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もし、神という名の作家がいるのなら、そいつはそうとうのひねくれ者に違いない。容易にハッピーエンドは見せたがらないようだ。
「おい、正、正」
午前7時15分。弟の部屋のドアをノックする。
「そろそろ起きないと遅刻するぞ」
しかし、返事が返って来ない。
「おい、正」
俺はしつこくノックした。それでも弟は出て来ない。仕方がないので、扉を開けて中に入ると、弟は、まだ布団の中にもぐっていた。
「おい、起きろよ。遅刻するぞ。それとも体調でも悪いのか?」
すると、弟が答えた。
「うん。腹が痛い」
「カゼか?」
「多分、そうだと思う」
「大丈夫か?」
俺は、昨日の弟の様子を思い出し不安になった。
「本当にただのカゼか?」
「そうだよ。多分一日寝れは治ると思うから、大丈夫だよ」
「そうか…」
弟の言葉を信じて、俺は仕事に向かった。
『弟さん、大丈夫?』
その日の夜、久しぶりに森崎から電話があった。そのタイミングの良さに少々驚く。
「弟なら、今日は体調を崩して仕事を休んだけど…なんで知ってるの?」
『うん。うちのサイトに、弟さんがおかしな書き込みしてるから』
なんでも弟は、今でも森崎のサイトにちょいちょい顔を出しているらしい。
「おかしな書き込みって?」
『なんか、会社に行くのが怖いみたいな事言ってるよ』
「怖い?」
『うん。みんなが自分の事を見て笑ってるって』
「…」
それで、また俺は昨日の弟の様子を思い出した。
「確かに昨日の帰り少し様子がおかしかったけど…別に誰も笑ってないと思うし…久しぶりに外に出たからそんな風に思えるだけで、あいつの気のせいだよ。一時的なもんじゃないかな?」
『それなら、いいけど…気をつけてあげてね』
「分かった。ありがとう」
そこで、電話を切った。
ちなみに、森崎との付き合いは、弟の失踪事件以来なんとなく復活していた。しかし、微妙な関係だ。よくこれで続いているなと正直不思議に思う。森崎は待っていてくれるのかもしれないが、今はまだ何も決められない。その卑怯さを知りながら、ずるずると日を過ごしている自分がいる。
翌日、俺はまた弟の部屋の扉をノックした。
「おい、正。どうだ? 具合は」
しかし、弟の返事はない。
昨日も奴は一日部屋にこもっていた。一抹の不安がよぎる。
俺は、ドアを開け、奴の部屋に入って行った。弟は布団にもぐったままだ。俺は布団ごと奴を揺さぶった。
「おい、正、正!」
すると、弟が布団から顔をのぞかせた。その顔色の悪さにぎょとする。
「大丈夫か? お前…」
弟は力なく首をふった。
「どうした? どこが悪いんだ?」
しかし、弟は首をふったきり何も答えない。しばらく待ってやっと出て来たのは「無理」という言葉だけだった。
結局その日も弟は仕事を休んだ。
小金井さんに休む旨を伝えると「そうか」と言ってため息をつく。なんだか申し訳ない気持ちになってくる。弟一人のためにライン中、ひいては会社中の人に迷惑をかけるはめになるのだから…。
しかし、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、弟は会社に行く事ができなかった。
毎朝それを告げるたび、小金井さんの顔つきは渋くなってくる。ある朝とうとういたたまれなくなって、「すいません」と頭を下げると、
「別に謝る事はない。補充はいつでもきくから」
と、言われた。その言葉に胃が痛くなる。このままではヤバい。復帰するより先に、奴はクビにされるかもれない。そんなことになったら、また、あの地獄のような穴蔵生活に戻ってしまう。そう考えると、気が気ではない。親父とおふくろの顔にも焦燥感が漂い出した。
その夜、俺は森崎に電話し「その後、弟は書き込みをしているかどうか?」尋ねた。森崎は『してるよ』と答える。
『大分、調子悪いみたい。私では、どうしてもあげられないぐらい…』
「なんて書いてるの?」
『色々ありすぎて、口で説明するのはちょっと…。そこにパソコン有る?』
「うちには、無いんだ。有るけど…弟の部屋にしかない」
『そう。困ったな。見て、読んでもらうのが一番と思ったんだけど。私の家に来てもらうにも、いつも帰るの8時過ぎだし…』
「いいよ。近所にネットカフェがあるから。そこで見てみる。森崎のサイトに行けばいいんだね? でも、アドレスを知らないな(俺は、めったにパソコンを触らないので、検索をすると言う事を知らなかった)」
『そうね。今からメールでサイトのアドレス送るわ』
「分かった」
電話を切ってしばらくすると、森崎のメールが届いた。確かにサイトのアドレスが書いてあるのを確認すると、俺は自転車で近所のネットカフェに向かった。
森崎こと、『リリカ』のサイトは、とても少女趣味に出来上がっている。言葉を替えれば乙女チックってやつだ。まず、出入り口では花と小鳥に囲まれた横顔の少女が迎えてくれる。Garallyと書かれた文字をクリックすると、繊細な輪郭をもった少女達が現れる。その、泣いたり、微笑んだりしている少女達は全て森崎の描いたものだ。それらは森崎にどことなく似ているようにも見える。どのみち、俺には到底描けない世界だ。
そのサイトの掲示板も、その雰囲気にふさわしく、白い背景に淡いパステルカラーの小さな文字が並んでいた。その数々の書き込みの中には、確かに弟の書いたものもある。
『リリカさんこんばんは。僕は、やっぱりダメかもしれません』
4月16日、火曜日に投稿されたものである。何がダメなんだと思いつつ、過去の書き込みを追っていくと、森崎が返信をしていた。
2008年4月16日 (火) 21時08分 [名前] : リリカ
[コメント] : どうしちゃったの? 会社で何かあったの? 話してみて。
すると、弟の返信。
2008年4月16日 (火) 21時24分 [名前] : 土中喪黒う(注 弟のインターネットでの名前である)
[コメント] : 実は、僕孤立しているんです。みんな僕を笑い者にするのです。上司も僕だけには厳しいんです。
ああ…なるほど。このことか、森崎が言っていたのは…と納得しつつどんどん過去ログを追って行くと、30分ほど後にリリカが返信していた。
2008年4月16日 (火) 21時58分 [名前] : リリカ
[コメント] : 本当に笑い者にされているのかな? 気のせいじゃないかな?
孤立するのは、モグちゃん(弟の事らしい)の事をみんなが知らないからだと思うよ。
上司が厳しいのも仕事場なら、ある程度仕方ない事だよ。
モグちゃんは、働く事になれていないから、よけいにそう感じるんじゃないかな?
悪く考えると、ますます悪くなるよ。
まずは、笑顔で挨拶してみたら?
モグちゃんの良い所が分かれば、みんなの態度も変わると思うよ。
…なるほどな。良い事言うな、森崎は…などと感心しながら、さらにログを追って行く。
2008年4月16日 (火) 22時10分 [名前] : 土中喪黒う(注 弟のインターネットでの名前である)
[コメント] :そんな事で、解決しないと思います。
あいつらは、根本的に僕を馬鹿にしているんです。
2008年4月16日 (火) 22時30分 [名前] : 土中喪黒う(注 弟のインターネットでの名前である)
[コメント] :じゃあ、また引きこもっちゃうの?
辛いと思うけど今が頑張り時だよ。
御両親もお兄さんも、モグちゃんの事心配してると思うよ。
誰も人の事を馬鹿にしたりなんかしないと思うな。
明日からは、頑張って会社に行こうよ。
リリカは必死で励ましていてくれた。けれど、一部は真実、一部は気休めだなと俺は思った。多少の被害妄想が入っているとはいえ、あいつが会社で馬鹿にされ、孤立しているのは事実である。その原因は、あいつの勤務態度にある。それを自覚しない限り、あいつの辛さは無くならないだろう。
2008年4月17日 (水) 00時05分 [名前] : 土中喪黒う
[コメント] :分かりました。頑張ってみます。
との書き込みがある。
しかし、俺はその先の展開を知っている。奴は説得されなかった。仕事には行けなかった。そして、その日の朝にはこんな、失礼極まる書き込みをしていた。
2008年4月17日 (水) 08時55分 [名前] : 土中喪黒う
[コメント] :やっぱり今日も行けませんでした。
家族の考えなんてどうでも良いです。兄貴なんてあてにしてないし。
仕事で俺が叱られても、あいつは無関心だし。
あいつにとって、俺は居なくてもいい存在なんです。
なんて言いぐさだ。腹を立てながらも森崎の返信を見る。
2008年4月17日 (水) 21時43分 [名前] : リリカ
[コメント] :そっか。今日も休んだんだ。しょうがないね。
でも、お兄さんが無関心だなんて思わないで。仕事場で馴れ合ったら反感を買うから、あえて距離をおいてるんだと思うよ。
本当は、歯がゆい思いしてるんじゃないかな?
思い出してよ。お兄さん家出したモグちゃんを探してわざわざ東京まで来てくれたでしょ?
無関心なら、放っておくと思うよ。
お兄さんも、御両親もモグちゃんが幸せになる事を望んでると思うよ。
森崎は分かってくれている。俺が、工場であえてあいつのフォローに入らないわけをだ。この先、俺が居なくなってもやっていけるようでなければ困るんだ。
弟は、これを読んでどう感じたのか。その日はそれきり書き込みをしていなかった。次の日も沈黙を守っている。その間見知らぬ奴のメッセージが続く。そして、やっと今日の午前9時35分。奴は書き込みをしていた。
2008年4月19日 (木) 09時28分 [名前] : 土中喪黒う
[コメント] :リリカさん。今日も休みました。
ついに一週間休み続けてしまいました。
リリカさんの言っている事は分かってるつもりです。
でも、怖くて仕方がないんです。
仕事に行くと頭がぐちゃぐちゃになってしまうんです。
上司に怒られると、さらにパニックになります。
どう動けばいいのか分からないんです。
リリカさん、どうして僕はこうなんでしょうか?
頑張りたいのに、体が言う事を聞きません。
両親にも兄にも、本当に申し訳ないです。
僕は、変わりたい。でも変われません。
どうしても変われないなら、死んだ方がましです。
そこで、2人のやりとりは終わっていた。
今回、もぐろうの相談に対するリリカの回答は、某お悩み掲示板の相談と回答を参考にして書きました。
自分にとっても参考になりました(^^;。生かしたいです…;