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こうして、俺は弟と田辺由紀恵をともない、第2棟の作業所へと向かった。
案外すぐに辿り着いたその場所には、山のような人だかりができていて、長谷川という男の知名度と人気を感じさせられる。
人ごみをかきわけて作業所の中に入ると、部屋のど真ん中に40過ぎのがたいの良い男が、でっかい紙を前にあぐらをかいている。どうやら、あれが長谷川らしい。ぎょろりとした目のいかつい顔だ。しかし、風貌より何より俺をぎょっとさせたのは、彼の両腕が肩のあたりでちょん切られたように、見当たらない事だった。手の無い彼は、口に筆をくわえて絵を描いていた。鬼気せまるというか……さしもの皮肉屋の弟も、その迫力に圧倒され、ただ、呆然と見つめるばかりだ。
ちなみに、長谷川が描いているのは達磨だ。ぎょろりとした目の、いかつい鼻をした……どことなく描き手にそっくりの達磨だ。
俺は、とりつかれたように長谷川の口元を見つめた。生き物のように動く筆の先から、血しおのごとく朱色がほとばしり、達磨の体に肉付けをして行く。いつしか、周囲のざわめきも、光も、何もかも消え、虚空の中に俺と、長谷川と、達磨だけがいるような錯覚に陥る。その夢幻の空間で、ごろりと達磨が起き上がり、俺を睨め付けこう言った。
「おい、お前。描きたいものは見つかったのか?」
俺は答えた。
「いいや。まだ、見つからない」
「それなのに、こんなところでボーッとしていていいのか?」
「分からない」
首を振ると、
「早く答えを見つけないと、手後れになるぞ」
と、達磨が言う。
「手後れってなんだ?」
「手後れは、手後れさ」
「意味が分からないな」
「そんなはずは無い。お前の分からない事を、俺が話すわけないだろう」
「それは、そうだ。俺だって、苦しいんだ。だからといって、せかされても動きようがないから仕方がない」
「じゃあ、いつまでもそこで見ていればいい。気付いた時には全て終わってるさ」
「動くための答えが知りたいから、あの人に会いに来たんだ」
そう言おうとした時、
「おい、兄貴」
弟に肩を叩かれる。
「え? あれ?」
突然、現実に戻されてうろたえる俺をいぶかしげに眺めながら弟が言った。
「もう、時間だぞ。持ち場に戻ろう」
時計を見ると、1時20分を過ぎていた。
……格が違う……
画用紙にクレヨンを走らせながら思う。
……やっぱり、俺には才能なんてないのかなあ……
ため息をついたその時、
「お兄ちゃん、それ違うよ」
あどけない声で、我に返る。
「それ、ドラえもんじゃなくて、ダルマさんだよ」
「え?」
俺は、慌てて画用紙を見た。すると、確かにそこには、青色のダルマが描いてある。
「ごめん、ごめん。今、描き直すからね」
俺はスケッチブックを破くと、新しい紙にドラえもんを描き始めた。
しかし、まったく……こんな間違いを犯すなんて……よほど、さっき見た達磨にとらわれているらしい。我ながら、情けなくなる。
ようやく自分を取り戻せたのは、午後のお絵書き教室が終わり、一息ついた時だった。
すでに、4時を回り、人の姿もまばらになった工作室の一角に座り、夕日で赤く染まる室内やら、いまだに出入りする人達の姿なんかを見ながら、ふ……と、俺は『そのこと』に気付いたのだ。
俺は丸山さんに声をかけた。
「ねえ、丸山さん。あの子……ケイ君って言ったっけ? さっき丸山さんの絵を描いてあげたあの車椅子の子、まだ、あそこに……あの窓際にいますよ」
すると、丸山さんが振り返って答えた。
「ああ、ケイ君なら、朝からずっとあそこにいたわよ」
「ですよね、やっぱり」
「よほど、ここが好きなのよ」
「好きなのはいいけど……親ごさんはどうしているんですか? こんなとこに丸一日あんな子を放っておくなんて、少し変じゃないですか?」
そう言って、俺は口をきくのもやっとだった車椅子の少年を見つめる。
丸山さんが言った。
「ケイ君のお父さんとお母さんは、来ないのよ」
「え?」
「忙しくって、文化祭には来られないって。だから、ケイ君、今日も明日もお泊まりよ」
「忙しいっていったって……文化祭でしょう?」
「私も、一日ぐらいは来て下さいと言ったんだけど、無理って」
「そんな……」
「仕方ないわよ。色々事情もあるだろうし……」
「事情ったって……おかしいですよ」
その時、俺は、前にここに来た時の田辺由紀恵の言葉を思い出した。
『考えてみてよ。生まれて来たわが子が障害持ってたって分かった時の親御さんのショック……誤解しないでね。親御さんが愛情を持ってないわけじゃないのよ。でもね……』
そうなのかもしれない。俺らには分からない葛藤があるのかもしれない。というか『そういう事』ではないのかもしれない。それとはまったく関係なく、本当に用事があるから来られないだけなのかもしれない。それに、あの時は由紀恵の言葉に、むしろ、納得していたじゃないか。今さらなにを思う事がある?
しかし、現にああして一人きりでいるケイ君を目の当たりにすると、なんとも腹立たしい気持ちになってくる。
それで、俺は、憮然として彼に近付き、彼に話しかけてみた。
「ねえ。君、ずっと、そんな所に居て、疲れない?」
分かっているのか、分かっていないのか……ケイ君はこちらを見上げてにこっとした。
「ずっと一人で退屈だったろう? ためしに何か描いてみたら?」
そう言うと、俺は手にしていた画用紙とクレパスを彼に差し出した。しかし、彼は、ただニコニコと笑うばかりだ。分かってないのかと思い、もう一度スケッチブックを、今度は彼の手に押し付けるように渡す。
「ねえ、何か描いてみなよ」
すると、彼にかわって丸山さんが答えた。
「ありがとう。河井君。でも、ケイ君は、手がうまく動かせないの」
「え?」
「でも、絵は大好きなんですって。だから、ここに居させてあげて」
「……」
俺は無言でその場から離れると、さっきまで座っていた椅子に戻ってスケッチブックを開いた。その時にはもう、長谷川の事も達磨の事もすっかり頭から消えていて、かわりになんとも言えないやり切れなさで胸が一杯になっていた。苦い気持ちを紛らわすように、鉛筆を取る。そして、戯れに、窓際の少年の絵を描いてみる。あいかわらず、ただ、正確に模写しただけの、面白くも何ともない絵だ。モデルの少年の悲しみも何も伝わって来ない。それで、ためしに少年の背中に翼をつけてみた。多少はマシになった。自由に憧れる、少年の気持ちが表現できたような気がする。と、その時、
「面白い絵だな」
と、頭の上から声がした。
「でも、ケイはそんな事は望んでないかもよ」
随分ぶしつけな奴だ。先ほどからのイライラも相まって、不快さをあらわに上を向く。そして、俺は驚いた。
そこにいたのが、あの長谷川大輔だったからだ。