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神様の不良品  作者: 橘 明
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 そんなある日、一人の画商が訪ねて来た。なんでも、どこやらで俺の絵を見かけてえらく気に入ったから、個展を開いてみませんかという話だった。

 もちろん断わった。

 理由は?

 決まっている。俺は、二度と本気で絵は描かないと誓ったんだ。


 しかし、彼はしつこかった。何度でも訪ねて来た。あまりにもしつこいから、ついに俺は自分が松坂牙城だった事や、心中の一件を打ち明けて、二度と本気で絵は描かないつもりなんだと告げた。

 ところが全て聞き終えた彼は『それなら、なおさらあなたは描くべきだ』と言う。それでも拒否すると、ついに彼は怒りはじめた。

『あんたは、何十万もの人間がのどから手が出るほど欲しくても与えられない才能を持っているくせに、それを放棄するのか。だったら、本当にそれを必要としている人にくれてやりなさい。誰にもくれてやれないなら、あんたは描くべきだ』と。

 俺は言い返した。

『才能があるって? そういってくれるのは嬉しいよ。自分ではそれほどとも思っていないがね。第一、才能があるからなんだっていうんだ? 人より偉いとでも? 冗談じゃない。俺は絵を捨ててから色んなものを見たよ。絵なんか描けなくたって立派な人間はいくらでもいる。一日一日を幸せに過ごせる才能がどれだけ貴重なものか知ってるのか? それがないのがどんなに辛いか知ってるか? 俺はそれがないがために、血を吐くような思いをしなくちゃならなかったんだ』

『誰も、絵が描けるから偉いとは言ってない。誰にだって与えられた天分と言うものがある。それは良いものでもある反面、悪いものでもある。時には自分を苦しめもする。しかし、結局はそれと共存しなくちゃならない。あんたは、たまたまそれが絵を描く才能だったってことだ。それは変えようのない事実だ。にもかかわらず、描かないっていうのなら、あんたは自分から逃げるって事だよ。この先、画家としても、一人の人間としても、中途半端な生き方しかできないだろう』

 その言葉は、俺の中に眠っていた何かを呼び覚まさせた。しかし、それが何なのかは言葉にできない。それで俺は反駁した。

『確かにあんたのいう通りかもしれない。絵は俺にとって生きる事そのものだった。絵を捨てた後も、俺の手は目の前にある風景を無意識に描写したがっていたさ。俺の頭の中はいつもキャンバスと画材で一杯だと言ってもいい。けど、絵が俺を導いたのはどんな世界だった?

 子供の頃は単に描く事が好きで描いていた。少し成長すると、それは不幸な現実から逃げるための手段に変わっていった。現実から逃げられた後は、俺を苦しめるものに変わった。なぜなら『現実からは逃げられない事』が証明されたからだ。あげくの果てにどうなった? 一人の人間を殺してしまっただけじゃないか?』


 俺の言葉に、彼はしばし沈痛な面持ちをみせた。それでも言葉は止めない。


『あんたを破滅に導かせたのは絵じゃない。あんた自身だ。絵はあんた自身を表現するだけさ。世界を作るのはあんただ。現実からは逃げられないが、現実は変える事ができる。現にあんたは既に変えただろう?』


『俺が世界を変えただって?』



 結局その日、彼には帰ってもらったが、その言葉はずっと心の中にひっかかり続けた。…俺が現実を変えた? そうなんだろうか? 確かに今の俺を取りまく世界は、あの頃のように悲愴ではないが。そして謎めいた彼の言葉は、俺の心に希望の灯をともした。…もしかして俺は許されたんだろうか? …それは僅かな風にも消え入りそうなかすかな光ではあった。がしかし、もし許されたのならば、もう一度絵を描きたい。ここに至り、やっと自分にとってどれ程絵が大切であったかを痛感する。

 ある日、俺はついに決心した。

 そうだ、過去と向かい合おう。長年俺を苦しめ続けた悪夢、俺に絵を捨てさせたあの夜の出来事と向かい合おう。そうすれば、答えが分かるかもしれない…。そして俺は左手に筆を握りキャンバスに向かった」


 そこまで語ると、師匠は入り口の方を振り返った。ここからは見えないが、そこには、あの『つぎはぎのマリア』が置いてある筈だ。

 


「あの夜の出来事は、ずっと俺を苦しめ続けていた。日中は、まだましだ。他事に忙殺されて考えるヒマもないのだから。けれど、夜ごと俺を苦しめる。その悪夢を、俺は白日の元に晒す事にした。キャンバスに向かい、日の光の中であの日の事をゆっくりと思い出す。

 それは気の狂いそうな作業だった。けれど、正確に思い出さなければ絵にはできない。俺はあの日車に乗った時から気を失うまでの状況を、映画の一コマ一コマを追うように思い出していった。

 車に乗り込む二人。ハンドルを握る俺。やたらと楽しげな彼女。音楽をかける。アクセルを踏み込む。景色が飛んでいく。

 あの時、二人はワクワクしていた。この世界から消えられる事に興奮していた。この最悪な世界。醜くて、暗くて、歪んだ世界。誰も信じられない世界。それら全てが窓の外を過ぎ去り、やがて闇の中に消えていく。

 そこまで思い出した俺の頭の中に例の画商の声が響いてきた。

 (あんたを破滅に導かせたのは絵じゃない。あんた自身だ。絵はあんた自身を表現するだけさ。世界を作るのはあんただ)


 一瞬のフェイドアウトの後、車は崖から落ちる。

 キャンバスの前の俺は、その後の出来事を丹念にキャンバスに写しとっていく。

 一面の花畑、その中に眠る彼女。

 その姿を描きながら、俺は彼女に語りかけた。


 …どうか俺を許してくれ、あんな目に合わせた俺を許してくれ。一人のうのうと生きのびてしまった俺を許してくれ。


 すると、記憶の彼方から彼女の声が聞こえて来る。

 …気にする事ないよ。これは、あたしも望んだ事だもん。これで良かったんだよ。逃げても逃げてもつきまとう苦しみを振り払うためには、死ぬより他に仕方なかったんだよ。

 …そうだよな。

 俺は彼女に答える。

 …あの頃、俺達を取りまく世界は、それほどに醜くて汚なく思えたんだ。

 なにしろ、俺の名前に引かれて近付いてくる奴らは下品な金の亡者ばかりだったし、俺のファンと称する奴らは、自分達の理想像を押し付ける偶像崇拝者ばかりだったし、その上、義父と離婚したばかりの母親が、早々と次の男を見つけて出て行ってしまった。画家になっても、相変わらず世界は狭くて、息苦しいばかりだった。


 『でも、本当にそうか?』


 俺は彼女の体に肌色をのせながら思った。


 『本当にあの頃世界は醜かったのか?』 

 

 そして彼女の唇を赤く染めながら思った。


 『本当に世界は汚かったんだろうか?』


 彼女の体に傷を入れながら思った。


 『本当に誰も信じられるものがいなかったんだろうか?』


 俺の目の前でどんどん彼女が出来上がっていく。記憶のままの美しい彼女だ。青白い顔で目を閉じて笑ってる。そして俺は、もう一度彼女に問いかけた。


 『なあ、あの時の俺には本当に誰も信じられるものがいなかったのかな?』


 すると、どこかから誰かの答える声が聞こえた。


 『仕方ないわよ、人間は弱いものだから…』


 彼女の声じゃない。しかし、その声、そして言葉には聞き覚えがあった。どこで? 


 記憶の糸を辿りながらふと見たキャンバスの彼女の顔に、カミさんの顔が重なって見えた。それで『ああ、そうか』と思う。


 そうだ、あれは結婚する前、俺が過去の事を告白した時に、カミさんが俺に言ったセリフだ。あの頃の俺は誰とも結婚する気はなかった。それは全てあの夜に犯した罪のせいだ。俺を赦してくれる人間がいるとは思えなかった。だから、あの時俺はあいつに全てを打ち明け『俺は最低な男だから…』と…暗に軽蔑しただろ? だったらさっさと早く見切りをつけてくれって気持ちを含めて言った。そしたらあいつは答えた。


 『仕方ないわよ、人間は弱いものだから…』


 そう言われた瞬間、体が軽くなるのを感じた。まるで長年背負い続けた重い荷物を降ろしたようだった。あの時、俺は救われたんだ。そして世界は一変した。

 考えてみれば、あの頃俺は人を赦す事を学んでいたんだ。それは同時に自分を赦す事でもあった。ずっと自分に向けていた刃を降ろした時、少しづつ他人の弱さを受け入れる事ができるようになって来た。

 そうだ、人間は弱いものだ。だから、狡くも醜くももなる。けれど、それだけじゃない。強くて優しくて素晴らしいものも同時に持っている。どちらを引き出すかは己自身だ。醜さには醜さが返ってくる、優しさには優しさが返ってくる。今すぐに返らなくても、いずれは返ってくる。今ここにいるのは、過去の自分が造り上げた自分なのだ。


 『そうか』


 それで俺は気付いた。


 『牙城だったころも今も、世の中自体は何もかわっちゃいない』


 ただ、あの頃の俺は他人の罪を許せず、他人の醜いところばかりに目を向けていた。この世の人間の全ての醜いところしか見出せなければ、人間で構成されたこの世界は醜く染まらざるを得ないだろう。そして、他人に潔癖さばかりを求める俺は、実は誰よりも自分に対する理解を求めていたことにも気付く。自分も他人に赦されてこの世に存在しているちっぽけな点でしかないというのに、俺は誰も赦そうとしていなかった。


 それは一つの発見だった。しかし、同時に激しい悔恨の波が押し寄せてくる。そんな事のために、俺は彼女を殺してしまった。しかし、今さら悔やんでも、何も返りはしない。俺は祈りを込めて彼女に十字架を抱かせた。


 …神よ、彼女に永遠の安息をあたえたまえ、絶えざる光もて照らしたまえ…」

 

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