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次の日の昼休み、いつものごとくスケッチをしていると背後から声がした。
「また絵を描いてるんだね」
みーさんとは声が違う。誰だ? 不思議に思って振り返ると、真っ黒なセミロングの女性が立っていた。紺のベストにタイトスカートといういでたちだ。これは3階の事務フロアの女性の制服である。彼女は黒目がちの瞳でにこにこしながらこちらを見下ろしていた。
おや? 俺は彼女を知っている。いや、確かに知っているはずだ……確かめるように左胸の名札に目を移す。白いプレートに『森崎』の二文字。やっぱり……俺は手を打ちかけたけれど、もちろん実際に打つわけもなく、彼女の次の言葉を待った。
「河井君。河井優君だよね?」
予想通りのセリフだ。
「私の事、覚えてる」
俺は頷いたが、照れくささもあり記憶があやふやなふりをした。
「森崎……だったよね」
「そう。森崎紀美香」
彼女は嬉しそうに頷くと「こんなところで河井君に会うなんて、すごい偶然!」と笑い、すとんと隣に腰をおろした。俺はといえば、元クラスメートの無邪気さに、少しばかりの戸惑いを感じた。なぜなら、森崎紀美香は確かに記憶にこそ残っていたけれど、たいした付き合いがあったわけでもないからである。高校時代の森崎はどっちかといえば控えめで大人しい女生徒だった。故に、同じく大人しくて控えめだった俺には接点の持ちようもなかったのである。にもかかわらず彼女を記憶している理由は、その整った容姿がしょっちゅう男友達の噂の種になっていた事と、他でもない自分が彼女に淡い思いを抱いた事があったからである。
しかし、今の森崎はそれらもろもろの溝を微塵も感じさせる事なく、一足飛びにこちらに近付いて来た。
「東京の大学に行ったって聞いていたけど、ここに戻っていたんだね」
「見ての通り」
「いつ戻ったの?」
「1年ぐらい前」
「こっちで永住するの?」
「多分しないと思う」
「ふうん…」
「森崎…さんはここの社員?」
「さん付けいらないよ。社員じゃなくてバイト。フリーターしてるの。ここには3日前に入ったばっかり」
「その制服は、事務? 3階にいるの?」
「そう。入力やってる」
「ずっとフリーターしてるの?」
「ここ半年ぐらいね。その前はデザイン事務所にいたけど……」
「デザイナーだったの?」
「うん。まあ。でも、事務所のやってる事と自分のやりたい事の方向性が違ってきたからやめちゃった」
「ふうん…」
森崎ってデザインなんかやるのか。意外だな。でも、そういえば、高校の時の文化祭で森崎の描いた絵を見た事あったっけ。青が基調の淡い絵だった。女らしい優しいタッチの……。
「河井君も絵なんか描くんだね。意外」
森崎が手元のスケッチブックを覗いて言った。
「それが、描くんだよなあ」
「高校の時も描いてたっけ?」
「全然」
「だよね。いつも難しい顔で参考書を睨んでたイメージがある。でも……うまいね。
これ、工場でしょ?」
「分かる?」
「すごく細かい所まで描くね」
そう言って彼女はスケッチブック上のトタンの影の一つ一つ、フェンスの一本一本まで詳細にかたどった線の集合体をまじまじと見つめた。
と、その時だ。
「ゆ〜うちゃん」
聞きなれた声がして、思いきり背中を叩かれた。誰だか分かっていたが、俺は振り返り声の主を見上げ大袈裟に顔をしかめる。
「なんですか?」
すると、みーさんはニヤニヤ笑った。
「優ちゃんがナンパしてる〜」
「違いますよ。彼女は高校時代のクラスメート」
しかし、聞こえてるのか、聞こえてないのか、分かっているのか、分かってないのか、
「優ちゃんやーらしー」
と、人さし指をこっちにむけた。まったく。絵に書いたようなベタな反応だな。まあいいか。どうせいつもの到底ナイスといえないジョークだ。俺は適当なところで引き下がると、森崎をみーさんに、みーさんを森崎に紹介した。
「彼女は森崎紀美香。高校の時のクラスメートです。今はうちの会社の3階の事務所に
います。で、この人は相沢美咲さん。俺と同じ出荷倉庫課の…ヌシです」
「ヌシってなに? 失礼ね」
そこは聞こえたようだ。みーさんが怒る。
「本当の事じゃないですか」
森崎との事を囃した仕返しにからかってっやる。そんな俺の声を無視して、みーさんは森崎ににこにこと会釈をした。森崎もノ何故かこわばった表情で会釈を返す。それを見届けるとみーさんは、
「じゃ、あたしは真希ちゃん達に呼ばれているから」
と、やけにあっさり退散した。
「元気いいなあ」
その後ろ姿を見送りつぶやく。そして、同意を求めるように森崎を見ると、彼女は相変わらず顔をこわばらせていた。どうした? まさか、みーさんの下らない冗談にマジに腹立ててるとか? まさか。
「悪い人じゃないんだけどね」
微妙に焦点をずらして、森崎の気持ちを探ろうとする。すると、森崎が返事するでもなく口を開いた。
「あの人……あの傷は何?」
それで、あっと思う。そうだ、毎日接しているうちにすっかり忘れていたが、みーさんのあの傷は始めて見る人間には物凄くショックだろう。しかし、敢えて何でもないように、つとめてさり気なく答えた。
「あ、あの人障害者なんだ。あの傷の事は聞いた事ないけどいい人だよ。
「障害者?」
「ああ。こういう工場では、必ず何人か雇わなきゃいけないって、法律で決まっているらしい。他にも2人いるよ」
「河井君の部署に?」
「うん」
「一緒に働いてるの?」
「そうだよ」
「そっか」
森崎は一旦深く頷き、そしてこんな事を言った。
「偉いよ、河井君。良い経験してるね」
「え?」
一瞬返事に困る。
「良い経験かな? 別にそんなに意識した事ないけど。あ、始めは驚いたけど」
「ううん。良い体験だよ。貴重だよ」
「そうかな?」
と首をかしげる。なぜなら、俺はみーさん達に障害があるからといって、特別優れているとも劣っているとも思わないからだ。ましてや、そういう彼女らと仕事している自分が、素晴らしい経験しているなんぞとは天地がひっくり返っても思わない。敢えて言うなら、彼女らはあくまでも仕事場の同僚である。さらにいえば、なにかと面倒を見てくれるみーさんに対しては尊敬の念を抱いてはいるが、それはあくまで相沢美咲という個人に対してであり、そこに彼女が障害者だからという理由は微塵も存在しない。
とはいえ、森崎のごく女性らしい優しい反応は世間基準としてごくまっとうなものであり、それにとやかく物申す程俺は不粋でもなかった。
その日から、俺の昼休みはみーさんに加え、森崎と過ごすものになった。正直言って、工場内で唯一自分らしくあれる場所と時間を2人もの女性に侵入されるのはいかがなものかとも思ったが、予想していた程それは不快なものでもなく、そして俺の携帯には新たに森崎の名前が加わった。
新たなつながりは、新たな時間を与えてくれた。その春から俺は休日のイベント会場で、似顔絵を描く仕事を始めることになった。森崎の大学時代の友人や仲間が多く属するとある似顔絵のプロダクションに俺も加えてもらったのだ。つまり、森崎のつてで得た仕事であった。