60
「何? そんなにサッカーやりたいの?」
由紀恵さんはあきれ顔だ。
「俺じゃなくて、翼がどうしてもやりたいって…」
まったく子供は無邪気でいいなと、思わず大地の髪をくしゃくしゃしたくなる。
「でもさ」
弟が無表情に言った。
「なんで、翼がサッカーしたいって分かるの? あいつ、喋れないんじゃないの?」
子供にも情け容赦のない突っ込みようだ。
「確かに、翼は喋れないけど…」
そう言うと大地は自分の片目を指さし、
「そのかわりに目で合図するんだよ。こうして」
パチンと、片目を閉じる。
「右目を閉じたら、何かして欲しい証拠。左目は、もういいって事」
「へー。色々やり方があるもんだな…」
弟は心から感動したように仕切りと首を振る。そして、由紀恵を見ると意外な事を言った。
「ねえ、センセイ。ここまで言うんだから、やらせてやったら? サッカー」
おお…! まるで、人間みたいな温かいセリフじゃないか! 俺は感動と驚愕の思いを込めて弟を見る。が、しかし、由紀恵は渋い顔をした。
「そりゃ…やらせてあげたいのは山々だけど…でも、二人だけじゃ何かあった時困るじゃない」
「じゃあ、俺らがついていくよ。男手があればいいだろう?」
「確かに、男の人がいれば助かるけど、それだけじゃ…」
「いいじゃないか、センセイ。この天気がいいのに、部屋の中にこもってたんじゃこいつらだって退屈でしかたないだろう?」
「そうだよ。僕、退屈」
大地が弟の尻馬に乗って叫ぶ。2対1の勝負に勝ち目がないと悟ってか、ついに由紀恵も観念したらしい。しぶしぶ「分かった」とうなずいた。
「やった! ありがとう、お兄ちゃん! 由紀恵さん!」
大地が万歳する。
「ただし!」
由紀恵が口を挟んだ。
「私も行くからね!」
「そんなの、別に構わないよ。ねえお兄ちゃん」
「ああ。とにかく、これで、決まったな」
そういうと、弟は、大地の車椅子を押して歩き出した。
「でも、ちょっと待って」
「何だよ、センセイ。まだ何か文句あるのかよ」
「うん。実はあたし…今、洗濯途中だったのよね。誰かにやってもらわないと…ケガしてるかなえ一人じゃ可哀相だし」
と、再び由紀恵は考え込み、やがて俺の顔を見た。
「そーだ、お兄ちゃん!」
「え? 俺?」
「そ、お兄ちゃん。悪いけどかなえの手伝いをしてくれる?」
「…」
断れるはずもなかった。
青空の下、白いシーツが揺れている。空気は停滞しているように思えるが、多少の風は吹いているらしい。
「ごめんなさい。送ってもらった上に仕事の手伝いまでやらせるはめになっちゃって…」
かなえがシーツを広げながら言った。
「別に、気にしなくていいよ。これぐらい」
そう答え、俺もシーツを広げる。そして、思いきりはたいて皺を伸ばすと、竿にかけた。
「それにしても、結構な量だね」
「ええ。何しろ、入寮者全員分だから」
「何人いるの?」
「この棟には15人かな」
「ふーん。そんなに居るんだ。そのわりに静かだね」
「今日は土曜で、みんな家に帰ってるんです…ああ。大地君と、翼君を除いて」
「ふーん。あいつら居残り組か。かわいそうだな」
その『あいつら』の姿が、この2階の物干台からはよく見える。先きほどまで俺らが居たグラウンドで、ちょうど今大地がボールを蹴っているところだ。その向こうに車椅子の翼が居て、その車椅子を正が押している。
「ほら、こっちこっち!」
弟の叫び声がする。あいつのあんな声を聞くのは、何年ぶりだろう? 子供の頃は、あいつもああやって外でよく遊んでいたが…。ぼんやり見ていると、いつの間にやら隣に来ていたかなえが言った。
「弟さん、子供の事は好きなんですね」
「…みたいだね。俺も初めて知った」
「面倒見もいいみたいだし」
「…みたいだね。俺も、今日初めて知ったよ」
「本当は、優しいんですよね?」
「いや、それは、知らないけど」
「優しいんですよ。大地君がサッカーできるように由紀恵さんを説得するなんて」
「そうかな…?」
「私ならできません。どうしても、何かある事考えちゃうし」
「もしかして、弟のやった事迷惑だった?」
「いいえ。違います。全然逆です。だって、よく考えてみると弟さんが正しいって思うもん。大地君は時間も限られてるんだし、動けるうちに、できる事をさせてあげなきゃって…」
「…限られた時間か…」
確かに、大地に許された時間は、俺らとは比較にならない程少ない。しかし、天と地の間には光があふれ、鮮やかな青と緑に彩られている。その中を笑いながら大地が走っている。いつか確実に訪れる悲劇の萌芽など微塵も感じさせない、時の流れとは無縁のような穏やかな風景…。
「…でも、いいですよね。子供はなんだかんだ言っても無邪気で」
ふいに、かなえが口を開く。
「え? ああ。本当だね」
俺はあいづちをうつ。
「本当ですよ。私も子供の明るさに救われる事が多くて。そんなんじゃダメなんだけど」
そう言うと、足を引きずりながら、再びかなえはシーツを干しに戻った。
と、その時。
「コラ−。大地!」
由紀恵の怒鳴り声が響いて来る。何ごとかと思ってグラウンドを見ると、由紀恵が大地に向かって何やら説教している姿が目に入って来た。どうやら、大地の奴が何かやらかしたらしい。
「…あの人…田辺さん? パワフルな人だね」
「ああ。由紀恵さん? いい人ですよ。明るいし、おもしろいし。でも、仕事には結構厳しくて頼りになるし。…私なんか、叱られてばっかりだけど」
「ははは。最初は誰でもそんなもんだよ」
「ですかねー」
そう言うと、かなえはバシッと音を立ててシーツを広げた。
シーツを全て干し終わると、「私は仕事があるから」と、かなえは事務棟に戻った。一人残された俺は、この暑さの中を弟達のいるグラウンドに行く気力もなく、かといって、他にやる事もなく、手持ち無沙汰のまま建物の中を最上階から歩き回った。
最上階といっても3階だ。細長く見えた外観とは裏腹にゆったりとした広いフロアで、3つあるエレベーターホール脇の大きな窓から、緑の森が見えるようになっている。中央には大きな白い柱があり、子供が描いた絵が飾られている。それを囲むように、いくつものドアが並んでいる。どうやらここは、個室ばかりのようだ。2階も同じように個室と、それから浴場にリハビリテーション室。そして学習室があった。ナースステーションのようなものも有る。施設の性質上、病院に似た雰囲気も漂う。その雰囲気に、少し物悲しさを感じる。…このどこかにみーさんも居たんだよな? どんな子供だったんだろう? きっと、今のまま気の強い女の子だったんだろうな。兄貴の事虐める奴がいたら、絶対にやり返したりしたんだろうな。彼女の事だ、どんな環境だって楽しいものに変えたに違いない。…それにしても…。
と、俺は、先ほどの由紀恵から告げられた、みーさんの過去についてに思いを馳せる。
あの傷は、火事が原因でできたものだったのか。なる程、それであのケロイドのような跡には納得がいった。けれど、あの頬の傷はなんだろう? 刃物で切ったようなあの傷の跡は? 大体、出火原因はなんだったんだろう? 一瞬、いやな想像をしてすぐに首を振る。いや、そんなわけがない。まさか、そんなわけが…。
しばらく、フロア内をうろついていたが、3度目に例の物干台に辿り着いた辺りでいい加減飽きが来る。それで、昇って来た時とはルートを変えて、エレベーターを使わずに階段で下に降りていった。降りた先はちょうど一階のロビーになってい。レクリエーションルームに戻るには、受付を過ぎて、医務室の横を通りさらに先まで進まなくてはいけない。ところが、受付を過ぎて数歩と行かないうちに、俺は身動きが取れなくなってしまった。なぜなら、そこに一枚の絵を見つけたからである。
それは、荒々しいタッチで描かれた巨大な木だった。おそらく3階まで貫かれているのであろう、あの大きな白い柱のまん中で、わずか●四方の紙を突き破るがごとくに、その幹はうねりながら空へと向かっている。幹の先からは二つに別れた枝が、まるで幹にかわり空をつかもうとするがごとくに広く、高く伸びている。そして、そのてっぺんには、太陽のような赤い花を咲かせており、その花からは異様な生命力がほとばしっていた。その、生命力に目を奪われたのかもしれない。
しばらく、その絵の前に立ち尽くしていると、後ろから唐突に話しかけられる。
「その絵、気にいったんですか?」
驚いて振り向くと、かなえが立っていた。
「あれ? もう仕事終わったの?」
「ううん。どうせだから、こっちでやろうと思って戻って来たんです。…デスクワークだし」
そう言って、かなえは手にしたファイルをこちらに見せた。
「それより、それ、いい絵でしょ? 私も好きなんです」
「君も?」
「うん。なんか迫力あるじゃないですか?」
「そうだね。誰が描いたんだろう?」
「ここの、通所の人が描いたんですよ」
「え?」
「びっくりでしょう? でも本当ですよ。長谷川さんっていって、個展もやってて、けっこうファンも多いらしいですよ」
「長谷川?…男? 女?」
「男の人です。30後半ぐらいの。でも、その人両手が無いんです」
「両手が?」
「はい。それで、こんな絵を描いちゃうんだから、本当に凄いでしょう?」
「ああ」
俺は戦慄しながら、その絵に眺め入った。