56
しかし、考えてみれば俺も甘いよな。
本来、そんな事で仕事をさぼっちゃいけないんだ。いくら、リリカ…森崎の言葉がショックだったとはいえ…。
この甘さが、弟をダメにしたのかと思いながら家路につく頃には、すでに10時を回っていた。ただでさえ人手が足りないところに、弟が休んだ事でますます忙しくなり、この時間まで働くハメになったってわけだ。
疲れた体を引きずり家に辿り着き、玄関前で2階を見上げれば、弟の部屋の明かりはまだついている。何をやってるのかと部屋を覗けば、朝見たままの同じ姿勢でパソコンを見ている。石像みたいに固まった後ろ姿に「おい」と声をかけるが返事がない。それで、「おい」って言って部屋の中に入り、背中をつつく。すると、弟はギーっと音をたててこっちを向いた。いや、本当に音をたてたわけじゃないが、まさに音でも鳴りそうな感じだったんだ。
「おい、飯は食ったのか?」
と、尋ねると、
「食った。一応」
とのこと。
「あ、そう。じゃあ、いいや。さっさと寝ろよ」
と、部屋を出ようとすると、
「アニキ…」
死にそうな声が追いかけて来る。
「なんだ?」
振り返ると、弟は極めて驚くべき事を言った。
「俺、会社を辞めようと思うんだ」
「はあ?」
二の句が継げない。
「俺、今日一日考え抜いて気付いたんだ。俺は、あそこにいてはいけない人間だという事に…」
何をどう考えたらそういう結論になるのか? 悪い冗談なのか? しかし、弟の表情はいたって真面目だ。こりゃ本気で言ってるわ。それで、俺は慌てて奴の隣に正座して、軽く説教モードに入る。
「まあ、落ち着け。なぜ、どうして、そんな考えに至った? 兄ちゃんに説明してみろ」
「うん。話せば長くなるけど…」
と、弟は語り出した。
「実は、昨日インターネットの知り合いに言われたんだ。俺が前田にやった事は、俺が高校時代にIって奴にやられた事と同じだって」
「ああ…」
その書き込みなら、俺も見た。けど、見てないふりしてこう言う。
「Iって、お前の小説に出てきた因幡って奴か? あの裏切り者」
「そうだよ。俺の人生を8年間も無駄にさせた張本人さ。そいつと、俺が同じって」
「なる程、それで落ち込んでたってわけね」
「そりゃ、落ち込むさ。あんな奴と一緒って言われたら。俺は別に裏切ったわけでもないし、前田がこんな事になったのは、あいつが俺に不当な当たり方をしたからであって、いわば自業自得だろう? アニキはどう思う?」
「うーん」
俺は首をかしげた。弟が食い入るように俺を見てる。
「正直な事を言っていいか?」
「…いいよ」
「お前、ホームページに『内戦』って詩を書いてるよな」
「…書いてるよ」
「俺、あれは、お前が書いたにしちゃ良いできだと思ってるんだけどな」
「…だけど…なんだよ」
「今のお前はあの詩の作者とは思えない」
「…」
「むしろ、あの中でお前が批判した人間になってると思う」
「…」
「悪いな。こう言い方、卑怯かもしれないけど」
「いいよ。その事にはずっと前から気付いてた」
「気付いていた?」
「そりゃ、気付くさ。書いた本人だもん。でも、あれは、まごう事ない俺の本心だよ。学生時代に芯から思った事さ。でも、学生時代、もう一つ学んだ事がある」
「なんだよ」
「正しい事を言ってるだけじゃ、生きていけないって事さ」
「そうか?」
「そうだよ。今回の事だって、もし、俺が前田に同情して、前田を庇ったりしてたら、俺の方がひどい目にあってたさ」
「そういうもんかね。…でもさ、今回の件についてはイジメがどうこう以前の問題じゃないかと俺は思うけど」
「どういうことさ?」
「まず、お前にやるべき事があったってことさ。つまり、仕事をちゃんとやる事だよ。それができていれば、そもそもこんなもめ事にはならなかった」
「…それも分かってるよ。みんな俺が悪いんだ。俺が、あそこにいる事が悪いんだ。だから、俺はあそこにいちゃいけない人間なんだって言ってるんだ」
「ちょっと、待てよ…」
俺は慌てる。どうやら、引き止めるどころか、背中を押してしまったようだ。
「そう、慌てて結論を出すなよ。俺は、そうは思わないぞ」
「同情はいいよ。自分で分かってるんだ。現に前田がいなくなった今、俺がいる事でみんな苛立ってる」
「そんな事…」
ないとは言い切れないが…。
「兄ちゃんには分からないよ。まるで、針のムシロなんだ。この辛さが分かるか? 相手も苛立つ、俺も辛い。お互いに何もいい事がない」
「そうかもしれないけど…!」
俺は声を荒げた。
「それを克服しない限り、お前はどこに行ったって同じだぞ」
「…」
「俺は思う。お前には2つの道しかない。針のムシロの辛さに耐えるか、それともこれを克服するか」
「辞めるって選択もある」
「いいや違う。そんなのは逃げだ。選択じゃない。とにかく、自分から辞めるな。会社が辞めろと言うまで粘れ」
「はあ」
弟がため息をついた。
「もういいよ。兄ちゃんには俺の気持ちなんか分からないんだ。俺の決心は変わらないよ」
そう言って背中を向けると、それきり弟は、何を呼びかけてもうんともすんとも答えなかった。
そうは言っても、この人手不足のおり、さすがの弟もそう簡単に「辞めさせてくれ」とは言い出せないようで、何だかんだいってそれから一週間程過ぎてしまった。
そして、9月の第ニ土曜日。両親揃って親類の家に泊まりに行ってしまったため、珍しく兄弟揃って近所のスーパーに買い物に行く事になった。店はそう遠い場所にある訳でもないので、2人でだらだらと緩い坂道を上がっていくと、坂の上から黄色いオレンジが転がって来る。「あれ?」と思い、オレンジを拾って見上げると、緩やかな坂のてっぺんでうずくまってる人影がある。その横には自転車が倒れていて、カゴに入ったビニール袋の中から野菜や果物がこぼれだしていた。
「大丈夫ですか?」
声を上げ、坂を登る。人影は、どうやら女性のようだ。足を抑えて痛そうに眉をしかめている。その顔を見て俺は「おや?」と首をかしげた。すると、向こうも顔を上げ、俺の顔を見て「あれ?」と言う。
「もしかして、河井さんの…お兄さんの方ですか?」
それが分かると言う事は間違いない。
「君、前に飲み屋で会った」
「そうです。尾崎かなえっていいます」
そういうと彼女は眼鏡越しににっこり笑った。
ちょうどそこに弟が追い付いて来る。やつは、その手に、拾い集めたらしき野菜を抱えていた。そして「おい、大丈夫かよ…」と言いかけて、口を閉じる。奴にも彼女が誰か分かったらしい。そして、なんとも気まずそうな顔をした。
…そういえば、みーさんが彼女と弟をしきりに会わせたがっていた事を思い出す。弟は一切拒否していたが、まさかこんな所で再会とは…なにやら運命的なものを感じないでもなかった。
しかし、弟はそっぽを向いていた。無愛想な奴だ。というか、むしろ、感じ悪い。しかし、一方の彼女の方も気まずいに違いないらしく、なんとも居心地の悪いムードが漂ってきた。いや、そんな事言ってる場合じゃない。
「大丈夫? 自転車倒したんだろ?」
「あ、…ええ。自転車ごと倒れちゃって。でも、大丈夫です」
そう言うと、彼女は立ち上がり、自転車を起して、弟から野菜を受け取ると「ありがとう」と言ってひょこひょこと歩き始めた。どうやら、足をくじいているらしい。
「おい、待ってよ」
俺は叫んだ。
「そんな足で一人じゃ無理だよ。どこまで行くの? 送っていくよ」
「いいえ。大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないって」
そういうと、俺は彼女から強引に自転車を奪い取り、彼女を後ろの荷台に乗せた。
「さあ、どこまで?」
尋ねると、彼女は「ふれあいの家」と答える。
「ふれあいの家?」
それどこだっけ? 聞いたような聞かないような…。首をかしげていると、弟が無愛想に言った。
「坂上町の福祉施設だよ」
「福祉施設?」
「ああ。障害者対象の入所施設」
「お前、よく知ってるな」
「みーさんから聞いた」
「へえ、そこで間違いないの?」
尋ねると彼女はうなずいて言った。
「ええ。私、先月からそこで働いてるんです」
「なる程ね。で、正、お前、道知ってるのか?」
俺の問いかけに弟が仏頂面で答える。
「一応…」
「そうか、じゃあ案内してくれ。行くぞ」
号令をかけると、俺らは坂の上の道をゆるゆると歩き始めた。