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5時ごろ、遊び疲れた大地と翼を連れて弟達が戻って来た。そのタイミングで、俺らも家に帰ろうとした。が、しかし、
「ついでに、かなえを送ってやって」
という由紀恵の言葉に従い、俺らはしばらく事務所の中で待つことになる。
手持ち無沙汰でうろうろしていると、机の上に一枚の絵ハガキが置いてあるのに気付いた。そこには、見覚えのある野太いタッチで、一人の男の正面図が描かれていた。
「これは?」
思わず手に取り尋ねる、かなえが答えた。
「あ、やっぱり反応した。それも長谷川さんの絵ですよ」
「やっぱり!」
俺は感動して、しげしげとその絵に眺め入った。
「え? お兄さん、ハセちゃんを知ってるの?」
由紀恵が、驚いて俺を見る。
「いや。さっき、受付のとこに飾ってあるのを見て知ったとこです」
「ああ、あの木の絵ね」
彼女はうなずいた。
「そうです。あの、柱の所に飾ってある…」
「…確かにあれはちょっと良い絵だよね」
「『ちょっと』どころか、『ものすごく』良い絵だと思います」
「ふーん。よっぽど気に入ったんだね」
「ええ。とても」
「じゃあ、そのハガキ持って行きなよ」
「え?」
その言葉に面喰らう。
「でも、これ、売り物っぽいですけど…」
俺は包装用ビニールに貼ってある100と印刷されたシールを指して言った。
「ああ。本当は売り物だけど、サービス、サービス。手伝い賃」
「いいんですか? たいして手伝いしたわけでもないのに」
すると、窓際からかなえが満面の笑顔でフォローしてくれた。
「そんな事無いですよ。すっごく助かりましたよ」
「ほーら。かなえもこう言ってるし、持っていきな」
女性2人に進められ、俺はありがたくそれを受け取る事にした。そして、受け取ったが最後、女性二人の話など上の空で、じっとそれに見入ってしまう。ぼやーっと、それを見つめていると、
「お兄さん、お兄さんてば!」
いきなり、耳もとで呼びかけられて、飛び上がる程驚いた。
「え? あ? 何でしたっけ?」
「何でしたッけ? って…聞いてなかったの? 私達の話」
「あーっと、何だっけなあ?」
全然聞いてなかった。
「はあー」
由紀恵があきれ顔で首を振る。
「本当に、その絵が好きなんだね…。確かに、ハセ君にはファンが多いけど。にしても、ここまでハマる人も珍しいよ…」
すると、俺の記憶する限り、今までずっと無言だった弟が重い口を開いた。
「兄貴は、画家志望なんだ。だから、絵に対する執念がちょっと異常なんだ。はっきり言ってヤバいんだよ」
どういう言いぐさだ。それじゃ、まるで俺がおかしい奴みたいじゃないか…。俺はおおいに批難を込めて弟を見た。が、しかし、弟の言葉に由紀恵は納得したようだ。
「ああ。なるほどね」
と、軽くうなずくと、
「だったらさ、文化祭の時おいでよ」
と言う。
「文化祭?」
俺は首をかしげた。なんで、そこで、文化祭が出て来るのか? まったく脈絡が無い。…という俺の気持ちを代弁するように、弟がストレートに尋ねた。
「なんで、そこで、いきなり文化祭が出て来るんだよ? 全然話が見えないよ」
「ああ。悪い悪い。話す順序を間違えた。あのね、その絵の作者の長谷川誠が文化祭に顔を出す約束になってるんだよ。だから、おいでって言ってるの」
それで、俺らも納得する。
「そういうことなら、ぜひ来させてもらおうかな? でも、いつやるんです?」
「10月の連休あるでしょう? その時」
「10月の連休ですか…。何日だっけ?」
「ちょっと待って、チラシがあるはず…」
そう言うと、由紀恵は自分の机の引き出しを開け、B4のチラシを出した。
「これこれ。これがチラシ」
見ると、なるほど『ふれあいの家、文化祭』とでかでかと書かれている。
「ああ、12、13日ですか」
「そう、ぜひ来てね。そのチラシ持っていっていいから」
「ありがとうございます」
俺はありがたくチラシを受け取り、2つに折った。すると、由紀恵がこう付け加えた。
「ついでに、ボランティアも募集してるから、よかったら参加してよね。特に、弟君。君、向いてるから、よかったら来てよ」
「え?」
いきなり声をかけられて、弟が戸惑った顔をする。
「待ってるからね」
由紀恵はそう言うと、ニコッと笑った。
それから、20分程待ち、俺らはかなえとともに施設を出た。由紀恵は、まだ仕事があるからと、そこに残る。
既に日の暮れかかった坂道を、自転車をひいて歩く。坂を昇り切ったあたりで、かなえがぽつりと口を開いた。
「凄いですね、あの由紀恵さんにほめてもらえるなんて…」
「え? 誰が?」
俺は振り返って荷台の上のかなえを見た。彼女は行く時と同じく、帰りも自転車の荷台に乗っていた。
「誰って、河井…弟さん」
「…弟が? ほめられたっけ?」
「…ほめられたじゃないですか。『向いてる』って」
「ああ…そういえば、そんな事も言われてたっけ?」
そういうと、俺は弟に視線を向けた。しかし、弟はたいして嬉しそうでもなく
「お世辞だろ? あんなもん」
…あくまで、かわいくない。
「いいえ。あの人、お世辞なんかいいません」
かなえが、ムキになって言う。
「あの人、気さくそうに見えるけど、本当は物凄く厳しいんです。特に仕事に関しては」
と、弟の直球。
「とても厳しいようには、見えないな」
「厳しいように見えなくても、厳しいんです。私なんか、叱られてばっかりで…。この間なんか『かなえのやってる事は自己満足に近いよ』って言われちゃったし…」
「そりゃ、確かに厳しいな」
ちょっと同情する。
「…でしょ? 私向いてないんです、この仕事」
「そこまで、悲観しなくても…」
俺はかなえをなぐさめた。そこへ、弟が、また口を挟んで来る。
「つーかさ、なんで、あんたこの仕事しようと思ったわけ?」
「なんでって…」
「だってさ、あんた元々、フツーのOLだろ? 何で、会社辞めてこんな畑違いの仕事してるの?」
「それは…」
かなえが口ごもる。
「別に、深いわけがあったわけじゃないけど…この仕事ならやりがいが持てる気がしたから…」
「OLは、やりがいなかったのかよ?」
「…あんまり、仕事がない上に、私、お局みたいな人に睨まれてて…ある日、言われたんです『あんたの代わりなんて、いくらでもいるんだ』って。そう言われた途端に会社に行くのがどうしても嫌になって、…それで、職安通ってた時に、みーちゃんにこの仕事紹介されたんだけど…」
「なるほどね」
弟は、うなずく。そして、ぼそりとつぶやいた。
「どんな仕事も楽じゃないんだな…」
どうやら、今の自分のシャレにならない境遇と重ね合わせているらしい。
それからしばらく、俺らは無言で歩き、やがてかなえの家についた。
「ありがとうございました」
かなえは、ぴょこんと頭を下げた。
「本当に助かりました」
「礼なんかいいよ」
俺は答える。そして、行こうとすると、背中からかなえの声が追いかけて来た。
「文化祭、絶対に来て下さい」
俺は、後ろを振り向き、うなずいた。
「絶対ですよ。大地君も、翼君も、すごく喜んでたんです。また、一緒にサッカーやりたいって…」
その言葉に、俺は舌打ちした。
…ってことは、何だよ。来て欲しいのは、正かよ…
しかし、分かっているのか、分かっていないのか、弟は振り返りもしなかった。