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人間危機に瀕した時は一秒が何分にも感じられるというが、その時、俺の目に映った光景がちょうどそんな具合だった。そう、まるで映画のコマ送りのように思えたんだ。
まずは弟が「危ない」と叫んだ。
その声が終わらぬうちに、崩れかけていたブラウン管テレビが前田君めがけて落ちていく。
弟が、手を伸ばし、前田君の腕をつかむ。
そして、前田君を思いきり引っ張る。
TVが前田君の頭に当る。
前田君が白目を向き弟に倒れかかる。
その勢いで、弟の腰がくだける。
そして二人同時に倒れる。
その後は、ドンドンドン…と響きをたてながら数台のテレビが落ちてきて、そして…。
「おい! 大丈夫か!?」
原口さんが叫んだ。
それで、ぼう然とこの光景を眺めていたフロア全員が我にかえった。
目の前には、蹴散らされた積み木のみたいにテレビが転がっている。床の上には割れたガラスの破片が光っており、そのまん中あたりに、折り重なるようにして倒れている弟と前田君の姿があった。二人とも辛うじてテレビの下敷きにはなっていないものの、ピクリとも動かない。その、あまりの動かなさに不安になる。…まさか、打ちどころでも悪かったのか?
「正…!」
俺は、仕事場である事も忘れて弟の名を呼んだ。すると、弟は上半身をむくりと起こす。そして、服についたガラスの破片を手で払うと「大丈夫。ちょっと驚いただけだ」と言った。それで、ほっと胸をなでおろす。
「ケガはしてないか?」
原口さんの言葉に、弟は体のあちこちをさすりながら
「…今のところ、どこも痛くないから大丈夫だと思う」
と答えた。すると、再び原口さんが尋ねた。
「前田は?」
「…前田?」
弟はつぶやくと、己の膝の上にのっかっている前田君を見下ろした。前田君はうつ伏せに倒れたままぴくりとも動かない。眉をひそめながら、弟は前田君の頭を軽くつつき、つついたと思ったら手を引っ込め、悲鳴を上げた。
「…し…死んでる! 死んでる!」
「何だって?」
原口さんが青ざめる。
「血が…血が…こんなに…!」
そういって、ひろげた弟の手にべっとりと血がついていた。
「そんなに落ち込む事ないよ」
皿にのってる揚げ物をとりわけながらみーさんが言う。
「正ちゃんだけの責任じゃないし」
ここは『さくら』。以前、小金井さんに連れてきてもらった居酒屋だ。
「確かに」
俺は、ビール片手にうなずいた。
「必ずしも、お前だけの責任じゃない。カゴ車が倒れたのは、ケリを入れた前田君のせいだし」
その言葉に、弟がちらりとこちらを見た。
「ただし」
…と俺は付け加える。
「あのカゴ車をあそこに置いたのは、お前だけどな」
「じゃあ、やっぱり俺のせいって事じゃないか」
「だから、お前のせい『だけ』とは言ってないだろう? けど、もしも前田君が事件の当事者でなければきっとこう言うだろう。『だから、カゴ車を2台並べるなって言ったでしょう?』」
軽く前田君の口まねをすると、みーさんが吹き出した。しかし、弟は露骨に嫌な顔をする。
「落ち込んでる人間に向かって、よくそこまで言えるな。それでも、アニキかよ」
「血の繋がった人間だからこそ言える、厳しい意見ってのもある」
「鬼かよ…」
「でも…!」
と、みーさんが割って入って来る。
「みんなが騒いだほど、たいしたケガじゃなかったってコガちゃんも言ってたじゃない。正ちゃんがそこまで落ち込む事ないよ」
そう。弟は、死んでるのなんの大騒ぎしたが、前田君のケガは奇跡的に軽症だった。とはいえ、確かに出血はひどかった。それは、ガラスで頭を切ったからで、頭ってのは大袈裟に血が出るもんらしい。それに、脳しんとうをおこして救急車で運ばれはしたものの、搬入先の病院ですぐに意識を取り戻したそうだ。他には体のあちこちに、軽い打ち身とねんざ。頭を針で縫い、念のために一日入院するらしい。ちなみに弟はといえば、まったくの無傷だった。
しかし、体は無傷でも、精神的になダメージが相当ひどいらしく、午後はろくに仕事にならなかったようだし、仕事が終わっても自縛霊のごとく作業台の前にうずくまって、いつまでたっても動こうとしないので、心配になった俺がみーさんの力を借りて、ようやくこの『さくら』まで連れて来ってわけだ。
「…それに」
と、みーさんが言葉を続ける。
「確かに、前田は、ケガをして大変だし、かわいそうだけど、ある意味自業自得だと思うよ」
「自業自得って、どういう意味?」
俺はみーさんに尋ねる。
「正ちゃんを虐めた天罰よ」
「それは…」
違うでしょう? と言いかける言葉を、弟が遮った。
「そうかな」
「そうよ」
「でもさ、俺、妙にひっかかるんだよ」
「なにがひっかかるの?」
「…あいつに言われた事だよ」
「前田が正ちゃんになんか言ったの?」
「うん。『俺だって、できないなりに頑張ってるんだ』って言ったら『誰だって必死で頑張ってるんだ。やり方が分からなきゃ、自分で考える努力をしろ』ってさ。俺なりに頑張ってるっていってるのに…」
「そりゃ、頑張る方向が間違ってるって事じゃないのか?」
俺は口を挟む。
「もしくは、もっとやるべき事があるのに、見えてないって事か」
「でも、俺、精一杯やってるつもりなんだ。でも、ダメなんだから仕方ないだろう?」
「…前田君は、自分で自分をダメと決めつけるなって言ってるんじゃないかな?」
「そうなのかな?」
弟はそう言うと、黙りこくってしまう。すると、みーさんが、また慰めにはいる。
「どっちにしても、あの子もたいしたケガじゃないし、3日もすれば戻って来れるってコガちゃんも言ったじゃない。だから、そんなに気に病む事ないよ」
「うん。みーさんの言う通りだ。終わった事をくよくよしても仕方がない。肝心なのは、これからどうするかさ」
「これから?」
「そうだよ。もし、お前が前田君に対して責任感じるなら、この先彼が納得してくれるまで頑張るしかないよ」
「どうやって? 俺は精一杯やってるつもりだって言ってるのに」
「だから…彼の言った事にヒントがあると思うよ、俺は」
そう言うと、俺は目の前のグラスを一気に飲み干した。
この時…前田君には気の毒だが…俺は弟のために少し喜んでいた。なぜなら、こうして自分を振り返るきっかけを彼は弟に与えてくれたからだ。もし、弟が彼の言った事を心か理解して、そして前田君と和解できれば、弟はワンステップ前に進める事になる。その一歩が、奴に生きるための真の自信を与えてくれるだろう。そう、期待したからだ。
けれど、その夢が叶う事はなかった。
なぜなら、それきり前田君が会社に来なくなったからだ…。