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「河井兄貴。ちょっと時間とれるか?」
月曜の午前中、仕事をしている俺に、小金井さんが話しかけて来た。
俺は作業の手を止め、顔を上げた。
「え? 別に良いですけど…」
「じゃあ、キリがついたらでいいから、2階の応接室まで来てくれるかな?」
「はい…」
うなずくと、俺は適当なところで作業を切り上げ、2階の応接室へと向かった。
…小金井さんが、俺を呼び出すなんて…何の用だろう? 珍しい…
思いつつ、ひんやりとした廊下を歩く。そんな俺を待ち受けていたのは、最悪の事態だった。
「実はなあ、お前の弟の事なんだけどなあ…」
応接室のソファに座り、小金井さんが言う。
「そこら中が迷惑してるんだよな」
…そうか、その件だったか…。
俺の胸が早鐘のように鼓動を打ち始める。
…しかし、考えてみれば、他に話なんてないよな。
「お前は、どう思う?」
「え?」
「兄貴として、弟の事をどう思う?」
「あ…はい」
俺はしどろもどろ答えた。
「そう…ですね。正直言って、ものすごく迷惑をかけているとは思いますけど…」
「そうだよな。あいつ一人のために、みんな凄く迷惑しているよな」
「でも…兄としてフォローするなら、あいつなりに凄く頑張っているとは思います」
「あいつなりにねえ…」
そこで、小金井さんは言葉を止めた。
「けど、会社っていうのは、成果が上がらないと仕方ないっていうのは、分かっているよな」
「え…まあ、…はい」
「会社っていうのは、利益をあげる事が全てなんだ。利益を上げるには、効率を良くしなければならない。そのためには、チーム全員の足並みをそろえなくちゃいけない事も、分かるよな?」
「ええ。だから、僕も足をひっぱらないように頑張ってます」
「お前の事じゃない。弟のことだ」
「ああ。そうですよね」
「正直言って困るんだよな」
「はあ、…でも、あいつなりに…」
「だから。『あいつなり』に何なんだ? 今日で欠勤何日目だと思ってるんだ?」
「それは…体調が悪くて…」
「だったら、この際ゆっくり休んだらどうだ?」
「え? それって」
…遠回しのクビ勧告じゃないか?
声なき言葉に小金井さんが答えた。
「これ以上休むようなら、そういう事もあり得る」
「でも…」
「あいつにも伝えておいてくれ。ヤル気があるのか、無いのか。もし、無いのなら、申し訳ないが、うちでは面倒をみきれない」
「……」
返す言葉も無かった。が、仕方が無い。全て悪いのはアイツなのだから。それにしても、
…どう、弟に伝えよう? どう弟に切り出そう。
そんな思いばかりが、目まぐるしく渦巻く。しかし、どう伝えようが、どう切り出そうが、伝える事実はひとつだ。弟の絶望する顔が浮かんでくる。暗澹とした気持ちで一日が終わり、外に出ると既にもう暗かった。足取りも重く歩いて行く。
…ええい。いい加減に、吹っ切れよ!
俺は自分で自分を叱りつけた。
…まだ、別にクビと決まったわけじゃ無い。明日からでも出勤して、今まで以上に頑張れば、きっと小金井さんの気持ちも動くはずだ。そうだ。明日は無理にでも弟を引きずり出そう。首に縄をつけてでも、会社に連れてくるんだ。そこまで、楽観的な妄想をして、それからすぐにため息をつく。そんな事は無理なのだ。
…仕方ないんだよ。
俺は自分に言い聞かせた。
…これも、あいつが招いた事だ。因果応報。やった事は、自分に返ってくるって事さ。それが、この世の法則なんだ
そうさ。全部あいつが悪いんだ。まともに働けないあいつが悪いんだ。
けれど、因果応報と言うのなら、あいつが引きこもらなければいけなかったのは、一体何の報いなんだろう? そもそも元々器用だったあいつが、たかだか、テレビの解体や、ゴミの分別なんて簡単な仕事さえこなせなくなったのは、8年も引きこもっていたせいだろう? そして、引きこもらなければいけなくなったのは、イジメのせいだ。しかも、そのイジメの発端は、あいつの正義感だった。親友を守ったがために、あいつは級友によってたかって廃人にされた。これは、一体何の罪で、何の罰だ? 考えれば、考える程分からなくなる。しかし、何の因果でか分からないが、あいつは、暗闇の中に生きる事を余儀無くされた。それなら、それで、受け入れるより仕方ないのかと観念しようか。そして、これで、俺の東京に帰る夢も絶たれた事になる。それも、俺の運命か。
自嘲気味に空を見上げると、ぽっかりと月が浮かんでいた。
月は、その、わずかな輝きで闇を照らしている。
それは、まるであてのない希望のように、頼りのない光ではあるが、それでも人は先に進まねばならぬ。そうだ、人は進まねばならぬ。ならば、どうすれば良いのだろう? 俺に何ができるんだろう?
あいつだって、もう全てを投げているかもしれない。今さら人の言葉を聞く耳もないかもしれない。
いや、違う。
あいつは、リリカに助けを求めた。そうだ、言っていたじゃないか。
「僕は、変わりたい。でも、変われません。どうしても、変われないのなら、死んだ方がましです」
その、悲鳴のような言葉を思い出すと、俺はやみくもに走り出していた。
行く先は、家ではなく、ネットカフェだ。