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『リリカさん、はじめまして。マリアといいます。
リリカさんの描かれる、少女達にひかれてやって来ました。
繊細ではかなげなタッチが印象的ですね。
私も絵を描きますが、
このようなガラス細工のような少女達は描けません。
無い物ねだりでうらやましく思います』
入力した文字が、画面上に表示されていく。そう。これは、俺の書いた文章だ。リリカ…森崎の掲示板に書き込む為に考えた。言うまでもなく嘘八百、でっちあげの文章だ。念には念を入れて、マリアという女性名を使う。なぜ、こんな大嘘をつくのか? それは、弟のためだ。さらに俺は文字を打ち込んでいく。
『そして、喪黒うさん、こんにちは。
リリカさんと喪黒うさんのやり取りを
全部読ませてもらい、他人事とは思えず書き込みをさせてもらいます。
喪黒うさんはずっと引きこもり、そして社会復帰なさったとの事、
大変、勇気がいる事だったと思います。立派だと思います。
実は、私の弟も、引きこもっていました。
しかし、ついに立ち直る事のできないまま
1年前、病で亡くなりました。
どうか、喪黒うさんには、ここで挫けず、私の弟の分までも頑張って欲しいと思います。
それでは、また参ります』
我ながら陳腐な文章だ。それに女の名を語るにも抵抗がある。
しかし、まさか、俺の名前は出せない。あいつは、リリカの正体が森崎であることも知らないんだ。まして家族に、こんな風に、覗き見されている事を知ったら、どんな気持ちがするだろう? それを思うと、とても自分の名前を出す気にはなれなかった。
だから、あくまでもあいつの知らないどこかの女性…しかも、あいつと似た境遇の弟を持った悲しい姉を演じる事にした。そうやって、あいつの心を揺さぶるつもりだ。マリアの名前には、暗にあの『つぎはぎのマリア』のイメージを込めている。
それから、しばらく他のサイトを覗いたりして時間をつぶし、20分程たったところで、リリカの掲示板に戻ると、なんと、すでに弟の返信が入っていた。
『マリアさん。コメントありがとうございます。
弟さんは、僕と同じだったんですね。でも、亡くなられたんですね。
ご冥福をお祈りします。
弟さんの分まで頑張りたいと言いたいところですが、僕には無理そうです。
ごめんなさい』
軽く失望する。しかし、まあ、そうだな。これぐらいで気持ちが動くぐらいなら、あいつだって苦労していないだろう。
だが、しかし…どうしても立ち直ってもらわなければ困る。自分のためだけじゃなく、あいつ自身のためにも。それで、俺は少々ムキになった。キーボードに指を乗せ、考え考え打ち込む。
『もぐろうさん。
返信ありがとうございます。
あなたを見ていると、本当に弟を思い出します。
弟もそうでした。ずっと、自分は仕事なんかできないと信じ込んでいました。
しかし、入院して先が長くない事を知った時、やっと気付いたんです。
自分は働けないのではなくて、ただ、勇気がなかったっただけだと言う事に…。
そう。ほんの少しの勇気がないために、
人生のほとんどの時間を無駄に過ごしてしまった事を、
あの子は最期の最期まで後悔していました。
死ぬまぎわ、あの子は言いました。
「姉さん、僕が馬鹿だったよ。もし、生まれかわれるなら、今度こそ働きたいよ」と。
彼は本当に後悔していました。
しかし、気付いた時には、すでに手後れだったのです。
喪黒うさんには、弟のような思いをしてもらいたくない。
どうか、生きている間にできる事を精一杯やって下さい』
書き込んでしばらく待つと、弟の返信が入って来た。弟の返信は、速い。どう答えて来たか、固唾をのみ、その文字を追う。
『マリアさん。
弟さんの事、本当に気の毒に思います。
けれど、やっぱり僕には期待に答えられそうもありません。
僕は、病気にはなりませんでしたが、何度も死ぬ事を考えました。
巻き添えで兄を殺しそうになって以来、自殺はしないと心に誓いました。
けれど、正直いって、今でもそんなに生きたいとは思っていないのです。
もし、今すぐこの世から消えられるなら、それはそれで本望です。
そして、もし生まれ変わったなら、僕はこの国には生まれたくありません。
もっと貧しくてもいいから、自分らしく、自由にのびのびと
生きられる国に生まれたいです』
正直いって、ショックだった。俺の考えたチープな設定がギャグに思えるぐらい、奴の悩みは深刻だ。あいつ、まだ死に神に取り付かれてたのか。どうしよう。どう返事しよう? 考え考え文章を打つ。
『喪黒うさん。それは、あなたが本当の死に直面してないから
言える事だと思います。
もし、どうしても死ななければいけないと決まったら
あなたはきっと生きたいと思うでしょう』
そこまで書いて俺は師匠の言葉を思い出した。そうだ、師匠も言っていたじゃないか。心中事件でいざ本当に死にかけた時、突然『死にたくない』と思ったって。俺は自分を励まして文章を続けていった。
『そして、その時、そして気付くでしょう。
「自分は、あまりにも何もしていなかった」と
私の弟もそうでした。
あなたの言う通り、今のこの国は生きやすい国とはおもいません。
それでも、あなたが望む自由な人生を、
今の人生で実現する事は不可能でしょうか?
私はそうは思いません。
しかし、何か行動しなければ夢は夢のままで終わります』
数分後、弟から返信がある。
『マリアさん。
確かに僕は、人並み以上に何もしていないと自覚しています。
僕だって何かしたいのです。でもできないんです。
怖くて無理なんです』
俺はすぐに返事をした。
『喪黒うさん。
あなたは今、生まれ変わろうとしてるのです。
子供が生まれる時、陣痛があるのはご存知ですね。
あなたが感じている辛さは、陣痛のようなものです。
そこを乗り越えれば、きっと未来が開けます』
その後返って来た言葉に、俺は再びショックを受けた。
『マリアさんの言う事は、頭では分かってるんです。
でも、ダメなんです。体がついて来ないんです。
会社に行くと、体が震えるんです。
抑えようとしてもダメなんです。
自分で自分がコントロールできないんです。
人がそばに来るだけで、震えが走ります。
上司に叱られるとますますひどくなります。
震える事が怖くて人前にでられません』
…震える? なんだそれ?…
あまりにも意外な言葉ではあったが、俺の頭にフラッシュバックするシーンがあった。…そうだ、あの日の帰宅途中、あいつ、震えていたじゃないか。あの事を言っているのか? 間違いない。きっとそうだろう。しかし、それが分かったからと言って、どう返事すればいいのかが分からない。しばらく考えたあげく、更新ボタンを押すと、リリカの文章が投稿されていた。
『マリアさん。訪問ありがとうございます。
大変な過去をお持ちなのですね。
弟さんのご冥福をお祈りします。
そして、マリアさんが一日も早く
悲しみを乗り越えられる事を祈っています。
仲間がふえるのはとても嬉しいです。
マリアさんはどんな画家が好きですか?
好きな絵のお話をたくさんしていって下さいね☆
いつでも歓迎します。
そして、モグちゃんこんばんは。
私も、マリアさんの言われる通り
今、モグちゃんは新しく生まれようとしてるんだと思います。
これを乗り越えれば、きっと本当の自由を手に入れる日が来ると思うよ☆
さて、体が震えると言う事ですが
実は私の友人にも同じような事がありました。
精神科で見てもらったところ、社会不安障害と診断されました。
薬を飲みながら仕事を続けているうちに治りました。
意外と、同じような症状にかかる人多いらしいです。
モグちゃんも病院に行ってお薬をもらって下さい。
大丈夫です。薬を飲み続ければちゃんと治ります』
社会不安障害? 初めて聞く名前だ。ネットで検索してみると、専用のサイトが見つかった。
なんでも、対人恐怖症のひどくなったものらしい。パニック障害なんかも含まれるようだ。弟はいやがらせばかり受け過ぎて人が怖くなったのかもしれない。サイトには症状に苦しむ人の書き込みもあった。いずれも孤立して苦しんでいたという過去を持つ。人と人のつながりは大事と言われるが、人を追い詰めるのも人である。それでも、つながらなければいけないというのなら、なくてはならない物あるんじゃないだろうか? それは、例えば思いやりとか、優しさのような。
考え出すと、果てがないので森崎の掲示板に戻ってみる。すると、既に弟の投稿が入っていた。
『リリカさん。
本当に、病院に行けば治るのでしょうか?
治るものなら治したいです。
でも、精神科なんて…怖いし、恥ずかしいです』
その文章を読んでこっちが恥ずかしくなる。
いい年こいた男が、何を言ってるんだ。
俺はキーボードを叩いた。
『リリカさん。
コメントありがとうございます。
私が好きなのは、ピカソにモネ、パウル・クレー…etcです。
特にモネの光に満ちたみずみずしい世界が好きです。
けれど、私の絵は無機質で冷たいものばかりです。
いつか、ああいう世界を描ければと思います。
たくさんお話ししましょうね☆
そして、喪黒うさん。
リリカさんの言う通りです。
恥ずかしがっていないで、ちゃんと病院に行って治しましょう。
問題が起きたら、目の前の事を1つ1つ解決していけばいいのです。
逃げるから、怖くなるのです』
すると、すぐに弟から返信が入った。
『確かに、僕の心は恐怖で満ちあふれています。
それは、僕が逃げてばかりいるからでしょうか?』
『その通りです』
俺は入力した。
『でも、逃げたくなるのは、何もかも完璧にしようと思うからだと思います。
仕事でもなんでも、最初から上手く行くわけないのです。
ゆっくり進めばいいのです…』
ここまで入力し、とりあえず送信する。
俺の言いたい事は、大体言った。後は奴の心次第だ。
しばらく待つと、リリカからの投稿が入っていた。
『モグちゃん。私もマリアさんの言う通り、ゆっくり進めばいいと思うよ。
それとね、私思うの。世の中って、自分の見たいようにしか見えないんだって。
モグちゃんが、周りの人全てを悪いように思えば、みんな悪い人になるし、
良い人と思えば、良い人になるんじゃないかなって…。
全部自分の心次第じゃないのかな?』
あれ? 森崎の奴、師匠と同じこと言っているな。と、思いつつ更新ボタンを押すと、弟からの返信が入っていた。
『分かりました。少し考えてみます』