予定もないですよ」
「おかしいな? 必ず寄ってくれと言ってたのに?」
「なんでしょうね?」
俺は首を傾げた。随分おかしな約束だ。とりあえず呼んでみようかという事になり、由紀恵のいそうな事務所に電話する。幸い由紀恵は捕まったものの「今、手の離せない仕事をしてるので、しばらくそこで待ってもらって」との返事。それで、長谷川にはここでしばらく待ってもらう事にする。長谷川も、ちょうど子供達の絵を見たいとの事で快く納得してくれた。
長谷川が行ってしまうと、俺は再び腰をおろしてスケッチブックを開いた。そして、さらさらと鉛筆を走らせる。しばらくすると、人の気配がする。誰かと思うと、長谷川だった。長谷川は言った。
「君は、美大生さんかい?」
「いいえ。ただのフリーターです。一応プロ目指してたけど……」
「あきらめたのかい?」
「……実は、まだ迷ってるんです。プロにはなりたいけど、でも、自分に才能があるのかどうかも分からないし……」
「今、何を描いてるの?」
「……見ますか?」
言うと、俺は長谷川に向けてスケッチブックを大きく開いた。それを見て、長谷川がぎょっとする。
「これは……」
「あなたの描いた達磨をまねしてみたんです」
「上手いもんだ」
「そうでしょうか?」
「ああ、びっくりしたよ。……これ、一度見ただけだろう?」
「ええ。何度も見に行く時間なかったし」
「それで、よくここまでそっくりに描けるもんだ」
「ずっと、頭の中で描いてましたから」
「器用な特技だね」
「でも、ダメなんです。いくら、そっくりに描けても、同じ絵にはなりません」
「君は贋作作家にでもなりたいのかい?」
「まさか。ただ、あなたの絵から伝わってくるような……気迫みたいなのが少しも伝わって来ないというか……どう言えばいいのかわからないけど……とにかく僕の絵は生きないんです」
「生きてない?」
「例えば、あなたの描いた達磨を見てると、いまにも起き上がって語りかけてくるような、そういう何かを感じるんです。俺の尊敬するある画家の描く女性は閉じている瞳を開け、今にも立ち上がりそうなほどの臨場感を持ってました。でも、俺の描くものはダメ。そんな生命の息吹を感じた事が一度も無い」
「なるほど。君の言わんとする事は分かったよ。君の絵は生きて来ないってね。そりゃ、あたりまえさ。その達磨はどこにも存在する物じゃないもの」
「どこにも存在しない? ですか」
「そうだよ。どこにも存在しないものを描いたって、絵は命を持ちはしないさ」
「それじゃ、あなたの描いた達磨は存在するっていうんですか?」
「もちろん。しっかりと在るよ」
「待って下さい。僕の記憶が正しければ、あなたは何も見ずに達磨を描いていたように思うんですけど……」
「外には無いさ。でも、僕の中の世界にはあるよ」
「面白い事をおっしゃいますね。つまり、僕の描いたものが模倣で、達磨が僕の中の世界に存在しないからこの絵には命が吹き込まれないという事ですか? それじゃあ、僕の中に在るものを描けば、命のこもった絵が描けるという事ですか?」
「普通はそうだろう?」
「でも、僕は自分の絵を描いたところで、生命感のかけらも感じた事が無い。そのせいで、ここ数年、何一つ描く事ができなくなってしまったんです。それで、あなたや、尊敬する画家の絵を模倣して、なんとかあの生命感の秘密を探ろうとしているんです」
「この場合、自分の絵を描く事と、自分の中に『在る』ものを描く事とは少し違うよ」
「どういうことですか?」
「君の中に存在するものを描かないとダメだと言ってるんだ」
「僕の中に、存在するものとは何ですか?」
「君の中の世界に命を持って存在するものだよ」
俺の中に命を持って存在するもの?……俺は自分の心の中を探してみた。しかし、どう探してもそんなものは無いように思える。というか、それがどういうものなのか、見当がつかないというのが本当のところだ。
「すいません。僕には難しくてよく分からないみたいです」
「難しいかな?」
「はい。抽象的すぎるのかもしれません」
「抽象的か。……じゃあ、そうだなあ。君には、今、どうしても描きたいものがある?」
「どうしても、描きたいもの?」
「うん。例えば、この部屋の中にでもいいからある?」
俺は、部屋の中を見回した。しかし、古びた時計や、錆びた窓枠なんかに多少触手が動いたが、どうしても描きたいかどうかとなると、答えは否だ。
「無いみたいです」
「そうかい。心の底から描きたいものが無きゃ、自分を満足させるほどの絵は描けないかもな」
「そういうものですか?」
「そうさ。だって、見るものに興味をもてなきゃ、自分の世界に入って来ないし、それに、どう描いてやろうかって遊び心も湧いて来ないだろう」
「そういうものですかねえ?」
長谷川の言う事は大味すぎて、いまいちよく分からない。
「じゃあ、あなたは、この部屋の中にどうしても描きたいようなものがあるんですか?」
「あるよ。この部屋に限らず、世界中にあるよ。目に映ったほとんどのものが、僕の中で命を持つよ」
「つまり、それは……あなたが、一瞬一瞬を感動を持って生きてるって事ですか?」
「そういう意味でもないんだけど……とにかくそうなんだ。僕は世界の全てが欲しいのかもしれない」
そう言うと、長谷川は愉快そうに笑った。
しばらくすると、ホタルの光が流れて来た。そして、文化祭一日目終了を告げるアナウンスが流れる。しかし、田辺由紀恵は現れない。それでもしばらく長谷川は待っていたが、やがて「新幹線に間に合わないから」と言って、去って行った。