57
それから、坂の上をしばらく歩き道を左に曲がる。なだらかに下るその先は並木道になっていて、こんもりと木々の繁る施設へと繋がっている。その、涼しげな敷地のあちこちに、建物が点在しているのが見えた。
「あれが、『ふれあいの家』です」
自転車の荷台から、かなえが指をさす。
「へぇー」
俺は思わず声を上げた。
「こんな住宅街に、あんな施設がねえ…」
足を一歩踏み入れれば、そこはまったくオアシスだった。9月とはいえ、ここ数年来続く異常気象により真夏のごとく世の中を支配する猛暑などとはまるで無縁のような、ひんやりとした清浄な空気に満たされている。繁る木々が直射日光を遮ってくれるおかげかもしれない。点在する建物も、一目見て機能重視と思えるような灰色の鉄筋ではなく、昭和の昔を彷佛とさせるような懐かしい暖色系の物ばかりだった。
「なんか、癒されるな…」
思わず口にするが、返事はない。代わりに
「あの建物まで送ってくれますか? 事務棟なんです」
かなえが言う。見ると、なるほど100メートルほど先に円形の建物が建っている。
「あ、分かった。あれね」
うなずくと、ひたすら自転車をひいていく。その真ん前を弟は目の前を黙々と歩いている。かなえも黙ったきりだ。この上なく気まずい。しかし、このきまずさを打ち破れる程の話題もなく、ひたすら敷地内中央の事務棟を目ざしていった。
と、その時、どこからかボールか転がってきた。それはサッカーボールを模したビーチボールだった。どこから来たのかと辺りを見回すと、少し離れた高台の上から小学4年ぐらいの男の子が手を振っている。
「すいませーん、そのボール取ってもらえませんか?」
それを見て、荷台からかなえが叫んだ。
「大地君!」
すると、少年もかなえに気付いたらしく。
「あ、かなえさん。今日、仕事なんだ」
と、無邪気な笑顔を見せた。
「大地君、1人なの?」
「ううん。翼がいるよ」
「翼君がいるって…大人はいないの?」
「事務員のおじさんが、その辺にいるはずだよ」
「だったら、いいけど…」
「それより、ボールを取ってもらえませんか?」
「自分で取りにこりゃいいじゃないか…」
弟が小さくつぶやく。すると、かなえが言った。
「彼、足が悪いんです。あの階段を降りるのは無理です」
言われてみれば、なるほど、大地少年は銀色の機具みたいなのをつけている。そして、高台からここに来るには、たいして段数は無いとはいえ急な階段を下らなくてはいけないようになっている。
とはいえ、俺の手は塞がっているし、かなえは足を怪我しているし…。
「おい」
俺は目の前にヌボ−っと立っている弟に向かいボールを蹴り上げ
「持って行ってやれよ」
と命令する。弟は、はじめて気付いたようにボールを受け取ると、めんどくさそうに階段を昇っていった。そして、直に少年の横に辿り着くと「ほい」とボールを渡した。
「ありがとう」
大地が笑顔で受け取る。
「ねえ、大地君…!」
かなえが叫んだ。
「何?」
大地がこっちを見下ろす。
「大地君、翼君と2人で、どうやってここまで来たの?」
「俺が、翼の車椅子を押して来たに決まってるじゃん」
「大地君の車椅子は?」
「ちゃんと部屋に置いてあるよ」
「どうして乗って来なかったの?」
「どうしてって…俺が車椅子に乗っていたら翼を連れて来れないじゃないか」
「…でも、大地君だって、足が悪いのに。なんで、そんな無茶な事するの?」
「それは…翼がどうしてもサッカーやりたいって言うから…。俺は、翼と違って歩こうと思えば歩けるし」
「それならそれで、誰か大人を呼べばよかったのに」
「だって、土曜だし…呼ぼうと思っても誰も居なかったし」
「誰か一人ぐらいはいるはずだよ。お願いだから無茶しないでよ!」
「別に無茶じゃないよ」
「無茶だよ。ねえ、もう部屋に戻ろうよ」
「何で? まだ全然遊んでないのに」
「どっちみち翼君と二人でサッカーなんて無理だよ。戻ろうよ…!」
なんだか、かなえはもの凄く必死だ。しかし、さっぱり話が見えない。たまりかねて口を挟む。
「ねえ。カナエさん。全然話が見えないんだけど…。翼って誰? どこにいるの?」
すると、弟が上から叫んだ。
「ここに居るよ。そんなとこで言い争ってないで、上がって来いよ」
「上がって来いと言われても…」
俺はかなえを振り返った。すると、かなえは言った。
「弟さんの言う通りです。降ろして下さい。これぐらいの距離歩けますから」
「でも…」
俺は彼女の足を見る。しかし、
「本当に大丈夫ですから。ちょっとくじいただけだし」
と言って、彼女は強引に降りて行ってしまった。
「おい…待てよ! …もう!」
仕方なく、俺は自転車をそこに停め、かなえの後を追いかけて階段を昇って行った。そして、昇り切った時、全てに納得する。そこに、『翼』が居たからだ。彼は、車椅子に乗っていた。鼻にはチューブをさしている。俺らを見ると「あー」と声を上げた。一目で重度の障害児と分かる。
「事務員さんはどこにいるの?」
かなえが詰問するように言う。
「え…と。さっきまで居たんだけど…」
大地が言葉を濁す。あきらかに嘘をついている。かなえもそれに気付いたらしい。
「帰ろう!」
と少し厳しめの口調で言った。
「その方がいいな」
俺もうなずく。かなえが俺を見る。
「河井お兄さん…」
「優でいいよ」
「じゃあ、優さん。この子を自転車に乗せてあげて下さい。私は、歩けますから」
すると、俺の応えも待たずに「大丈夫だよ」と大地が叫んだ。
「僕だって、歩けるから」
「無理よ!」
「無理じゃないよ。さっきだって翼を連れてここまで来れたもん。ゆっくりだけど、歩けるよ!」
「無理だってば!」
「無理じゃない」
「無理よ! お願いだから言う事聞いて!」
なんだか、また二人だけでヒートアップしている。そこへ、弟が口を挟んだ。
「大地の言う通りにさせてやれよ」
「え?」
「詳しい事分からないけど、一方的にダメって決めつけられるの気分よくないと思う。仮に自分されたら、嫌じゃないか?」
その言葉にかなえは黙り込んだ。
俺は…俺にも詳しい事情は分からないけれど…弟の言う事にも一理あるような気がしたので
「じゃあ、とりあえずみんなで一緒に行こう。どうしても無理なら、その時自転車に乗ればいいよな」
と、折衷案を出した。
「でも…この子達の寮は、第2棟なんですけど」
「いいよ。どこでも送ってくよ。第2棟ってどこ?」
「あそこです」
そういって、かなえが指差す方を見ると、今いる広場からまっすぐ南に100メートル程先の木々の向こうに、4階建てのレンガ色の建物が見える。
「自転車、下に置いてあるじゃないですか。ここから、下に降りていったらすごく大回りになっるから、とても大地君には歩けません。やっぱり、無理です」
「ああ。そんなの、自転車を運んでくりゃいいだけの話だろ? 簡単だよ」
「…わかりました。それならいいです」
ようやく、かなえは納得したようだ。それで、俺は弟に言った。
「じゃあ、俺自転車運んで来るわ。お前は翼を連れて行ってやってくれ」
「へいへい」
弟は答えると、のそのそと翼の方に行く。
こうして俺達は当初の目的を変更して、事務棟ではなく、第2棟に向かう事になった。
サッカー好きの翼君が出てきますが,某マンガとは何の関係もありません。たまたまの偶然です。よろしくご了承ください。