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それから、俺は、ネットカフェを後にして自宅に戻った。
そして、飯を食い終えると、さんざん迷ったあげく、弟の部屋に向かう。やはり、伝えなければならないだろう。何をかって? 昼間の小金井さんの言葉をである。
引きこもっていたからといえども、二十歳をすぎた大人である以上は、奴も一人の社会人と見なさなけばならない。社会人である以上は、自分が直面している現実を受け止めなければならないだろう。
「おい、いいか?」
弟の部屋のドアを叩くと、
「いいよ」
という声が聞こえた。
遠慮なく中に入ると、弟がパソコンの前に座っている。なんだか俺の知らないアニメの絵が表示されていた。
「もう、起きられるのか?」
と、たずねたら、答えのかわりに
「今、帰ったのか?」
と質問された。
「ああ。残業でね」
「それにしても、やけに遅かったな」
「お前のせいだろう」
「…」
弟はしばらく黙り込んだ後、こう言った。
「で、何の用だ?」
「ああ、実はな…」
そして、俺は昼間の小金井さんの言葉を奴に伝えていく。はっきりと迷惑がられている事、明日出勤しなければ、クビにされるかもしれないという事などをだ。弟は終始無言で聞いていたが、最後に「分かった」と答えた。
「じゃあ、じっくりと考えろ。後はお前の気持ちひとつだから」
俺はそう言うと、立ち上がった。そして、ドアに手をかけもう一度弟に向かって言う。
「この後の選択はお前に任せる。明日は起こしにこない。もし、会社に行く気があるのなら、自分で起きて来い」
それから、俺は風呂に入りベッドに入る。疲れもあり、ぐっすりと眠ってしまった。
そして、次の朝。
いつも通りに目がさめる。
服を着替え、階下におりる。
台所兼食堂では、いつもどおりテレビが騒がしく音をたてていて、ちょうど天気予報をやっていた。今日は一日快晴らしい。
しかし、弟の姿は見えない。
「正は?」
おふくろに尋ねると、
「まだ起きて来ないわよ」
との返事。
「今日も休むんじゃないの?」
心持ち、投げやりだ。
…そうか。そういう選択か。
失望とともに思う。
…そんなに簡単に人間変わらないとう事か…いや、嘆くまい。一番苦しいのはあいつのはずなんだ。
おふくろが、朝食を運んで来た。箸をつけるが、ロクにのどを通らない。まいった、思った以上に精神的にダメージを受けている。
やがて、出なければいけない時間になった。それで、仕方がないと俺は観念する。これが現実だ。認めなければ。…なに、まだ時期が早かっただけだ。今回はダメだったが、またチャンスはあるはずだ。そうだ。嘆くヒマがあるなら次の事を考えよう。…きっと、同じような境遇の家族が一度は口にした事があるだろう言葉を、自分自身に言い聞かせる。
そして、俺は立ち上がった。
と、その時、
「おはよう」
なんと、弟が起きてきた。
驚いて、振り返ると、奴はちゃんと着替えていた。
「お…遅いじゃないか…」
俺はできる限り平静をよそおった。
「もう、飯を食っているヒマないぞ」
「ううん…」
弟が首をふる。
「今日は会社には行かない」
「何?」
「さんざん迷ったけど、まだ行けない。小金井さんに伝えておいて」
「まだ行けないって…じゃあ、いつから行くんだよ?」
「明日から」
「じゃあ、今日はどうするんだ?」
「病院に行ってくる」
「病院?」
「うん。精神科にかかって来る」
その言葉で、俺は全てを理解できた。昨日のやりとり、奴の心に届いていたんだな。
ところが、何も知らないおふくろが悲鳴を上げた。
「精神科ですって? なんで?」
すると、弟が答えた。
「実は、俺…体が震えて、いう事をきかないんだ。このままじゃ働けないからどうしようって思ってたら、『精神病院で見てもらうといい』ってある人が教えてくれた」
「誰よ? そんなこと言ったの」
「インターネットの人」
「失礼な人ね。そんな人の言う事信用しないの!」
「おふくろ!」
俺はおふくろをとがめた。
「そんな言い方ないだろう? 精神科が恥ずかしいっていうのかよ? あいつはあいつなりに、自分の事をなんとかしようと思っての決断だろ? 下らない偏見で邪魔するなよ」
「でも、精神科なんて…」
「そう言い方が、どれだけ嫌な思いさせるか考えろよ。なあ、正」
と、弟を見る。
「お前が行くべきと思うなら、行けよ」
「…分かった…」
弟は微妙な面持ちで頷いた。それで、俺の心が軽くなる。
「よし。じゃあ、小金井さんにはちゃんと伝えておくから」
「頼む」
そう言って頭を下げた弟の肩を軽く叩き、俺はカバンを手に部屋を出ていく。背後からおふくろの声がする。
「分かったわ。あなたがそう決心したなら行きなさい。保険証だして置いてあげるから…」
それを聞きながら、『大丈夫、大丈夫』と俺は弟にエールを送る。『きっと、お前は勝てる』。
…いや、弟だけじゃない。俺にとっても今日は戦いだ。小金井さんはきっと、嫌な顔をするだろう。けど、あいつのためにもきっと切り抜けてみせる。
見上げれば、抜けるような空に綿雲がひとつ浮かんでいた。けれど、今日は快晴だ。天気予報はきっと外れないだろう。