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え? 見てたっけ?
俺らにすればそんな感じである。
程よく酔いがまわって来たからか、それとも小金井さんの話に聞き入っていたからか、周りの客の事など気にもとめていなかった。
しかし、弟はキレている。どなられた女性客二人はおびえている。他の客は唖然としてこちらを見ている。中にはそれこそ半笑いの奴も居り、きまりが悪くなって来る。
「おい!!」
俺は弟に呼びかけた。
「座れよ。みんな驚いてるじゃないか」
しかし、弟は俺の言葉など聞きもせず、女性二人をにらみ付けたままだ。あまりの恐ろしい形相に、こやつとうとう気が触れたのかと俺は少々心配になり、そこで、あっと気がつく。そうか、例のメンタルの病がこいつをナーバスにさせているんだ。そうに違いない。
それで俺も立ち上がり、弟にだけ聞こえるよう、奴の耳もとで囁いた。
「お前、それ気のせいだよ。薬を飲めば落ち着くよ」
弟は、俺が何を言いたいのかをすぐに察したようだ。俺を見て首をふりながら言った。
「違うよ。『それ』とは関係ない。第一見られていたのは俺じゃない。あいつらが見ていたのは、みーさんだ」
その言葉に心臓を撃ち抜かれたようなショックを受ける。
口にこそ出さなかったが、みーさんと出かけるたびに周囲の好奇に満ちた視線と違和感を俺もずっと感じていた。けれど、気付いているのかいないのか、みーさん自身あっけらかんとしていたし、口にすれば、かえって傷つける事になるとも思ったし、それで、ずっと気付かぬふりをしていた。けれど、弟には…この正義感の強い単純馬鹿には見過ごす事ができなかったらしい。(それが、奴の本質であり、奴を悲劇へと誘った原因でもある)
「お前ら、そんなに人の不幸がおもしろいかよ」
弟は、今にも殴りかからんばかりの剣幕である。女性の方は、あきらかに怯えていた。『これは、まずい』と俺は思った。彼女らがみーさんを笑ったにしろ、笑っていないにしろ、女性を殴るのはまずい。俺は、弟を諌めた。
「おい、よせってば。たまたまこっちの方を見ただけかもしれないだろう?」
「違う。あいつらは、笑っていた」
弟は、頑固に首を振る。だめだ、とても抑えられそうにない。仕方なく、彼女らに言う。
「悪い、もう帰ってくれないか? このままじゃ、こいつ、何をするか分からない」
「馬鹿アニキ! あんな奴ら、かばうなよ!」
「お前は黙ってろ! さ、早く今のうちに帰るんだ」
けれど、女の子達は動こうとせず、その顔には罪悪感ともなんとも言えぬ気まずそうな表情を浮かべていた。その顔を見て俺は思った。…案外弟の言葉は図星だったのかもしれない…。
みーさんはといえば、決して彼女達を見ようとはせず、まるで、何も見えず、何も聞こえないかのように箸を動かしている。もしかして、これはみーさんにとっては慣れっこのシチュエーションで、何も分からぬふりは、精一杯の防御姿勢なのかもしれない。そんなみーさんの姿を見て、俺はなんともいえぬやり切れなさを感じた。同時に弟と同じく怒りをおぼえる。お前らは、何の権利があって、人を笑うのか? たかが皮膚一枚の事で、人が人を嘲笑しでも許されると言うのか?
と、その時小金井さんが唐突に口を開いた。
「君らは、そんなに体の不自由な人が珍しいのか?」
その問いかけに、女性らはますます気まずそうな顔をした。
「こういう人に、会った事がないんだな? じゃあ、いいだろう。こっちに来てじっくり話をしてみろよ」
俺らは…俺と弟はびっくりして小金井さんを見た。そして言葉にならぬ声を放つ。
…正気かよ。みーさんを見せ物にする気かよ?
俺らのそんな白い空気など知った事じゃないように、小金井さんは、彼女らを手招きした。
「さあ、一緒に飲もう」
「よせよ!」
弟が怒る。
「あんた、何考えてるんだよ」
「話してみようって言ってるだけだよ」
「馬鹿か! 偽善者。こんな馬鹿女達と話す事無いよ。みーさんだって嫌だろう?」
弟の呼びかけに、みーさんはやっと気付いたように顔を上げた。
「え? なあに?」
すると、小金井さんが答えた。
「あの子達も一緒に飲もうって誘ってるんだ。いいだろう?」
「あ? いいよ? 別に」
みーさんはさらっと答えた。そして笑顔で
「こっちにおいでよ」
と、言った。2人の女性は互いに顔を見合わせ、しばらく戸惑っていたようだが、最後にはおずおずとこちらにやって来た。俺も弟も、唖然としてその様を見守っていた。