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「長い間御迷惑をおかけしてすいませんでした」
ぼそぼそと弟が言う。それは、4月24日水曜日朝の事であった。
「これからは戦力になれるよう、全力で頑張ります」
しかし、職場一同シラーッとしている。聞いているのか、いないのか、無関心なだけなのか。それともハラワタが煮えくり返っているのか…。とりあえず、頭を下げ、弟の挨拶が終わると、前田君が今日の予定と人員配置、目標解体台数などを発表し、朝礼が終わった。
いつもと同じ一日が始まる。
俺の仕事は昨日やり残した解体作業の続きからだ。午前中は、何ごともなく過ぎた。時々、弟の様子をうかがうと、真面目にやっているようだが、あくびばかりしている。しかし、仕事はなかなかきちんとできているようだ。夕べ、一人でマニュアル(俺の貸してやったやつだ)を何度も読み返したらしい。感心な事だ。
「どうよ。調子は」
昼飯時、食堂で、弟に尋ねる。
「眠い」
と、奴は答えた。
「眠い?」
「うん。薬のせいだと思う」
「薬? ああ、例の病気の……で、効いてるのか? 震えは?」
「今のところ大丈夫。前は、後ろに人が来るだけでダメだったのに…」
「じゃあ効いてるんだな」
「うん」
食堂内を見回すと、あちらで女性社員達が固まって何か喋っている。そして、時々わっと笑う。いつもの風景だ。この間は、耐えられなかった弟も、今日は平気のようだ。ホッとする。
きょろきょろしていると、意外な人物と目があった。みーさんだ。ちょうど、食堂に入って来るところだった。
「あれー?」
みーさんもこちらに気付き手を振る。
「正ちゃん。お久しぶりー」
その言葉に、弟が顔を上げた。そして、みーさんを見つけると、心もち頬が緩む。広い工場敷地内なので、めったに顔を合わせる事もないだけに、嬉しかったらしい。みーさんは、連れの友達に何か耳打ちすると、無邪気にこちらにやって来た。そして、言った。
「病気、もう大丈夫なの?」
ちなみに、みーさんにはこいつのメンタル的な病については何も話していない。弟も知られたくないのか、
「うん。風邪ならもう大丈夫だよ」
と、嘘をついてうなずいた。
「良かった」
と、みーさんが笑顔を見せる。
「悩みがあったら何でも話してね。相談にのるから」
みーさんは相変わらず優しい。
「ありがとう」
弟も嬉しそうにうなずく。
その顔を見て思う。いっそ、みーさんと同じ部署に行かせた方が、こいつにとっては良いのかも…と。
と、その時どさりと音をたてて俺らのそばに座る人物がいた。驚いた事に、それは小金井さんだった。柔らかだった弟の表情が、みるみる強ばっていく。俺も、正直びびりまくっていた。食っているうどんの味が分からなくなる。小金井さんはそんな俺らにおかまいなしで、みーさんに話しかけた。
「おい、美咲。お前、最近彼氏できたらしいな」
「何それ? 誰よでたらめ言ってるの」
「この間『さくら』でお前が超イケメンと飲んでるのを、金達が見かけたってよ」
「『さくら』? あー、それ優香ちゃんの彼氏よ。3人で飲んでたの」
「なんだー。残念だな。モテないなあ」
「うるさい!」
俺達は唖然として二人のやり取りを見守っていた。みーさんはともかく、小金井さんはついぞ俺達に見せた事のない笑顔を見せている。この人でもこんな顔するのかと感心していると、みーさんが俺らを見て言った。
「あー。コガちゃん。正ちゃんをいじめないでよ。大事な友達なんだから」
「虐めてなんかないよ。な−、優しい上司だろう?」
「…それは…」
弟が口ごもる。俺は苦笑した。そんな質問に答えられるわけがない。
「いや、勘弁してやって下さいよ。こいつ、びびりまくってるんですから」
俺がフォローすると、小金井さんが憤慨した。
「バカヤロー。俺は優しいんだよ」
どこが? と、俺は(おそらく弟も)思う。
「ああ。それで思い出したけど」
小金井さんが話題を変えた。
「そーいえば、河井兄弟の歓迎会やってなかったな」
「え? 歓迎会?」
俺は驚いた。
「そんなのあるんですか?」
「いや、ここのところ忙しくてできなかったけど、久しぶりにやるか」
「いや、いいですよ。そんなの。弟はもちろん、俺もあまりそういう集まりは好きじゃないし…」
「前田とか呼びたくないなら、親しい奴だけ呼んでやればいいだろう? そうだな。俺と、美咲とお前ら二人と言うのはどうだ?」
うーん。あなたも呼びたくないメンバーの一人なんだがなあ…と俺は思う。しかし、あまり遠慮し過ぎるのも失礼に当たると思い。
「そうですか。それなら、是非…」
と、言った。
「いいね」
みーさんが言う。
「会場はどこにしよう?」
「『さくら』がいいんじゃないか?」
小金井さんが答える。
「いいね。あそこなら、安くておいしいし、お薦めだね」
みーさんがはしゃいだ。
こうして、なぜか俺達はみーさんと、小金井さんとともに飲みに行くはめになったのである。
さくらは、工場から歩いて10分程のところにある居酒屋だ。以前、工場に勤めていた頃にも、みーさんや同僚とともにちょいちょい来たもんだ。狭い店だが、安いし、味もまあまあだしで、うちの工場の社員にも地味に人気がある。
俺らが行った金曜の夜も、混んでいた。俺らの他におそらくうちの工場の社員と思われるおっさんグループや、女性の二人連れ、カップルの姿などがあり、既にもう満席だった。20人も入れば一杯になってしまうくらいの小さな店なのだ。店内は比較的明るいため、人の顔がよく見えた。おっさんグループは店主と顔なじみらしく、カウンターで盛り上がっていた。それを横目に座敷席に4人向かい合って座る。俺はみーさんの横、小金井さんの正面、そして弟は小金井さんの横で小さくなっている。緊張した面持ちだ。俺だって緊張している。正直、こんなんでおもしろいかなと思った。
しかし、アルコールが入って来ると、緊張もほぐれて来る。ちなみに、俺自身、普段あまり飲まないようにしているが、実は結構飲める方だ。弟はどうだろう? おそらく、酒を飲むのはこれが初めてじゃないのだろうか? 案の定、ビールの苦さにどうも馴染まないようで、ひとくち飲んだきり食う方に専念していた。
みーさんは、いける口だ。小金井さんも、全てのおっさんがそうであるようによく飲む。
初めのうちは、みーさんと俺が仲良くなったいきさつやら、俺らがいた部署の噂話なんかをぽつり、ぽつりとする。ぎこちない会話も、小金井さんの酔いがまわるにつけほころんで来る。小金井さんは赤い顔をして自分の若い頃の話を始める。なんでも、ああみえて、昔はナイーブな文学青年だったらしい。本当は働かずに小説でも書きたかったが、家が貧しくてそんな事も言ってられなかった。それで、高校を卒業してすぐに町工場に、旋盤工として就職したらしい。初めのうちは、現場の仕事等できるのか不安だったが、仕事を覚えれば覚える程おもしろくなっていったそうだ。しかし、ある日仕事中に事故を起し、指を無くしてしまった。(そういえば、小金井さんの右手には親指がない)その上、右手の筋を痛めてしまい、日常生活は辛うじてできるものの、旋盤工としての道はあきらめざるを得なかったそうだ。それで、その頃できたばかりのうちの会社に知り合いのつてで入ったらしい。
「鉄に関わっていたかったからな」
と、小金井さんは言った。
小金井さんの前職の旋盤工とは、鋼などの金属を丸く削る仕事らしく、そういう訳で鉄との関わりが深い分、愛着もあるというわけだ。
それから、小金井さんの町工場時代の話になる。「原子力発電や、漁船、宇宙衛生の部品や、遊園地の遊具も創った事があるんだ」と小金井さんは自慢げに語る。そして、その頃出会った様々な人々、職人のエピソードを話してくれる。俺はほろ酔い加減でその話を聞く。夢心地に聞こえてくる職人達の生きざまは、どことなく芸術家のそれと似ている。いつしか俺は東京の馴染みの店で師匠と話してるような錯覚におちいってきた。そして、あの頃いつも思っていたように思った『俺の絵を描かなくちゃ』。そう思った途端、俺の頭の中に広大無辺なイメージがあふれ出す。その先には、例のあのマリアがいる。いよいよ酔いがまわって来たようだ。まずい。弟の事を思えば、酔っぱらうわけにもいかない。正気との綱引き。行きつ戻りつはじめた時だ…
突然、弟が立ち上がり、持っていた箸を床に叩き付けた。
何をするかと驚いて見ていると、弟は俺らの横にいた女性二人組に向かって叫んだ。
「てめーら、じろじろと見てんじゃねーよ」
一気に酔いがさめる。