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家に帰るとおふくろと親父が無言で飯を食っていた。テレビもつけずに、何やら陰気くさい。時計は既に7:00を回っていて、秒針だけがカチカチと音を立てている。
「ただいま」
そう言って、俺はカバンを床に放り出しどかっと椅子に腰を降ろした。
「遅かったのね」
おふくろが言う。
「残業だった」
「まったくあんた達は…どちらかが残業やらされなくちゃ気が済まないわけ?」
「言っとくが、俺はやらされ残業じゃないぞ。正が休んだ穴を全員で埋めただけだ」
これは事実である。しかし、おふくろは聞いているのかいないのか、無言で奥の台所に消えて行った。かわりに親父が言う。
「まったく…あいつは皆さんに迷惑ばかりかけて…」
親父もおふくろも弟が人並みに仕事ができずにいることを知っている。親父にとっては、それが、ふがいなくて仕方ないようだ。
「仕方がないだろう? 体調がわるいんだから…で、あいつの具合はどうなの?」
「胃腸風邪ですって」
おふくろが、俺の目の前に茶わんを並べながら答えた。
「今朝、病院に行かせたわ」
「病院に行ったんだ」
「ええ」
「で、薬は?」
「飲んでたわ」
「それなら、本当の病気だな」
「…ても、これをきっかけに、また引きこもるつもりじゃあ…」
「そう、疑ってやるなよ。あいつはあいつなりに、ずっと頑張っていたんだ。残業疲れから来た風邪っていうのも案外本当かもしれない」
「ずっと、家にこもって自分を甘やかしていたからだ」
親父が腹立たしげに言う。
「父さんの若い頃は、9時までの残業なんて当たり前だったぞ」
「…今だってそうだよ。いや、むしろ今のが職場環境はシビアだって言われているぞ。それに、自分から進んでやる残業と、無理やりやらされる残業とじゃ、気分的にまったく違うだろう?」
「無理矢理、残業をやらされなきゃいけないような状況になる事が、情けないと言っているんだ」
確かに親父の言う通りではあるが、なんだかやり切れないものを感じる。
「そりゃそうだけど…一番辛いのはあいつだろ? 家族が分かってやらなきゃ、誰が分かってやるんだよ…」
そう言うと、俺はテレビをつけた。
食後、弟の部屋に向かう。みーさんからの伝言を伝えるためだ。ドアをノックすると「入れよ」という返事が聞こえる。やけにあっさりしているなと拍子抜けしながらも扉をあけると、弟は布団の中で起き上がり、パソコンを眺めていた。枕元には錠剤のカラとコップが置いてある。なんだ、起きれるんじゃないか。
「調子はどうだ?」
と、尋ねると
「見ての通りだ」
との答え。
「起きあがれるって事は、だいぶん良くなったって事だな?」
「薬がよくきいているみたいでね」
弟は振り向きもせずに答える。パソコンには森崎の掲示板が表示されていた。俺も書き込んだ事のある例の掲示板だ。自分の書き込みを思い出し、少し気まずくなるが、しかし、もちろん、何食わぬ顔を決め込み、そしてさり気なく話題をふる。
「明日は行けそうか?」
「分からない。俺は医者じゃないから明日の体調まで予測できない」
「そうかよ」
「本音を言えば、行きたくない。前田の顔を見るのもいやだ」
「…」
「できれば、もう辞めたいぐらいだ」
「じゃあ、休むのか?」
「…」
「進むも、戻るも、お前次第だよ」
「分かってるよ。だから、すこしでも気を強く持てるように掲示板を見ているんだ」
「…掲示板? 今、見ているそれか?」
「そうさ」
弟は、そう言ってうなずくと、はじめてこちらを振り返った。
「俺のネット上の知り合いに、ニートの弟を持った女の人がいるんだ…」
その言葉にドキッとする。そりゃ、俺の嘘の書き込みの事じゃないか? が、しかし、内心の動揺を気取られぬよう、努めて平静をよそおう。
「そうか。そんな知り合いがいるのか」
「うん。…でも、その人の弟、病気で死んじゃったんだって」
「そうか。それは、気の毒だったな」
やはり、俺の書き込みの事をさしていたようだ。
「その弟が死ぬまぎわに、泣きながら後悔したんだって。『やっぱり働いておけばよかった』って。ねえ、兄ちゃん。もし、俺が今のまま死んだら、やっぱり後悔すると思う?」
「そりゃ、するんじゃないか?」
「本当に、そう思う?」
「思うよ」
「何を根拠に?」
「根拠ってそれは…」
一瞬口ごもり、俺はこう答えた。
「それは…お前、ほら、覚えてるだろ? 東京での師匠の話。自殺まで考えたあの人が、生死の境目で思った事」
「…ああ…!」
その言葉に弟が瞳を輝かせた。
「そうか。あの人も同じ事を言っていたな」
「ああ。『生きていれば幸せになれたかもしれないのに』って。日頃『死にたい、死にたい』と言っていたって、いざその瞬間になれば生きたいと思うんじゃないのか?」
「そんなもんかな?」
「…少なくとも、俺は溺れた時に死ぬもんかと思ったぞ」
「そりゃ、兄ちゃんが、心から死にたいと思った事がないから…。でも、そうか。やっぱりそういうものなのか…」
そう言うと、弟は再びパソコンに目を戻した。
「正直、そこまで言われてもよく分からないけど…でも、頑張るしかないな。この画面の向こうで、僕を励ましてくれた人のためにも…」
最後はまるで、独り言のようだった。
その言葉を聞き、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。森崎や俺の言葉がちゃんとこいつに通じていた事が分かったからだ。