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神様の不良品  作者: 橘 明
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 それでも…たとえ錯覚とはいえ…工場を辞めると決めた途端に俺の心は驚く程軽くなっていた。まるで、今まで自分の上に覆いかぶさっていた大きなおもりが取れたような心地だ。それほど、ここでの暮しが俺にとって苦痛だったということだろう。


 …しかし、辞めると決めたはいいが、いつ上司にきりだそうか。


 ドライバを片手に思案する。


 なにしろこの人手不足のおり、相変わらず毎日皆が残業をやらざるを得ない状況下だ。軽々しく「辞めさせてください」とはさすがの俺も言いにくい。第一、あっさり辞めさせてもらえるかどうかも分からない。さりとていつまでも、心にもない場所でずるずる働き続けられる程のお人好しでもなし、どちらにしろ、一刻も速く切り出さなくてはならない。俺の人生なのだから。


 作業台に置かれた卓上カレンダーを見て日にちを数える。辞めるにも最低1ヵ月はかかる。今日は8月4日だから、今日辞めさせて欲しいといってすんなり受け入れてもらえたとして……辞めるのは9月3日か。9月…盆休み後2週間強。どうだろう? まだ忙しいだろうか? 少しはヒマになってるんじゃないだろうか……そんな風に思案した時だ。突然、背後から誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。やれやれ、また喧嘩かよ…と思いつつ、野次馬根性でそちらをみてぎょっとする。

 いや、喧嘩自体には、もう慣れっこだ。なにしろ、この職場ときたら3日に1度は誰かが誰かをののしっている。じゃあ、何に驚いたかって、今回の喧嘩のメインキャストの意外さだ。


 その一人は、前田君。今さら言うまでもない、Bグループの口うるさい責任者だ。

 そして、もう一人は、弟だ。よくある取り合わせといえばいえる。(もっとも最近はめったに見ない取り合わせになっていたが)

 それの何に驚いたかって? それは、怒鳴っているのが、前田君でなく弟だった事だ。そうだよ。あの弟だよ。つい、この間まで前田君に怒鳴られては小さくなっていた、あの、役立たずの弟だ。

 弟は、言った。


「お前は、いちいちうるさいんだよ。人の事見てんなよ」


 どうやら、前田君に何かを注意されて、逆切れしているようだ。前田君、ここのところ沈黙を守っていたはずなのに…よほど弟が間抜けなドジをふんだんだろう。その当の前田君は、弟の反撃に少々面喰らった顔をしていたが、しかし、穏やかに言い返した。

「落ち着いてくださいよ。ボクは、ただ、素材の分別はちゃんとしてくれないと困るって言っただけですよ。ほた。黙っていたら、3回めでしょ? 同じミス」

 口調は丁寧である。気をつかってるな、前田君。まあ、口調が丁寧な分、皮肉がきいてかえって慇懃無礼って気がしないでもないけど。

「だから、何回とかイチイチ数えるなって言ってるの。細かいんだよ。人間ならたまに間違える事ぐらいあるっていうの」


 …おいおい。何だ? そのへ理屈は。どう見ても、悪者になってるぞ、お前…。


 心の中で弟に語りかける。

 その、弟に対する前田君の答えが、また傑作だった。


「いや。仕事場では、フツーないです。少なくとも、僕の知る限りではないです」

「なんだと?」

 この言葉に弟が逆上した。さすがに、馬鹿にされたと分かったんだろう。

「お前、偉そうなんだよ。そんなんだから、みんなに嫌われるんだよ。知ってるか? みんながお前の事をなんて言ってるか」

 『みんな』ってのは、みーさん並びにグループの仲間の事か…。

「知りませんねえ」

 前田君が首をかしげる。なんか余裕の態度だ。

「どう言ってるんですか?」

「傲慢で、感じの悪い奴だよ」

「へー。そうですか」

 前田君はくすっと笑った。

「別に、全然構いませんね、僕は。『できない奴』って言われるよりマシですから」

「できない奴?」

 弟が顔を引きつらせて言う。

「…それ、誰のことだよ」

 お前のことだよ…と、俺は心の中で突っ込んだが、前田君は「さあねえ…」と明確には答えず、かわりにこう言った。

「ところで、河井弟さん、満足ですか?」

「何がだよ?」

「女性に守られて、さぞかしいい気分でしょうね」

「なんだと?」

 弟が色をなした。

 俺は耳を塞ぎたくなる。弟よ、お前に勝ち目はない。おとなしく、引っ込んでいろ。

 ところが、その時、弟に加勢する声が上がった。

「おい、前田、言い過ぎだぞ」

「思い上がり過ぎなんだよ、お前は」

 原口さんと佐々木さん(Bグループの一員)の声だ。すると、それまで冷静だった前田君がついに爆発した。

「誰が思い上がってるんだよ」

 ものすごい怒声だった。あまりの大声にフロア中がシンとなる。

「お前らがそうやって甘やかすから、こいつがいい気になるんだろう。ここは仕事場だぞ。まずは、ちゃんと仕事をしろよ」

 その剣幕に弟も真っ青になる。

「河井、弟。お前もだよ。仕事できてから、そういう事は言えよ。お前のだらしなさで次工程から山のように苦情きてるんだよ。誰が始末つけてやってると思ってるんだ?」

「…」

「大体、お前、昨日の解体台数何台だ?」

「……」

「忘れたなら教えたやるけど27台。残業2時間やって30台! 他のメンバー定時内に一日平均34台のところ、お前だけ30台。俺に叱られる前に、自分で自分を恥ずかしいと思えよ」

「…」

「俺は、別にあなた方に何を言われようが全然構わないんで、仕事だけはちゃんとやってください。以上です。それじゃ、作業台に戻ってください」

 そう言うと、前田君はくるりと向こうを向いた。

 しかし、弟はいつまでもその場から動こうとしない。訝しく思ったのか、前田君はもう一度奴を見て

「早く、作業台に戻れよ」

 と、言った。しかし、それでも弟は動こうとしない。そして、動くかわりに言った。

「あんたなんかに、何が分かるよ」

「…はい?」

「あんたみたいに、なんでも器用にこなせる奴に、俺の何が分かるかって言ってるんだよ」

「僕が、器用ですって?」

「そ…そうだよ。俺は、俺なりに…これでも、必死なんだよ」

「…だったら、もっと必死になって下さい。さ、作業に戻って」

 前田君はにべもなく弟を追い払おうとする。しかし、弟は動こうとしなかった。

「だから、俺なりに必死だって言ってるんだよ。分かって欲しいんだ。ただ、それだけだよ」

 しつこく食い下がる弟の態度に、とうとう前田君は切れたようだ。

 目の前にあるカゴ車を蹴りつけた。ちなみに、カゴ車は前田君のさんざんの注意にも関わらず、2台並べられていた。前田君もあきらめたのか、もう何も言わない。前田君は、テレビが高く積み上げられたカゴ車の底を思いきり蹴りつけると、弟の顔を見てこう言った。

「甘えるなよ。誰だって必死で頑張ってるんだよ。やり方が分からなきゃ、自分で考える努力をしろ!」

 

 その時だった。

 カゴ車がガタンと音をたてて傾くのが目に入った。

 それは、スローモーションみたいにゆっくりとした動きだった。

 その勢いで、積み上げられたブラウン管テレビ達も傾ぎ、黒い津波みたいに前田君に襲いかかっていった。


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