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その夜の出来事で、弟が何を感じ、どう考え、どう結論付けたのか、それは当人ではない俺には決して知る由はない。が、少なくとも表面上、目立った変化は見えなかった。ただ一つ、わずかに変わった事と言えば、奴の小金井さんに対する警戒心が若干ではあるが和らいだ事である。
そりゃ、そうだろう。
何しろ、あの、飲み会のおり、いくら頭に血が昇ったとはいえ、上司に向かって『あんた』と呼びつけ『偽善者』とののしったのである。今さら、何をおそれる事があるだろう? しかし、小金井さんは、その事に腹を立てているようでもなかった。それどころか、むしろ、弟の事を気に入ってくれたようにさえ見えた。それが証拠に、あれ以後、弟にまめに声をかけるようになった。仕事の指導も丁寧にしてくれているようだし、時には、弟が、俺や、みーさんと3人で昼飯をくってる折など、どこからかふらっと現れ、あれこれ世間話をしていくこともあった。…もしかすると、弟の不器用ながらもみーさんを庇おうとした正義感にうたれたのかもしれない。
しかし、正直言って、この、上司の接近について、初めのうちは、弟も…そして俺も、ありがた迷惑に感じていた。理由は怖いからだ。しかし、そのうちに慣れた。そして、怖い上司Aのプレッシャーが無くなった弟は、多少は仕事がスムーズにこなせるようになって来た。といっても、一人前にはまだ3割程足りない。まだまだ、奴にとって世界は恐怖に満ちていたからだ。例えば、こんな風に…。
「河井弟さん、すいませーん」
前田君の声がする。
…なんだろう?…俺は目の前の仕事に集中しつつ、耳をそばだてた。前田君の、例の、あの皮肉っぽい言い方がフロアに響き渡る。
「あのー、このカゴ車、弟さんが運んで来てくれたんですよね」
…カゴ車? ああ。解体前のテレビが積まれている鉄製のカゴ車を運んで来たんだな。それをライン正面に設置して、俺らは解体作業をする。そして、カゴ車が空になったら、フロア奥のカゴ車置き場から次のカゴ車を運んで来る事になっている。弟は、今あるカゴ車が空になりかけているのに気付いたから、新しいものを運んで来たんだろう。しかし、それが、なんだって言うんだ?
前田君は言った。
「あのー。まだ、前のカゴ車が空になってないんで、新しいのを持って来てもらっても困るんですけど」
俺は、ちらりと振り返った。確かにそこには、解体前のテレビが一杯積まれたカゴ車と、ほぼ空のカゴ車があった。ほぼ空の方には、2台のテレビが置かれている。前田君は、それら指さして言った。
「ほら、まだ、残ってますよね、テレビ」
すると、弟はモゴモゴと答えた。
「でも、カゴ車の中のテレビが、3台になったら、次のカゴ車を運んで来るように言われたから…」
「僕、そんな指示、しましたっけ?」
「前田さんは言ってませんけど…」
「じゃあ、誰が言ったんですか?」
「それは…」
弟の言葉は、妙に歯切れが悪い。どうやら、自分に指導した人物を庇っているらしい。前田君はイライラと言った。
「2台もこんな所に置かれると、邪魔なんですよね。元に戻して来てくれますか?」
「…でも、それじゃ、また運ばなくちゃいけないじゃないですか?」
弟の言う通りだ。しかし、前田君は撤回しない。
「その通りです。でも、邪魔なので返して来て下さい」
その言葉に、俺は、正直言ってムカついた。他に同じ事をする奴はいくらでもいるのに、何で、弟にだけ厳しく言うのか。頭に来て、ひとこと言ってやろうかと作業の手を止めると、
「おい、前田」
小金井さんの声がした。
「河井弟に、なるべく早くカゴ車を持って来るように指示したのは、俺だ」
「小金井さんの指示ですか? こんな所にカゴ車が2台もあると邪魔なんですけど」
さすが。前田君は、上司であろうが怯まない。
「でも、その方が作業の切れ目がなくて効率良いだろう?」
「それは、確かにそうですけど」
「それに、こんなところ誰も通らないだろう。2台置いてあっても問題ないぞ」
「そうですかねえ?」
前田君は自説に固執した。正しい、正しくないはさておき、その度胸は感心する。
「そうだよ。だから、このままにしておけ。河井弟は作業に戻れ。時間のロスだ」
「小金井さんが、そこまで言うなら放っておきますけど、何かあっても僕は知りませんよ」
こうして、とりあえずその場は収まり、俺も改めて作業に集中した。それにしても、最近の前田君の態度はなにか変だ。確かに、彼は性格はきついが、それは仕事に熱心なせいで、決して、あんな理不尽な事を言うような人間じゃなかったのに。要するに、それほど、弟の事が嫌いって事か。弟は、弟なりに頑張っているんだがな。まあ、今までが今までだ。長い目で見るしかないだろう。一度失った信用を取り戻すためには、倍以上の時間がかかるというしな。
「ねえ、今度の日曜日、ヒマ?」
出し抜けにみーさんが言った。
「え? 俺はちょっと予定があるけど…なんで?」
俺は聞き返した。弟は黙々と握り飯を食っている。昼休み。食堂での出来事だ。
「うん。実は、この間の飲み会で会ったあの子達…覚えてる? 眼鏡の子と、ロングヘアの…」
「覚えてるよ」
忘れるわけが無い。弟が喧嘩を吹っかけた二人組の女子だ。
「でも、彼女達が何か?」
「うん。実は、また今度遊びに行こうかって話がでているんだけど…」
「マジで?」
…信じられない。あんなに、最悪な出会い方をしたのに。
「本当よ。正ちゃんは、行けない?」
「無理」
弟はあっさりと首をふった。そして「予定がある」と嘘をついた。
「そうなんだ。残念」
みーさんは首をすくめる。
「2人ともがっかりするわ」
「まさか」
俺は笑った。
「だって、俺ら、ほとんど喋らなかったのに」
「そうだっけ? でも、あの眼鏡の子…カナちゃんていうんだけど…が、どうしても、もう一度正ちゃんと会いたいって言ってるのよ…」
それを聞いて、思わず俺は叫んだ。
「嘘でしょう?」
「何で嘘なのよ?」
「だって…」
…だって、絶対に印象悪いはずなのに。俺の記憶では、あの時、あの子、最後まで弟と口をきこうとしなかったぞ。それどころか、目を合わせる事すら拒否していたのに…。まさか、あれが好意の裏返しとか? ありえない! じゃあ、なんだ? なぜ、今さら会いたがる? …
色々考えてたら、弟がぼそっとつぶやいた。
「タイプじゃない」
「何だと?」
俺は突っ込んだ。
「別に、お前が好きだから、会いたいって言ってるわけじゃないかもしれないだろう?」
「…うるさいな。とにかく、無理なもんは、無理なの!」
「じゃあ、仕方ないけどさ…」
みーさんがため息をつく。
「気が変わったら、いつでも言ってね」
けど、弟は永久に気なんか変わらないって顔で、握り飯を頬張り続けていた。