32
目覚ましが鳴った。
6:30だ。もう起きなくなくてはならない。今日は大切な日なのだから。
布団から身を起す。3月下旬。まだ寒い。ひやりとした空気に包まれ、思わず身震いする。そして、…
…大丈夫だろうか?
一抹の不安がよぎる。
…どうか大丈夫であって欲しい。
と願いつつ、服に着替え階下へ向かう。
テーブルの上には朝食が用意されていた。
目玉焼きにサラダが二人分。
オヤジが起きるのは、いつも8時過ぎだから、これは俺と、弟の分だ。おふくろはオヤジを待って食べる。
「正は、起きて来たか?」
おフクロに尋ねると
「まだ」
との返事。
「果たしてちゃんと起きてくるのかなあ?」という言葉を飲みこみ、俺はリモコンのスイッチを入れた。顔なじみのキャスターがニュースを語っている。6:40の表示を見ながら、俺は朝食をかきこんだ。
と、その時、トントン…と、背後から足音が聞こえてきた。
心臓が1度だけ大きく鼓動を打つ。飯を飲み込み振り返ると、弟が立っている。
「…オス」
箸を持ったまま右手を上げると、弟は黙って向い側に座った。
それから、俺達は無言で朝食を済ませ、顔を洗うため、順番に洗面所へ向かう。
7:30
チャイムが鳴った。
おフクロが玄関に駆けていく。
「おはようございます!」
元気な声が聞こえる。
みーさんの声だ。
どうやら、約束通り来てくれたらしい。
俺は大きく息を吸い込むと、ソファに埋もれていた弟の肩を力強く叩いた。
「ほら! 行くぞ!」
「ああ…」
弟はうなずくと、ソファからゆっくり立ち上がった。
家から三婆沙メタル株式会社までは、歩いて20分ほどの距離である。
今日から俺達はそこで働くのだ。
そう。俺達はそこで働くのである。
つまり、俺は元いた工場に出戻ると言うわけだ。
そうなった理由はいくつかある。
まず、俺がつい先日まで働いていた工場だが、年末に入院して1ヵ月も休んだ上、弟さがしで半月も休んだために、すっかり信用をなくして結局クビになってしまった。
そんなわけで困り果てていた時、弟が『働きたい』と相談を持ちかけて来た。それは、あの東京への旅から1週間後の事だった。あれ以来、弟はすっかり心を入れ替え、部屋から出るようになった……わけでもなく、相変わらずほとんど一日部屋に閉じこもっていた。それで、相変わらず3食俺が運んでいたわけだが、その日に限り、自分からドアを開けて「相談があるから、入って来い」と俺に言う。驚きつつも、言われるまま部屋に入って「なんだ?」と尋ねると「俺、やっぱり働こうと思う」と言う。
「そうか」
と、俺はうなずいた。同時に嬉しくなった。あの旅行も無駄じゃなかったってことだ。
「じゃあ、早速明日から職安へ行くか」
身を乗り出した俺に向かい、弟は人さし指をたてこう言った。
「でも、一つ条件がある」
「条件?」
…なんだ?
「面接を受けなくても入れる会社はないか?」
…そんな会社、あるわけがない。
しかし、奴の働きたいという願いはどうしても叶えてやりたかった。せっかく芽吹きかけた希望の芽である。なんとか大きく育ててやりたい。それで、俺は3日3晩考えた。しかし、なかなか良い知恵が浮かばない。
そんなおり、みーさんから電話がかかって来た。それで、俺がまた仕事を辞めてぶらぶらしている事を告げると、
『じゃあ、うちの会社に戻って来ないか』
と言ってくれる。なんでも、とある部署のパートさんの間でもめ事がおこり、大量に人が辞め、人手不足で大変な事になっているそうなのだ。
気持ちはありがたかったが、少々迷惑な申し出でもあった。なぜなら、次の転職はちゃんとした会社に入ろうと思っていたからだ。しかも、ここではない場所で…。
ところが、断わろうとした俺の頭に、突然閃くものがあった。「そうだ!」。俺は叫んだ。そして早口で尋ねた。
「人手が足りないって事は、2人同時に勤める事はできるのかな? もし、いいなら、俺ともう一人セットで勤めたい奴がいるんだけど!」
『え? 何って?』
みーさんの返事。どうやら、聞き取れなかったらしい。それで、今度はゆっくりと言った。
「あのね。もし、人手が足りないのなら、俺と、もう一人、一緒に働きたい奴がいるんだけど」
『ああ』
今度は伝わったようだ。
『多分良いと思うよ。明日課長に聞いてみるよ』
聞くまでもなくOKだろう。何しろ、俺はあの会社では信用があった。案の定、次の日みーさんから連絡が来る。
『優ちゃんの知り合いなら大歓迎だって』
「よっしゃ!」と俺は手を打った。
その日の夜、俺は、早速弟に聞いてみた。
「お前、俺が前にいた会社で働いてみる気はないか?」
すると、弟は意表をつかれた顔をした。
「兄貴が前に努めていた会社って…例の、リサイクル会社?」
「そうさ。あそこなら俺もよく知ってる人がたくさんいるし、仕事もそれほど難しくないし…」
「でも、面接あるんだろう?」
「そりゃ、あるさ。面接の無いところなんてないぞ」
「じゃあ、無理だ」
「そう言うなよ。あそこなら、みーさんもいるし…」
「みーさんも?」
その名前に弟は心を動かされたようだ。いい感じだ。
「そうさ」
ここぞとばかり、言葉を励ます。
「それだけじゃない。俺も、働かせてもらうつもりだ」
「あ、そう」
こちらはそっけない反応。ちょっとムカツク。が、しかし、ここで挫けてなるものか。
「それに、面接ったって形だけだよ。なにしろ、俺の弟というだけで信用があるからな」
半ばハッタリをかますと、弟はしばらく考え込んだ後、
「分かった。やってみる」
と答えた。
次の日会社に電話すると、早速面接に来てくれという。面接は思ったほど手こずることもなく、俺の予言通り形式だけのものに終わった。そして、1週間後に来てくれと言われ、そして今に到ったわけだが…。
正直、俺も緊張していた。
うまくいくだろうか?
今日が弟の人生の分岐点。立ち直れるか、立ち直れないかの瀬戸際なのだ。
しかし、弟はもっと緊張しているだろう。横を行く弟の顔を見る。うつむき加減。表情もみえない。
と、その時
「桜、綺麗だね」
と、みーさんが言った。
顔をあげれば川沿いに満開の桜並木が続いている。
「ああ。もう、そんな季節か」
思わず口にする俺。少しだけ緊張がほぐれる。やはり、みーさんに迎えに来てもらって良かった。
「おい、見ろよ、桜が咲いてる」
俺は弟に話しかけた。しかし、奴は心ここにあらずって具合で返事もない。
そんな弟の姿を見て、 …頑張れ、弟よ…と、俺は心の中でそっと励ました。
そうこうしているうちに、工場に着き、鉄製の門をくぐる。
サイレンが鳴り響く。
さあ、仕事の第一日目だ。