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神様の不良品  作者: 橘 明
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 目の前に塔がそびえている。あれは鉄塔だ。太陽の光を受け、鈍く銀色に光っている。しかし、奇妙な塔だ。屋上に街が広がっている。それは、緑があふれる平和そうな街だ。

 街のあちこちには銀色の建物が点在していて、街の中央には美術館がある。そして、その建物を背に俺が、俺に向かい合うようにして森崎が立っている。

 森崎は言った。

「今日は、ありがとう。おかげでモネの絵が見られてよかった」

「礼なんていいよ。…それより、これからどうする?」

「そうね…」

 森崎はちょっと首をかしげ、考えるような顔をしたが、すぐにこう答えた。

「会社に戻るわ」

「今から?」

「うん。この近くだし、まだやらなくちゃいけない仕事があるし」

「徹夜あけで?」

「大丈夫。仕事場で、少し眠るから」

「でも、今日は休みだろう?」

「今、すごく忙しくて…」

「そうなんだ」

「うん。だから、しばらくは連絡できないかも」

「…そう」

「じゃあ、今日は本当にありがとう」

「だから。礼なんていいよ。それより、仕事頑張れよ。倒れるなよ」

「ありがとう。大丈夫だよ。じゃあ…」

 そういうと、森崎は手を振ってかげろうみたいに消えていった。残された俺の胸にうら寂しい風が吹き抜けていく。


「おい! アニキ」

 ふいに肩をゆさぶられ、俺は我にかえる。目の前に弟の訝しげな顔があった。

 今は仕事場で作業中だ。目の前に緑の基板を乗せた、塔みたいな偏向ヨーク(ブラウン管テレビ内の部品)が立っている。いかんいかん、現実逃避していたらしい。しっかり仕事をしなければと、ドライバーを手に取る。すると、

「おい、何やってるんだよ。もう、昼休みだぞ」

 弟が言った。

「え? マジで?」

 時計を見ると、確かに12時過ぎていた。

「大丈夫かよ、アニキ。こないだの日曜から、なんか変だぞ。例のなんとかって彼女となんかあったのか?」

「いや? 何もないよ。気のせいだろ?」

 言うと、俺はカバンを持って立ち上がった。そして、弟をおいてさっさと歩き出す。

「おい、待てよ」

 弟の声が追いかけて来る。

「あのさ、アニキ。俺、今日はグループの人達と一緒に食べるんだけどさ、アニキも来る?」

「え?」

 俺は振り返って弟を見た。

「グループの人達と一緒に? 随分仲良くなったもんだな」

「いや…」

 弟は少しはにかんだ。

「そうじゃなくて、みーさんがみんなに何か話があるって言うから」

「ふーん」

 みーさんの話っていえば、大方前田君の悪口か何かだろう。しかし、正直言って昼飯時に、そんな話は聞きたくない。それで、俺は弟に言った。

「…いや。俺はパンでも買って外で食うよ」

「外で? 何で?」

「うん。実は、外でスケッチをしようと思って…ほらスケッチブックも持ってきてるんだ」

 そう言うと、俺はカバンの中からスケッチブックを取り出した。

「スケッチ? 仕事中にお絵書きかよ」

「休み時間だろ? この間から、構想が浮かんで、浮かんで仕方がないんだ。消えないうちに書き留めたくて」

「ふーん。相変らずの変わりもんだな。まあ、いいや、勝手にしろよ。俺は、食堂に行くから」

 そう言うと、弟はさっさと行ってしまった。


 スケッチをしたい…それは本当だ。

 しかし、構想が浮かんで、浮かんで仕方がないというのは、嘘だ。確かに、ぼんやりとしたイメージは見えているが、一つきりだし、いまだに紙の上に描き出せないでいる。ともあれ、俺は出荷倉庫裏の狭い空き地に腰を降ろした。

 ここは、以前、よく一人でスケッチをしていた場所だ。そして、森崎と再会した場所でもある。フェンス越しに小川が流れ、その先に緑の田んぼが広がっている。のどかな風景だ。

 俺は、フェンスのそばに寄り、流れる川を見降ろした。水面に、小さな水草が生えている。小さな草だが、その円い形が少し睡蓮に似ていると思う。睡蓮の連想からモネの絵を思い出し、さらにそれが飾られた美術館の一室を思い起こさせ、やがて思考の糸は森崎へと繋がる。


「それで、河井君はこれからどうするの?」

 と、あの日、彼女はたずねてきた。とても真剣な目をしてたずねてきた。けれど、俺は何も答えられなかった。答えられずに立ち尽くしていると、彼女の目にみるみるうちに失望の色が浮かんで来た。

 そして、彼女はひとりで先に歩き始めた。歩きながら言った。まるで、ひとりごとのように…。


「東京に、帰った方がいいのかもね」

「え?」

「だって、河井君は何も見ていない。何も聞いていない。私のことも見ていない。ただ、そこに居るだけ」



 水草が、川の流れのままに揺れている。

 確かに、森崎の言葉の通りだ。今の俺は何も見ていない、何も考えていない。流れにまかせて漂っているだけの、根無し草みたいなもんだ。

 スケッチブックを開いてフェンス越しに水面を描く。モネがそうしたように、光を写しとろうと試みる。しかし、川の流れは案外早くて、紙の上にはうまく留められない。俺は、絵を描く手を止めて思った。


 …このままじゃ、時間が過ぎていくだけだ。そうだ、そろそろ決着をつけないといけない。


 そして、再び手を動かしはじめる。川の流れの上に、なぜか俺は弟の顔を描いていた。絵の中で、弟は笑っている。その絵を見て俺は決意した。


 …そうだ。もう戻ろう。ここから、出ていこう。


 そう決めた途端に、雲間からにわかに青空が見えたような心地になる。それは、つかのまの晴れ模様かもしれないが。

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