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「今日も弟は休みです」
そう伝えると、小金井さんは案の定嫌な顔をする…と思いきや、「あ、そう」とだけ答えた。
その態度にかえって不安になる。見切りをつけられたのではないか?
「あ、でも今日は病院に行っているので、近いうちには出て来れるかと思います」
「なるほどね」
と、小金井さんはそっけない。そして、それきり行ってしまおうとする。俺は、慌てて小金井さんの後を追いかけた。
「すいません。後で、お時間とっていただけませんか?」
すると、小金井さんは振りかえって答えた。
「時間?」
「はい。お話したい事があるんです」
「弟の事か?」
「はい」
「分かった。後で都合をつけて連絡する」
「よろしくお願いします」
小金井さんとの話し合いは、昼休みに、昨日と同じ応接室で行われる事になった。
緊張気味に部屋に入ると、小金井さんは既に来ていてソファに深々と座っている。
俺は一礼し、正面の椅子に腰かけた。なんだか、尋問を受ける被疑者と、刑事みたいである。小金井さんは言った。
「ちょうど、こちらからも話したい事があったんだ」
「話したい事?」
ドキッとする。
「ああ。こちらも弟の事でな」
胃がずきずきと痛みだす。
「あの…それって」
唇も乾いて来る。
小金井さんはうなずいてみせた。
「悪いけど、前田とも相談した結果、お前の弟には辞めてもらう事にした」
…ああ、やっぱり。
がっくりとうなだれそうになる。だが、しかし、ここで怯むわけにはいかない。これも想定済みの事なのだから。なんとか、態勢を逆転させなくては…。
…けどなあ。
俺は巌のような小金井さんの姿を見て思った。
…この人の心を変えるなんて事ができるのか?
大体が、この人は存在事態が怖いのだ。四角い顔に、いかつい目と鼻と口が並んでいる。ガタイもいいし、いつもヘの字口で俺らを見張っている様は、昔の仁侠映画に出て来るヤクザの親分のごとしである。
けど仕事ではものすごく頼りになるんだとみーさんが言っていた。だから、結構職場でも慕われている。仕事の上でも、人間的にも俺のはるかに及ばない相手である。しかも、今からかばおうというのはあの弟である。
弱気の虫が顔を出し、俺の中で葛藤が始まった。
はっきり言って小金井さんや同僚達の怒る気持ちも分かるのだ。仕事はしないわ、ルールは守らないわ、休みっぱなしだわ、そんな奴を置いておけるような余裕は、きょうびどこの企業にだってないだろう。俺だって、そんな奴弟じゃなければとっくに見切りをつけている。やる気がないのなら、さっさと辞めちまえってな。
ここは、素直に頭を下げた方がいいんじゃないのか? 「はい、おっしゃる通りです。ご迷惑かけてすいません」と言ってしまうのが、楽なんじゃないのか?
…いいや。ダメだ。
お前も知っているだろう? 弟が不器用ながらも立ち向かおうとしている事を。だから、自分に誓ったじゃないか。徹底的にあいつの味方をすると。
いや、でも、俺は『この事』も知っている。『それは、甘えだ』と言う事をだ。みんながそんな事を言い出したら、世の中成り立たない。できない奴は切り捨てられても当然。全てはあいつが悪いんだ。自己責任だ。さあ、上のセリフを小金井さんに言うんだ。その方がお前にとっても得だぞ。企業に情を求めるな。下手に揉める奴は嫌われるだけだ。どうせ何を訴えたって聞いてくれやしないさ。
そう、俺は企業なんかに何も期待してない。企業だけでなく、同僚にも何も期待してない。世の中自体に何も期待していない。ここに戻って来てから、そんな風になってしまった。不幸な考え方なのは分かっている。別にそれで構わない。どうせ、今だけだもの。いずれはここを出ていくんだから。(ここにいる俺は本当の俺じゃない)だから、俺がクビになるという話しだったら、きっとあっさり引き下がったろう。…けど、これは、俺の事じゃない。弟の事だ。兄としても、ここはやはり引き下がれない。っていうか、どうせ長くここにいるつもりないんだから、揉めようが嫌われようがいいじゃないか。そうだよ、俺の方こそクビになったって構いやしないんだった! じゃあ言いたい事を言ってやれ!
…最後に、天啓のごとくそう閃くと、ついに俺は言った。
「待って下さい。クビだけは勘弁してやってください! 俺からちゃんとあいつに言い聞かせますので、もう少しだけ時間をやって下さい!」
「う〜ん…」
小金井さんが渋い顔をした。
「無理だな。兄貴として、弟をかばいたい気持ちは分からないでもないが、世の中、そんなに甘くないぞ」
「おっしゃる事はよく分かります。でも、もう少しだけ時間をやって欲しいんです」
「ダメだ」
「そう言わずに、お願いします。あいつにとっては、今が人生の岐路なんです」
「くどい」
予想以上に敵は手強そうだ。てこでも動かないってやつだな。けど、それはこっちだって同じだ。むしろ、こっちのが必死なぐらいだ。なにしろ人生かかってるんだからな。こうなったら、とことん粘ってやる。今、流行のモンスター・ペアレンツならぬモンスター・ブラザーになってやる。いや、あんな連中と一緒にされては叶わない。俺の主張は理に叶っている。それに、主張しただけの責任は取る覚悟でいる。だから、この際ヒンシュクかってもいい。最悪クビになっても構わない。言うべき事は、言ってやる。しかし、そんな決心した時に限って、タイミング良くサイレンが鳴り、昼休みが終わってしまった。これ幸いと、小金井さんが腰を上げる。
「さあ、時間だ。話はここまでだ」
ちくしょう。これも弟の運命なのか? いいや、そうじゃない。そうはさせない。
「まだ、話は終わってません! っていうか、俺の言い分全然聞いてないじゃないですか!」
ぶしつけに言うと、小金井さんが不快感を露にした。
「無理なものは無理だって言ってるんだよ」
「無理を承知でお願いしているんです。どうか、俺の話を最後まで聞いて下さい」
「聞く事なんてない」
「いいえ。あります。聞いてもらわなくちゃいけません。実は、これはずっと誰にも話さないつもりでしたが…あいつは…弟は…」
そこで言葉をとめる。この先を話していいものかどうか迷ったからだ。幸いに…と言っていいのか、その態度が、かえって敵の興味をひいたらしい。
「何だよ? 言うべき事があるならちゃんと言えよ」
なんと、小金井さんが再びソファに腰を降ろした。それで、俺は決心した。…弟よ。スマン。お前のプライドを傷つけるつもりはないが、全てをぶちまける兄を許してくれ…。そうするより他に、方法が見つからないんだ。
「実は、あいつは…弟は、対人恐怖症にかかっているんです」
その言葉に、小金井さんが驚いた。
「対人恐怖症? 風邪で休んでるんじゃないのか?」
そう。やつの欠勤理由は、表向き風邪という事になっていた。別に、嘘をついたつもりはない。初めは本当に風邪だと思っていたのだから。けど、実際は違った。精神的なものだった。本来、分かった時点で正直に話すべきなのだが、奴が恥ずかしがるので黙っておいた。しかし、こうなっては見栄をはっている場合ではない。
「風邪と言ったのは、あいつが精神的な病気だって事を知られるのを嫌がっていたからです。今でも、偏見持つ人がいるらしいから…」
「確かに、精神病と聞くと、嫌がる人間も年寄りにはいるかもな。しかし、事情は分かったが、そんな状態で仕事ができるのか?」
「はい。医師の診断では、それほど重い症状でもないので、働きながらでも治せるという事です」
「ふーん…」
小金井さんは腕組みをした。
「しかし、対人恐怖症なるなんて、ここの環境がよほど合わなかったって事だよな。少なくとも、ここで働き続ける事は難しいんじゃないか?」
…ヤバい。逆効果だ。
「いや、何もここの環境が悪いって事じゃないんです! 確かに軽いイジメが合ったりして、それが引き金になったのかもしれないけれど、問題の根はもっと深いんです!」
あくまで、推測の域をでない事を、断定的に言ってやる。すると、小金井さんが引き込まれて来た。
「根が深いってのは、どういうことだ?」
「それは…実は……これも言うつもりなかったんですけど…あいつずっと引きこもっていたんです!」
「引きこもってた?」
「ええ。そうです。8年も引きこもっていたんです。引きこもった原因は、イジメです。高校生の頃、いじめられっ子だった親友をかばって、かえって自分がいじめられるハメになったんです。つまり、あいつは、何も悪くないんです。むしろ、裏切られた被害者なんです。あいつが職場に馴染めない原因は、裏切られ、いじめられたトラウマです。対人恐怖症も、それが原因に間違いないです。哀れな奴なんです。
あいつ、イジメの事も、病気の事も、ずっと誰にも言わずに一人で抱えこんでいたんです。それが、先日、やっと打ち明けてくれて、それで病院へ行く決心をしてくれたんです。それが、あいつにとって、どんなに勇気のいる事だったか分かりますか? あいつは、今、必死で立ち直ろうとしてるんです。生きようとしてるんです。どうか、ここで切り捨てないでっやって下さい。あいつに、生きるチャンスを与えてやって下さい」
なんだか、クサいドラマのワンシーンみたいだ。いくら、弟のためとはいえ、こんなに熱くなれた自分が信じられない。この町に戻って以来ずっと冷めきっていたのに…。でも、悪くない。こんな感じも。心の奥底から生きる気力が戻ってくるようだ。
一方、俺の演説を聞いた小金井さんはしばらく黙り込んだ。迷っているんだろう。俺は、小金井さんの言葉を待った。しばらくして小金井さんが、口を開いた。
「…いや、うすうすそんな事じゃないかと思ってたんだ。結構、こういう所には多いんだよ。引きこもってたって奴」
「そうなんですか」
「ああ。けど、それは、何の言い訳にもならないって事は分かってるよな?」
「それは…分かってますけど…」
「お前が分かってたって仕方がないだろう? あいつ自身が自覚しなくちゃ」
「だから、自覚するチャンスを与えてやって欲しいんです」
「チャンスを与える価値が、あいつにあるのか?」
「それは…あると思います」
「戦力になってくれると断言できるか?」
「大丈夫です。あいつ、もともとは器用な奴なんです。本気になれば仕事ぐらいすぐに覚えられるはずです。それに、俺なんかより、ずっと人に好かれる奴だったんです。今は自分を見失ってるだけです。きっと、すぐに元の自分を思い出します。見守ってやる目さえあれば」
「うー…ん」
小金井さんは唸った。そして、また
「世の中そんなに甘くないがなあ…」
と繰り返す。ダメだ。まだ迷っている。
こうなったら、最後の手段とばかりに、俺は土下座して叫んだ。
「お願いします! なんなら、俺の給料無しでもかまいません。あいつの更正料です。3ヵ月間でもいいです。どうか、お願いします」
ここまで言えば、どんな強情な相手も折れるだろう。…と、上目づかいで様子をうかがう。しかし、案に相違して、目に飛び込んできたのは小金井さんのあきれ顔だった。
「給料無しになんて、できるかよ」
その言葉に、俺の頭もさーっと冷えてくる。…そりゃ、そうだよな。まともな企業なら、給料ゼロになんてできないよな。やっぱり、どうあってもこの人を動かすのは無理のようだ。これも、弟の運命なんだろう。
…仕方ない。自業自得だ。
ついに、あきらめる。
…反省して次の道を探させよう。何、大丈夫さ。失敗は成功の元だ。
無理矢理自分を納得させていると、小金井さんが俺の肩をポンと叩いた。
何かと思い、顔を上げると、驚いた事に彼はこう言った。
「分かったよ。そこまでお前が言うなら、もう少しだけチャンスをやろう」
「へ?」
「とりあえず、クビは取り消しだ」
にわかには信じられなかったが、どうやら交渉は成功したようだ。
「本当ですか!?」
と喜ぶ俺に「ただし」と、小金井さんが言う。
「試用期間として3ヵ月だけだぞ。それで使い物にならなけりゃ、辞めてもらうからな」
異存があろうはずもない。で、俺はもう一度勢いよく頭を下げた。
「それで十分です。ありがとうございます!」
不覚にも泣きそうになる。
33話よりここまで修正を入れました。なお、この物語はフィクションです。実在の人物、私の周りの方々等に、モデルにしている人はおりません。ご了承くださいませ。