55
「前田君は、今日も休むそうだ」
朝礼の時、小金井さんが言った。
「まだ、ちょっと、具合がよくないそうだ」
えーって感じでざわめきが走る。あの事件から数えて既にもう10日目だ。見かけ程重傷ではないから、すぐに復帰できるんじゃなかったのか?
「何が、どう悪いんですかね?」
作業をしながら隣の川岸さんに言う。
「さあ、何か後遺症でもあるんじゃないのか?」
「でも、見かけ程重傷じゃないし、後遺症はないって医者も太鼓判押したそうじゃないですか。なのになんで、出て来ないんですかね?」
「俺に聞かれても…」
川岸さんはそっけなく答えると、俺の言葉を拒否するように、自分の作業に没頭しはじめた。
「まったく…」
うだるような暑さの中、独りごちる。
「早く戻ってきてくれないと困る…」
前田君の抜けた穴は、思いのほか大きかった。それは、彼が常日頃から人の3倍以上も仕事をこなしていたからである。連日の残業時間はさらに増えた。けれど、俺が困っているのは何も忙しくなったからじゃない。忙しいのは苦にならない。それより、何より、当惑しているのは、これではいつまでたっても『辞める』と言い出せない事だ。この状況下で『辞めさせてください』と言い出せる程、俺は鬼でも蛇でもない。
「盆明けには戻って来るんじゃないか」
川岸さんがボソリと言った。
「そうか」
言われて気付く。
「そういえば、もうすぐ盆休みか」
「そうだよ。ついでに、長期休暇とってやろうって魂胆じゃないか?」
「ありえますね」
…だとすれば、あと10日程の辛抱だな、と無理矢理自分を納得させ、俺も自分の作業に没頭しはじめた。
しかし、期待も空しく、盆があけても前田君は戻って来なかっった。かわりにこんな噂が流れはじめた。『どうやら、前田は精神的な事が原因で、会社に来られないらしい』
「…つまり、それって、登社拒否って事ですか?」
俺は、みーさんに尋ねた。すると、みーさんがパンをかじりながら答えた。
「心の病気で、会社に来られなくなったって事よ」
「心の病気って…鬱病とか?」
「詳しい事は、分からないけど…」
「…信じられないな。あの気の強い前田君が…」
「でも、そうなんだって」
みーさんの横で、弟が黙々と定食を食っている。食堂で3人揃って昼飯を食うのは久しぶりなのに、その日の弟は終始無言だった。
「前田、クビになるのかな?」
その日の帰り道、弟がボソリと言った。
「いや、…社員だから簡単にはクビにしないだろう」
「社員なら無事なのか?」
「…みたいだよ。それに、彼、優秀だったし」
「ふーん」
「けど、本当に信じられないな。あの前田君が心の病なんて」
「そうだな。人を追い詰めても、自分は追いつめられない奴だと思ってたのに」
「人は見かけによらないって事かな。かえって、ああいう、弱味を見せたがらない人程、限界を越えると弱いのかも」
「前田、限界を越えたのか?」
「じゃないかなあ? 俺が思うに、色々重なって参ってた心が、あの事故をきっかけにポキンと折れたんじゃないかな?」
「それって、俺のせいって事?」
「さあ…俺にはなんとも…」
「…自業自得だろ」
「そんなもんかねえ…?」
それきり、俺達の会話は途切れた。
それ以後、俺のいるフロア内では、前田君の話題はタブーになった。確固とした理由があるわけでなく、なんとなくそうなった。多分、大半の人間に自分達が彼を追い詰めたという自覚があったからだろう。自分の罪を自覚し、反省する事はいい事だ。しかし、この場合、困った事に自責の念が負のエネルギーを産み出した。そして、その鉾先は弟に向かっていった。というのも、全ての原因は弟の無能さにあったからだ。前田君というスケープゴートを失った今、弟は再び自分の無能さと向き合わなければいけなくなった。それで、以前は頻繁に聞こえていた弟を罵る前田君の声が、今度はBグループの誰某に変わった。
「おい、河井。また、部品入れ間違えてる」
「お前、何、モタモタしてるんだよ!」
こうして、話は振り出しに戻り、俺の東京への道は再び遠くなった。
「おい、正、起きろよ!」
9月の第一日目の朝、俺は弟の部屋のドアを叩いた。
「休むのか? おい、正」
返事がない。
「おい、開けるぞ」
やはり、返事がない。それで、ドアを開けて突入してやると、パソコンの前にうずくまっている弟の姿があった。
「おい、何、ネットなんかやってるんだよ? もう、会社に行く時間だぞ」
すると、弟は、背中を向けたまま「休む」と答えた。
「どこか、悪いのか?」
「別に」
「じゃあ、なんで?」
「…」
「おい、なんでだって聞いてるだろ」
「…」
「おい、なんとか言えよ」
そう言うと、俺は奴に近付き、弟が見ている画面を覗き込んだ。そして、ドキッとする。弟が見ているのが、リリカの…森崎の掲示板だったからだ。瞬間、あの日の、白いブラウスの森崎の姿が目に浮かぶ。が、それを払いのけ、俺はさらにパソコンに近付き、そこに書かれている文字を目で追った。
そこには、こう書かれていた。
「モグちゃんが、そのMさんにやった事は、モグちゃんが、学生時代に因幡って子にやられた事と同じだよ」
…ああ、言われちゃったか…
俺は同情と、哀れみの目をもって、弟を見下ろした。
…これに、ショックを受けたんだろうな。
「おい、正」
俺は、弟の肩を叩いた。
「しっかりしろよ、本当に休むのか?」
すると、弟は無言のまま、頭をたてに振った。
「分かったよ」
ため息をつき、立ち上がる。
「好きなだけ、考えろよ」
そう言うと、俺は奴の部屋から出ていった。