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けれど前田君が偉かったのは、1日たりとも仕事を休まなかった事だ。無視されようが、聞こえよがしに嫌みを言われようが、嫌がらせをされようが、毎日必ず始業時間には現れ、黙々と業務をこなしていた。さすがは、この若さでグループの管理をまかされるだけあって、低レベルの争いには目もくれないのかと感心していたが、実はそうでもなくしっかりダメージは受けていたらしい。仕事はきっちりこなすものの、以前のように口やかましく注意する事は無くなり、したがって口数も減り、日に日に元気が無くなって行った。それと、対照的にうちの馬鹿弟は日に日に元気に…いや、日に日に増長していく。それは、決して仕事ができるようになったからではない、味方が増えたからでもない。単にアンチ前田君が多かったからだ。奴は依然として足手まといであり、内心苛ついている人もいたと思う。しかし、とりあえずの共通の敵が前田君だから見逃してもらえているというだけのことだ。
「でも、何とか仕事をする事には慣れてきたってことよね、正君も」
全てを聞き終わると、森崎は言った。
「まあね。以前よりは気が楽になってきたみたいだよ」
俺はレンガ色の建物の向こうにそびえる鉄塔を見上げながら答える。銀色の鉄塔は7月の日ざしを受け、ギラギラと光っていた。
「どうりで、最近サイトに書き込みしてこないと思った」
「サイトって、森崎の?」
そういうと、俺は鉄塔から森崎へと視線を移す。森崎は白いワンピースに、白い帽子をかぶり、白いベンチに座っていた。
「うん。でも、書き込みがないって事はいいことよ。リアルの生活が充実しているって事だから」
「ふーん…そういうもんなの?」
俺は書き込みとかしないから(そもそも、インターネットをする環境もないから)よく分からない。
と、その時、広場中央の時計が10時を告げる鐘を鳴らした。それを機に、俺達はベンチから立ち上がった。
7月終わりの日曜日、つまり、今日。
俺は森崎からの電話で朝早く起こされた。
なんでも「市の美術館でモネ展があり、今日で最後だから付き合ってほしい」という。「仕事で徹夜開けでしんどいけど、どうしても見たいから」と。
モネは嫌いじゃないから「いいよ」と答えた。「じゃあ、美術館で待ってる」と森崎は言った。徹夜明けで美術館に直行してしまったために、その時既に会場前の広場にいて、話し相手もなく手持ち無沙汰にしてるんだそうだ。それで、俺も急いで美術館に向かった。しかし、あまりに早く着いてしまったために、まだ会場は閉まっていた。それでベンチに座って開場時間を待っているうちに弟の話になったというわけだ。
まあ、そんな事情はどうでもいいだろう。とりあえず、俺達はレンガ色の美術館の中に入っていった。
会場の中に入ると、白い展示場にモネの代表作である睡蓮の絵が飾ってあった。
壁の端から端まで届く程の横長のキャンバスのあちこちに、うす桃色の睡蓮の花が浮かんでいる。水面には柳の影が映りこみ、そのため本来青色のはずの水面の大部分が深緑に染められていた。次の部屋にも大小さまざまの睡蓮の絵が飾られていた。それらは、歩をすすめる程に水面と睡蓮の輪郭があいまいになり、水面の青色に花も柳の影も溶け込んでいき、いつしか夢の中を漂っているような幻想的な気分になってくる。
大昔は、正直いってこの画家の価値が分からなくて「睡蓮ばかり描いて何が楽しいのか」と生意気な事をほざいていた。けれど、今はそのすごさも何となく分かるようになってきた。人間的に成長したのかもしれない。さらに先に進むと、モネの比較的初期から中期の作品ばかりが飾られた部屋にたどり着いた。
「綺麗な人だったんだね」
森崎が言う。
彼女の目の前には赤い着物を着た金髪の女性の絵が飾られていた。
「これって、モネの最初の奥さんなんでしょ?」
「うん。カミーユ・モネだ」
俺はうなずいた。
「彼は奥さんや家族をよく絵の中に登場させてるらしい。ほら、これもカミーユだ」
と、俺は横に飾られている絵を指さした。そこには、白いドレスを着た女性が日傘をさして立っていた。彼女は丘の上で強い風を受け、髪をなびかせている。
「よっぽど彼女を愛してたのね」
「その割に再婚するけどね」
その言葉に、森崎がちょっと笑った。それで、俺は森崎が今日はじめて笑った事に気付く。
「でも、家庭的だったのは確かだ。庭いじりが好きだったみたいだし」
「庭いじり?」
「そうだよ。モネの睡蓮の連作は、彼の庭の池に咲いていたものなんだよ。モネは抽象画の先駆けともいわれるらしいけど、それ以上にガーデニングの先駆けでもあるって世界の常識」
「何それ」
森崎が、また笑った。
「河井君はモネに詳しいね」
「割と好きだからね」
「そうなんだ。ちょっと意外」
「意外かな?」
まあ、そうかもしれないな。俺の神経質で暗い画風と、モネの世界とはあまりにも違うしな。そういえば、モネの絵と師匠…菊池大成の絵はどこか似ている。一見無造作のようでもあり、的確にも思われるような筆の置きかたも、描かれている世界の明るさも。もちろん、二人とも明るい世界ばかりを描いていたわけじゃない。その次に俺の目に入ってきたのは『死の床のカミーユ』と題された作品だった。タイトルの通り、死の床についた彼女を描いた作品だ。ほの暗い死の帳の向こうに、わずかに顔を歪ませたカミーユの姿がある。この絵を見るたびに思う。なぜ、モネはこんな絵を残したんだろう?
「そういえば、私のサイトにもモネ好きの人が来た事がある」
突然、森崎が言った。
「え?」
俺は隣の森崎を見た。彼女も『死の床のカミーユ』を食い入るように見つめている。
「確か、その人、マリアさんて名乗ってた」
その名にドキッとする。なぜなら、そのマリアと名乗る人物の正体が他でもない自分だからだ。
「でも、一度きりで来なくなっちゃった」
「へえ…よく覚えてたね、一度しか来なかった奴の事なんて」
「うん。何で覚えているかっていうと、その人がもぐちゃん…正君のことをとても心配してたから。本当に不思議なぐらい心配してた」
「ふーん。なんでだろうね?」
「たしか…同じようなひきこもりの弟さんがいるからって言ってた…」
「…なるほどね」
その弟が死んだという(俺の創った)設定は…忘れているのか…森崎は口にしなかった。
「マリアさんも喜ぶかな」
「何を?」
「もぐちゃんが、頑張ってるって聞いたら」
「さあ…どうだろうね。どっちかっていうと、複雑な気分になるかもね」
あいまいに答えると、俺は再び『死の床のカミーユ』に見入った。その時…森崎の言った『マリア』という言葉に触発されてか、いつしか俺は無意識に師匠の『つぎはぎのマリア』をその横に並べていた。似たようでいて徹底的に異なる二人の世界がその先に広がる。何が違うんだろう? 俺はマリアに向かい合って考える。いつか、カミーユの姿は消え、マリアの姿だけが俺の前に横たわっていた。彼女の上には陰惨な死の影は降りていない。そこにあるのは、ただ、ただ、敬虔な光だけだ。これは二人の死に対する認識の差なのかもしれない。モネは『死』を『死』として捉え、画家として忠実に描いた。しかし、師匠にとって彼女の『死』は自らのこの世での再生のための胎動でもあった。別に、どっちがいいということでもない。ましてや、世界に名立たる巨匠にケチをつける訳じゃない。けど、その発見に俺の心が昂揚していた。俺ならどう描くだろう? そう、俺ならどう描く? そうだ、描かなくちゃ、俺の絵を描かなくちゃ…。しかし、そこまで考えた時、その想念の渦を断ち切るがごとくに、再び森崎の声が聞こえてきた。
「それで、河井君どうするの? これから」