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しかし、それでも弟は出勤し続けた。かなりの無理をしているのか、見る見るうちにげっそりしてくる。そういえば、ここのところ、食欲がないのか、ロクに物も食っていないようだ。
「大丈夫か?」と尋ねても「大丈夫だ」としか答えない。しかしどう見たって大丈夫には思えない。
もちろん俺的にはこのまま何としてでも弟には仕事を続けて欲しかった。アニキとして、弟の将来を心配しているというのもあるが、それ以上に奴の社会復帰に自分の東京行きがかかっているからだ。しかしここまで弱ってふらふらになった弟をさらにむち打てる程、鬼でもなければ、蛇にもなれない。それで、ある日ついに口にしてしまった。
「おい、無理するなよ。どうしても無理そうなら、辞めたっていいんだぞ?」と。
しかし、弟は実に心外そうな顔をして言った。
「何でそんな事進めるんだ?」
「何でって、それは……」
「アニキ言ったじゃないか? 向こうから引導を渡されるまでは絶対にやめるなって。自分からは投げ出すなって」
「そりゃ、言ったけど……」
「じゃあ、放っておいてくれ」
「けど、病気になったらどうするんだよ?」
「大丈夫だよ。倒れる前にクビになるから」
「何言ってるんだよ。真面目に考えろよ」
「俺はものすごく真面目だよ。とにかく、頑張らせてくれよ」
そこまできっぱりと言われちゃ、もう何も言えない。
しかし、弟の努力にも関わらず、職場の雰囲気はあいかわらず冷たかった。
誰にもまともに相手にされず、独り黙々と働く弟のひょろっこい背中を見て思う。
はたして、このままここで働き続ける事が、本当に奴にとっていい事なんだろうか? この努力が報われる事があるんだろうか? それ以前に奴の繊細な神経が参ってしまい、また、元のあの穴蔵生活に戻ってしまうんじゃ……いた、もっと最悪な事に心をやられてしまうのでは? もし、そんな事になったら……とたまらない気持ちになる。
俺は久方ぶりに兄貴の使命感に燃えた。
アイツの仕事のダメさ加減はどうする事もできないとして、この職場内の異常な雰囲気の悪さだけでも何とかしないと……。
それで、昼時、俺らは川岸さんをつかまえて俺らについて何かウワサがたっていないかを聞いてみた。職場内で一番気を許せる相手だからだ。
しかし、川岸さんは何も聞いていないと言う。
まあ、そんな質問されて本当の事をベラベラ喋る奴もめったにいないだろうが。やはり、稲本本人に聞くのがいいか? 正直言って気が進まないが……。
そう思いつつ食堂に行くと、弟が一人で握り飯を食っていた。
「それだけかよ?」
近付くと、
「ああ。兄貴か」
と、弟が力無く笑う。
前方では、稲本を中心に数名の輪ができている。それを見ながら、さて、どうアイツと話をつけようかと考えていると、視線に気付いてか、稲本がこちらをちらりと見る。しかし、互いにすぐに視線を外し、俺は弟に言った。
「それっぽっちじゃ、体力もたないぞ」
「仕方ないだろう? 食えないんだから」
と答える弟は、握り飯一つを食い終わるのも難儀そうだ。本当に倒れるんじゃないか? こいつ? と思っていると、例の稲本を含めた一団が大声でこんな話をし始めた。
「俺の知り合いの息子に引きこもっている奴がいてさ」
その言葉に弟がびくっと反応する。
声の主は無神経に語り続ける。
「親は困ってるらしい。これからどうすればいいのかって」
すると、別の声が答えた。
「そりゃ、大変だな。原因はいじめか何かか?」
「よく知らないが、いじめもあったらしい。一日中部屋に閉じこもって、何をしてるかも分からないんだと。もう3年もそうしているらしい」
「しかし、そんなのは、無理に部屋から引きずり出してでも働かせればいいんじゃないか?」
「ああいうのは、無理に働かせてもダメらしいぞ。どこにいっても勤まらないんだと。間に合わないらしい」
俺は、気遣うように弟を見た。弟は黙ってうつむいていた。……頭に来る。いくら何でも、あんな話を、あんな大声でする事はないだろう。と、また、別な声が聞こえて来た。
「しかし、今の若いのは大変だな。いじめでへたをすれば、人生を台なしにされるみたいじゃないか? 俺らの頃もいじめはあったけど、これ以上越えちゃいけないというラインは守ったぞ。相手が死ぬまでとことん追い詰めたりしなかっただろう」
年寄りのおっさんの声だ。まあまあマトモな意見である。と、おっさんをさえぎり、聞き馴れた声が、こんな言葉を吐いた。
「……けど、あんなのは、いじめられる方も悪いんですよ。嫌ですね。そういうのが恨みをため込んで、世の中のせいにして、凶悪犯になったりするの。被害妄想するなって思いますね」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。そして、こちらを見ている稲本と、もろに目が合う。しかし、先ほどと同じく、いや、先ほどよりは遥かに卑屈なそぶりで視線を逸らす。それで分かった。今のはあきらかにわざとだ。俺らに聞かせようとしてわざと大声で話したんだ。それに気付いたとたん、先ほどまであった和解の気持ちが、みるみるうちに消えていくのが分かった。そして、いけないと思いつつ俺は立ち上がっていた。
「言いたい事があるなら、はっきり言えよ!」
俺の剣幕に、食堂内の全員が、キョトンとしてこちらを見る。稲本だけが俺を見ない。
「おい。こっちを見ろよ」
しかし、稲本は頑としてこちらを見ようとはしなかった。
「お前だよ、稲本。何でこっち見ないんだ? 俺らを見られない理由でもあるのかよ?」
名指ししてやると、
「おい、どうした? 河井?」
原口さんが向こうの方から声を上げた。俺はその声を無視して稲本に言う。
「言いたい事があるなら、はっきり弟に言えよ。卑怯だろう? コソコソつるんで」
その時、稲本がやっとこちらを見た。顔がひどく青ざめている。怯えているらしく、何も答えられないようだ。……なんだ、こいつ、口ほどにもないヘタレかよ? ……一瞬侮った俺の隙をつくかのごとく、渡辺が口を出す。
「落ち着いてくださいよ、河井さん。何をキレているんですか?」
「……しらばっくれる気か?」
「しらばっくれるも何も、話が全然見えません」
そのあまりのしらじらしさに、めまいを覚える程の怒りを感じる。
『よく言うよな、お前ら。弟がひきこもっていたのを知っていて、わざと聞こえるように今の話をしたんだろう?』
と、言いたいが、口に出せない。衆人環視の中でそんな事を言えば、ますます弟を傷つける事は分かっているからだ。沈黙した俺に向かって渡辺が冷笑を浴びせた。
「思うんですけど、河井さんてちょっと過保護なんじゃないですか? そんなんだから、弟さん、いつまでたってもダメなんですよ」
ガタリ…
背後で音がした。
振り返ると、弟が立ち上がっていた。何か発言するのかと思いきや、黙って食堂から出て行こうとする。俺は慌てて弟を追いかけた。そして、腕をつかみ、
「……どこに行くんだよ?」
たずねると、弟はその場にへなへなとうずくまり、わなわなと肩を震わせた。
「おい。大丈夫か?」
顔を覗くと、弟は震えながら言った。
「大丈夫だよ。それより、兄ちゃん、ごめんな……」