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弟が無事に社会復帰できたらどうするのか?
それは、俺と森崎との関係においてこの上なく大事な問題であった。なぜなら、それは、俺がかつて森崎に「弟のためだけにこの町にいる」と告げたからである。そして、常に「いずれは東京に戻る」ことを、そこはかとなく仄めかしていた。にもかかわらず、森崎は俺との縁を切ろうともしなかったし、俺もそういう森崎の態度に甘えていた。考えてみれば、卑怯この上ない人間である。そう知りつつも、なぜずるずると付き合いを続けるのか。その弱さがなんなのか。森崎に対する情なのか、それとも、未来に対する不安からなのか。自分でも判然とできぬままに時だけが過ぎていく。
けれど、いずれはきっぱりと答えを出さなくてはならないだろう。逃げ続けたところで問題は追いかけて来るのだから。
しかし、幸いにして(皮肉にも)、世の中そんなに甘くはなかった。
「河井弟さーん」
前田君の声がする。
途端に俺の隣で作業していた宮沢さんが「またかよ」って吹き出した。
前田君が弟を呼ぶのは、奴が何かをやらかしたからであるが、1時間に1度はそれを繰り返すのが、近ごろのこの職場での恒例になっていた。やれやれ、今度は何をやらかしたんだよと、あきれ気味に耳をすませていると、前田君の言葉が聞こえて来る。
「これ、弟さんが分けた部品ですよね」
「え? そうでしたっけ?」
「そうですよ。弟さんの作業台の番号が書いてある。ほら」
「あ。本当ですね」
「『本当ですねえ』」
前田君が、わざと弟の口まねをする。
「…で、それはいいんですけどね、このネジの箱の中にコイルが混じっちゃんでるんですよ。ほら、1個、2個…」
「あ…本当だ」
「『本当だ!』。で、前にも言いましたけど、困るんですよね、こういうことされると。2度手間になっちゃうんで」
「…すいません。急いでいたから、よく見ていなくて」
「あの、前にも言ったと思うんですけど、慌てなくていいから、ミスのないようにお願いします」
「分かりました」
「『分かりました』か。弟さん、いつもその場では分かってくれるんですけど、その割に直りませんよねえ」
「……」
「何で同じミスを何回も繰り返すんですか?」
「…分かりません」
「自分のことも分からないんですか? 困りますね。原因が分からないと、直せませんよね」
「……慌てているせいかもしれません」
「なんで慌てるんですか?」
「慌てないと、ノルマこなせないし…」
「慌てていても、こなせてませんよね」
「…すいません」
「何度も言いますけど、慌てなくていいからミスのないようにしてもらえませんか?」
「…はい」
「お願いします」
…まったく、聞いていてこちらが恥ずかしくなる。
その日、弟は一人で残業をさせられていた。ここしばらくは、うちのラインの成績も上がって来ていたから、ようやくサービス残業がなくなったというのに、たった一人で残されていたのである。理由は、ノルマがこなせていないからだという。誰も居なくなったフロアで一人居残りさせられている弟の姿に、哀れを覚えた俺は思わず「俺も手伝う」と口に出してしまった。
「いいよ」
弟はうつむいたまま答えた。
「けど、お前、一人じゃ無理だろ?」
「大丈夫だよ」
「だって、後何台あるんだ?」
「6台」
「6台?」
俺は驚いた。
「ノルマに6台足りなかったっていうのか?」
いくらなんでも多すぎる。
「そうだよ」
「なんで?」
「なんでって…ミスをしないようにゆっくりやっていたからさ」
「だからって…時間がかかりすぎだろう?」
「でも、かかったんだから仕方ないじゃないか」
「…やっぱり、手伝うよ。そんなんじゃ、何時までかかるか分からないだろう?」
そう言うと、俺は自分の作業台に戻った。ところが、その時。
「困りますよ−、河井さーん」
聞きなれた声と共に、前田君が現れた。
「そういうの、弟さんのためになりませんよ。そう思いませんか?」
その、いやみったらしい言い方に、俺はムッとして前田君を見る。
「別に身内だから庇ってる訳じゃないよ。ただ、やり方としておかしくないですか? 一人だけ居残りさせるなんて」
「仕方ないでしょう? ノルマをこなせていないの、弟さんだけなんだから。弟さん一人のおかげで、今日の、うちのラインの成績、また最下位なんですよ」
「だったら、全員で残ればいいだろう?」
「そんなことしたら、弟さん、よけいにヒンシュクを買いますよ? それでもいいんですか?」
言われてみればそうだと、俺は絶句する。その俺に向かい、前田君は畳み掛けるように言った。
「お兄さんとして、弟を庇いたい気持ちは分かります。でも、それでいいんですか? 世の中は厳しいんですよ。その厳しい世の中で生きていくのを教える事も、家族の役目なんじゃないんですか? 一生そうやって、弟さんを甘やかすつもりですか? それで、弟さん、生きていけるんですか? 世の中自己責任ですよ」
「別に、身内だから庇ってるわけじゃないって言っただろう?」
「本気でそう思ってるなら、一度自分の姿を鏡に映してよく見てみた方がいいですね。少なくとも、僕にはそうとしか見えませんよ。客観的な意見って大事だと思いません?」
くそ。なんかムカツク。大体、俺は馬鹿の一つ覚えのように『自己責任』としかほざけない人間が大嫌いなのだ。流行り言葉なら無批判に良しとする風潮も気に食わないが、それ以上に、それこそ、自分以外の全てに対する責任を放棄している言葉に他ならない…としか思えないからである。でも、この場合は言い返せない。前田君の言葉にも一理ある。
「分かりました」
俺はしぶしぶうなずくと、言われた通り弟を置いてフロアを出た。
その日、弟が帰宅したのは、夜も9時を過ぎてからだった。なんでも、作業をしている間中、隣に前田君がはりついて逐一ダメ出しして来たせいで、少しもはかどらなかったからだそうだ。弟はすっかり、憔悴しきっていた。