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「今日は休む」
布団の中から弟が言った。
「どうして?」
たずねると、
「腹が痛い」
と答える。
「風邪か?」
「…分からないけど…最近、残業続きだったから限界が来たんだと思う」
「…なるほどね」
俺はうなずいた。確かに、ここ一週間というもの、弟は毎日一人で居残り残業をさせられていた。精神的にも肉体的にもきつかった事だろう。しかし、正直『またか』と思う。だからといって、本人が体調が悪いと言うのはどうしようもない。
「分かった。前田さんに、休むと伝えておくよ」
「頼むよ」
「じゃあ、俺は行くから」
「うん」
「…」
「…」
「…本当に、ハラが痛いんだよ」
「分かってるよ…ちゃんと病院に行けよ」
「ああ」
6月2日。
早いもので、もう、梅雨の季節だ。
傘をさして会社に向かう。
雨の中、家々の庭に咲く紫陽花が、華やかな彩りをそえてはいるが、俺の気分は天候と同じく甚だしく憂鬱だ。原因はもちろん弟である。…腹が痛いだって? 本当かよ。こないだ、長い事休んだ時も同じ言い訳だったじゃないか。まさか、また、しばらく閉じこもる気じゃなだろうな。
ってことは、また『振り出しに戻る』か? まるで、賽の河原の石積みだな。正直言って、もう疲れた。今度同じ事が起こるようなら、今度こそ俺は投げ出してしまうかもしれない…
ため息をつきながら重たい足を引きずり、気がつけば工場に辿り着いていた。そぼ降る雨の中に屹立する灰色の工場を見上げて、ますます憂鬱になる。もっとも、絵にするには最高のモチーフだがな。
その時だ。「優ちゃん」と明るい声がして、意識の中に思わぬ花が咲く。どこ咲く花かと見渡せば、みーさんが1階の事務所の窓から顔を出して、笑いながら手を振っていた。
「おはよー」
「おはようございます」
なんだか、ものすごく救われた気分になり、俺は窓辺に駆け寄った。
「あれ? 正ちゃんは?」
「休みです」
「風邪?」
「腹が痛いそうです」
「なんだ。話したい事があったのに。まあ、いいや。優ちゃん、ことづて頼める?」
「別にいいけど…携帯でメールしたらどうですか?」
「携帯、壊れちゃって」
「そうなんだ。それじゃ、仕方ないですね。で、何です?」
「うん。…今は、時間がないから後で…昼休み、食堂に来れる?」
「行けますよ」
「じゃあ、その時に…」
そう言うと、みーさんは「戻らなきゃ」と窓を閉めて走り去って行った。その後ろ姿を見て、少しだけ気が晴れる。俺は、深呼吸をして自分の職場へと急いだ。
昼休み、約束通りに食堂に行くと、既にみーさんが来て待っていた。
「で、話ってなんですか?」
と尋ねると、なんて事はない。例の眼鏡の彼女…居酒屋で会った子が、どうしても正と話したいと言っているんだそうだ。それで、なんとか説得してくれないかと頼まれる。
「いいですよ」
と、俺は答えた。
「でも、どうしてそんなに会いたがるんでしょうね」
「このまま誤解されているのが嫌なんだって」
「そういう事ですか」
俺は納得した。やっぱり恋愛感情があるとかそういう事ではないらしい。
「分かりました。あいつに伝えてみます。でも、あいつがOKするかどうかは保証できませんけど…」
「なんであろう? 会って、話せばいいのにね」
みーさんには、弟の心境がさっぱり理解できないようだ。
「うーん。あいつなりに色々あるんだと思いますよ」
俺はあいまいに答えた。
それから、とりとめの無い話をする。森崎の事、職場の事、そのうちに前田君の事に話しがおよぶ。そして、弟がここしばらくずっと1人で残業をさせられていた事を話すと、途端にみーさんが怒り出した。
「嘘でしょ? そんなおかしな話ないよ」
「でも、本当なんですよ」
「毎日何時までやっているの?」
「9:00です」
「9:00!?」
「ええ。それがもう10日も続いたもんで、とうとうぶっ倒れたんじゃないかと本人は言ってるんですが…」
「そうか…疲れから風邪をひいたのかもね」
「…ただの風邪ならいいんですけどね」
思わず不安を口にする。しかし、その真意はみーさんには伝わらない。
「そうだね。もっと重病だと怖いよね」
「いや…」
そうじゃなくて、俺の心配しているのは、弟が再び登社拒否になるんじゃないかということなのだが…しかし、まさかそんな事は言えないと思い返し、
「そうです。重病だと怖いです…」
と適当にうなずいておいた。
「それにしても、ひどいね。一人で残業なんて」
「正確には一人ではなくて、その、前田って奴が一緒についているらしいんですけど、それがかえって負担になって、仕事が遅くなるって言ってました」
「コガちゃんは助けてくれないの?」
「小金井さんは、最近会議が多いらしくて、ほとんどフロアに顔を出しません」
「そうなんだ。じゃあ、結局は、その前田って子のやりたい放題なんだ」
「そうですね。指示は彼が出しますね」
「むかつくね」
「うん。根は悪い人じゃないんだろうとは思うけど。弟の事に関しては、完全に空回りしてますね。というか、むしろ、悪意があるのかも」
「このままだと、正ちゃん、辞めちゃうんじゃない?」
みーさんの言葉が俺の不安を直撃する。それで俺も
「実は、俺もそれが一番心配で…」
と、つい本音をもらした。
すると…
「辞めたければ、辞めてもらっていいんですよ」
聞きなれた声がした。ぎくりとする。それは、少なくとも、今、この場で、最も聞きたくない声だったからだ。おそるおそる振り返ると、前田君が立っている。今の会話全部聞かれたのかよと胃が痛くなる。前田君の方は堂々としたもんだ。自分の悪口を聞かされても、平然としているところ、たいした根性の持ち主である。彼は、顔色一つ変えずにこう言った。
「やる気のない人間にいてもらっても、迷惑なだけですから」
そして、何も言い返せずにいる俺らを尻目に、悠然と去って行く。その後ろ姿を見ながらみーさんが言った。
「何、あれ? 感じが悪い」
それで、俺はみーさんに教えた。
「あれが、前田君です」
昼飯が終わりフロアに戻ると、既に前田君が戻っており、何ごともなかったかのように仕事をしていた。腹いせにさぞかし嫌がらせでもされるかと思ったが、案に相違して何もされなかった。しかし、俺の立場として目をあわせる度胸は持てない。
こうして、なんとも気まずい一日が過ぎて行った。