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とはいうものの、その道のりは思った程楽ではなかった。なにしろ、この大地という奴は予想を超えて歩くのが遅い。まず、歩き方が普通でなく、足を開いて腰を振りながら前進して行くのだ。
装具をつけた足からして、また、こいう場所にいることからしても、何らかの病気を持っているのだろうと頭では分かっているのだが、それにしても間が持たない。まるで、砂漠をあてどなくさまようキャラバンのような気分になって来る。軽々しく大地を歩かせる事に賛成した自分に後悔しかけた時、とうとう、大地が転んでしまった。
「大地君!」
かなえが足をひきずりながら大地の元に駆け寄り、手を取って立たせた。
「大丈夫? ねえ、やっぱり自転車に乗ろうよ」
そう言って、かなえがこちらを振り返る。(俺達は、かなえの希望で大地の後ろを歩いていた)
「乗るか?」
俺も声をかける。気を遣ったというよりは、その方が助かるという思いからだった。しかし、大地は首を振った。
「いい。歩けるから」
ヤレヤレ。こりゃ、随分頑張りやさんだ。感心するというか、あきれるというか…。
「大地君。頑張るのは立派だと思うけど…」
かなえが言う。
「頑張り過ぎても体によくないし、ダメならダメって認めるのも勇気だと思うよ」
「そんなの勇気じゃないよ!」
大地が言い返す。
「それに、僕、知ってるんだから。僕の病気はダメって認めたら、本当にダメになっちゃう病気なんだって。少しでも歩かないと、いつか本当に歩けなくなるんだって」
大地の言葉にかなえは黙り込んでしまう。そして、しばらくうつむいて考え込んだ後「分かった」とうなずいた。
「じゃあ、歩こう。そのかわり、手をつないでね」
しかし、少年はその申し出も拒否した。
「大丈夫だよ。一人で歩けるから」
そして、また、ぎこちなく歩き出す。かなえはその場にぽつんと取り残された。俺らはかなえに追いつくと、
「ねえ、今のどういう意味なの? あの子、一体何の病気なの?」
と、たずねた。
すると、かなえは答えた。
「大地君は、筋ジストロフィーという病気です」
「筋ジストロフィー? 何だ? それ」
「筋肉が壊れて、だんだん動けなくなっていく病気です」
「動けなくなる?」
「そうです。今は、無理してでもああして歩けるけど、いつか、全然歩けなくなってベッドに寝たきりの生活になるんです。足だけじゃなくて、体中の筋肉が壊れていくから、話す事もできなくなって、最後は心不全になって亡くなる事が多いそうです」
「心臓の筋肉も壊れるって事かよ?」
弟が後ろから口を挟む。
「そういうことになりますよね」
かなえはうなずいた。
「あの子が…? 嘘だろう?」
がく然として、俺は少年の後ろ姿を見る。かなえは、黙って首を振った。
「あの子は…知ってるの? 歩けなくなる事…」
「いいえ。まだ、そこまでは。ただ、足が悪いだけだって思ってるみたいです。でも、動かないと、病気の進行が速まるっていうのは本当の事なんです」
「それで、ああやって無理してるのか」
弟が言う。
「そうだと思います。それは、分かってるんだけど、どうしても、見ていられなくて…」
かなえの言葉が終わるか終わらないかのうちに、大地がまた転んだ。かなえが足を引きずり、大地の元に駆け寄っていく。そして、大地を抱き起こし、強引にその手をとると、2人でゆっくり歩き出した。その後ろ姿を見て弟がつぶやいた。
「あの体で、この車椅子を押して、あのグラウンドまで行くなんて…」
さすがの奴もショックを隠しきれないようだ。
車椅子の上では、俺らの話が分かっているのか、分かっていないのか、翼がぼんやりと座っていた。
それからしばらくカタツムリのごとき行進を続け、やっと目的地の建物に辿り着いた時、頭上からいきなり元気のいい声が聞こえて来た。
「あれー? かなちゃん、今日出勤なの?」
驚いて顔を上げると、目の前のレンガ色の建物の2階の洗濯物干場とおぼしき所から、髪の長い女の人がこちらを見下ろしている。
「あ、ゆきえさん」
かなえが叫んだ。
「ゆきえさんも出勤ですか?」
「見ての通り!」
ゆきえと呼ばれた女性が答える。
「っていうか、どうしてそこに大地君と翼君がいるの?」
「抜け出してたんですよ」
「抜け出してたー?」
ゆきえは、よほど驚いたのか声を上げると、
「ちょっと、待ってて降りていくから!」
と、いったん姿を消した。そして、やがて、建物の正面玄関から飛び出して来て、大地の元に駆け寄り、
「こらー」
と叫ぶ。
「どういうことよ。無断で抜け出すなんて」
「だって、翼がサッカーしたがるから」
「だからといって、2人きりで行っちゃ危ないだろう!」
「だって…俺、歩けるし」
「大地が大丈夫でも、翼が大丈夫じゃないでしょう? 何かあったらどうするの?」
そういうと、ゆきえは大地の頭を軽く叩いた。すると、大地が謝った。
「ごめんなさい」
なんだ、素直じゃないか…。
「で、ところで…」
ゆきえはかなえを見る。
「その人達は誰?」
「ああ…この人達は…」
かなえがちらっとこちらを見て言う。
「みーちゃんの知り合いで、河井さんといって、御兄弟です」
その言葉にゆきえは目を丸くした。
「みーの?」
「はい」
「じゃあ、もしかして、ボランティア志望とか?」
「あ、違います。私、足をくじいちゃって…それで困ってたら、偶然この人達が通りかかって、それで、ここまで送ってくれたんです」
「足をくじいた?」
「はい…。自転車ごと転んで…」
「大変じゃない! 早く医務室に行って湿布を貼ってきな!」
「あ…はい…でも」
かなえが俺達を見る。
「ああ。みーの友達なら遠慮しないでお茶でも飲んでいってよ」
「そんな、いいですよ!」
俺らは首を振ったが、ゆきえの押しの強さに負けて、ついに図々しくも上がりこむはめになってしまった…。