65
さて、憎む方と、憎まれる方では、どちらの苦しみがより大きいものなのだろうか? そんな青くさい疑問を抱きながら、俺らは淡々と日々を積み重ねていく。感心なのは、こんなことがありながらも、弟が決して会社を休まなかった事だ。しかし情けないのは、そこだけは毅然としてながらも、他の部分では……つまり仕事に関しては……さっぱりできない事だった。あいかわらず素材の選別を間違えるし、ノルマもまったくこなせてない。原口さんにどなられっぱなしのいいとこなしである。
しかし、仕事以上に問題になったのは、弟の稲本に対する態度であった。弟は、心情的にどうしても稲本と仲良くする事ができず、仕事の事で質問されてもろくに返事を与えられないのである。その態度が、傍目には新人いじめと映ったらしい。ある日とうとうキレた原口さんに言われた。
「お前さ。少しばかり長いからって先輩風吹かすなよ。とっくに稲本のが使えるようになってるんだからな」
確かに新人が入社して2週間め。すでに弟は色んな意味で彼らに追いこされていた。(というか、そもそもこんな単調作業をいつまでもこなせない弟の方がおかしいのだ)が、しかし仕事の事はさておき、稲本の事に関しては、事情を知っているだけに俺も悔しくなる。それで、つい、立ち上がって口出ししてしまった。
「原口さん、それは言い過ぎじゃないですか?」
「ああ?」
原口さんは日頃平和主義な俺からの、思いも寄らぬ反撃に驚いたようだ。
「どこが言い過ぎだよ? どこからどう見たって、こいつのやっている事はおかしいだろう?」
「……確かに、そうですけど……」
「じゃあ、黙ってろよ」
「でも、弟には、弟の事情が……」
と、そこまで言った時、それまで言われっぱなしだった弟が口を開いた。
「アニキ、よせよ」
「でも……」
「いいんだよ。悪いのは俺なんだから」
「そんな事ないだろう?」
「いいから、余計な口を挟むなよ」
「……分かったよ」
俺は、手にしていたドライバーを作業台に投げ付けると、どかっと腰を降ろした。隣から宮崎さんが心配げに声をかけてくる。
「おい、大丈夫か? 何があった?」
「別に、何もありませんよ」
仏頂面で答えるが、内心はらわたが煮えくり返っている。弟はどうしているかとEグループの方を見ると、弟はまだ原口さんに説教されており、そして、2人の向こう側から稲本がこちらを見ていた。……なんだよ。その挑戦的な目は……。と、胸くそ悪く感じつつドライバーを手にとり再び作業に戻る。
その帰り道、俺は弟に言った。
「みんなに、事情を話したらどうだ?」
「事情って、何の事情?」
「稲本と学生時代にあった一件さ」
「やだね」
「なんで? ああ見えて原口さんは話の分かる人だよ。事情を話せば班変えなりなんなりしてくれるかも」
「……どうやって話せっていうんだよ? 『ボクを虐めてた稲本君が嫌いなので班を変えて下さい』ってか? やだね。みっともない」
「見栄はってる場合かよ。このままじゃ一方的に悪者扱いされるだけだぞ」
「それなら、それでいいよ。最悪辞めればいいし」
「辞めればいいって……」
「だって、元々、そこまでしてしがみつきたい程の仕事でも職場でもないもん」
「そんないいかげんな考え方あるかよ」
「いい加減でも、実際そう思うから我慢できてるんだよな、これが」
……ああ、なるほど。いわゆるふところ刀みたいな?……と、納得している場合じゃない。心を鬼にして説教アニキモードになる。
「そんな風に投げやりで、この先どうするんだよ。この先だって色んなトラブルはあるぞ。そのたびに逃げてたら、とても生きていけないぞ。トラブルが起きたらちゃんと対処する事も覚えないと」
すると、弟はますます投げやりになった。
「生きるって面倒臭いな……」
と、その時だ。
「すいません」
ふいに背後から呼びかけられ俺らは同時に振り返った。そこには、なんと噂の張本人稲本が立っている。……何の用だよ? と訝しげに見下ろすと、稲本が言った。
「あの、少しお話しがたいんですけど……いいですか?」
「おい、どうする」
俺は、弟の脇腹をつっ突いた。しかし、弟はそっぽを向いている。
「あの……そんなに長くかからないので、聞いて欲しいんですけど……大事な話だし」
「だってさ。どうする?」
再び弟に聞くと、弟はぶっきらぼうに「いいよ」とうなずいた。こうして俺らは、近場にあった喫茶店に入った。
席につくと、稲本はさっそく口を開いた。
「あの……河井さんて、ご兄弟なんですよね」
「そうだよ」
俺は答える。すると、稲本は大げさにうなずいて言った。
「やっぱり。そっくりだし」
なんだか、セールスみたいな話かただ。
「で、えーと、優さんの方がお兄さんですか?」
「ああ。見てのとおり」
そっけなく答える。言外に『そんな事聞きたいんじゃないだろ?』と匂わせながら。と、稲本はしばらくひどく考え込むようなそぶりをしてこう言った。
「それで、……あのお、もしかして、弟さんは正君ですか?」
「その通りだよ。稲本君もよく知ってる河井正だよ」
弟にかわって答えると、稲本は再び大袈裟に驚いてみせた。
「ああ、やっぱりそうなんだ。何か似てるなあとは思ったけど、まさか本人とは思いませんでした」
「じゃあ、今までは、弟だとは気付いてなかったって言いたいわけ?」
「はい。全然。でも、心配はしてたんですよ。高2の時から引きこもっちゃったって聞いてたし。でも、あんなところで会うなんて奇遇ですよねえ」
その言葉で、ついに弟の堪忍袋の緒が切れたらしい。
「ふざけるなよ!」
と、いきなり机を叩いて立ち上がった。そして稲本の胸ぐらをつかんで言った。
「何が『気付かなかった』だよ。一目で気付いたくせに。俺を忘れるわけが無いよな」
その剣幕に俺は驚いた。こんなキレ方は、あの飲み屋以来だ。
「ちょっと、放してくださいよ。放してください! ……放せってば!」
稲本が苦しげにわめいた。しかし、弟は手を放さない。
「俺を忘れるわけないよな。お前がいじめられてるときに、かばってやった河井正だよ。にもかかわらず、お前が裏切った河井正だよ」
その言葉に、あきらかに稲本の顔に動揺が走った。が、すぐに素に戻ると、
「なんですか? それ。ボク知りませんよ。ただの被害妄想じゃないですか?」
大声で叫ぶ。
「被害妄想だと? ふざけるなよ」
弟はそういうと、稲本の体を思いきりソファに叩き付けた。その時点で既に俺らは店中の注目の的になっていて、騒ぎを聞き付けた店員が駆け寄って来た。
「お客さん、どうしました?」
「あ、なんでもありません」
俺は必死でごまかし、そして、弟の背中を叩いて、
「落ち着けよ。まずは、彼の話を聞こう」
となだめた。