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言葉を失った俺達に向かい、師匠は淡々と話を続けた。
「俺は実の父親の顔を知らない。母親は今で言うバツイチの再婚だった。
…しかし、つくづく下らない男をつかんだもんだ。ロクに働きもしないで家でゴロゴロして酒ばかり飲んでいる。俺は物心つく頃から義父に毎日殴られて育った。当時は離婚する家庭自体が珍しかったから、俺の家の事情はすぐに噂の的になった。おかげで教師にも同級生にもバカにされ、いじめられ、孤独で世の中を恨んでいた。そんな中で唯一の楽しみは絵を描く事だった」
それは、初めて聞く話だった。なぜなら、師匠は昔の話をあんまりしたがらなかったからだ。
「俺は怒りや恨みを全て絵にぶつけていた。そうやって、心のバランスを取っていたんだ。聞いた話では俺の実の父親も売れない絵描きだったという。血は争えない。絵だけは教師も目をみはるほどに上手かった。それで俺はいつも思っていた。『いつか、有名な画家になって、この不幸な世界から抜け出してやる。俺ぐらいの才能があれば絶対にできるはずだ』と。
その願いは案外早く叶えられた。俺は十代にして画壇にデビューする事ができた。そして俺は一躍有名人になった。すると、俺を虐めてた連中が手の平を返して御機嫌をうかがってくるようになった。絵は描くだけ売れ、金も有り余るほど入ってくる。その頃ようやく母親も義父に見切りをつけ、やっと母子二人の家族らしい生活ができるようになった。世界は一変した! 俺は有頂天になった。これで、望み通り不幸な世界から抜けられた…! と思ったんっだ。
ところが、喜びは長く続かなかった。
どんな素晴らしい生活も、いつまでも続けばあたりまえの日常になっていく。日常に戻れば夢も醒める。そして、ある朝突然気付いてしまったんだ。『何も変わっていない…!』と。
何が変わっていないかって? それは心の空虚さだ。
なぜ空虚かって? それは信じられる人間が周りに居なかったからさ。
なにしろ、俺の名前に引かれて近付いてくる奴らは下品な金の亡者ばかりだったし、俺のファンと称する奴らは、自分達の理想像を押し付ける偶像崇拝者ばかりだった。
画家になっても、相変わらず世界は狭くて、息苦しいばかりだ。俺は次第に苛立って来る。こんなはずがない。なんで何も変わらないんだ?
そんな時、義父と離婚したばかりの母親が、早々と次の男を見つけて出て行ってしまった。
その頃は毎晩ほとんど眠れたことがない。群集が俺を殺しにくる夢ばかり見るからだ。それは、仕事関係の奴だったり、ファンだったりしたが、最後は必ず学生時代オレを虐めてた連中と、義父の姿に変わった。
おいつめられて、どこにも逃げ場はない…! そんな思いで目がさめる。そんな夜がずっと続いた。そして、寝不足と疲労で俺は次第にノイローゼになっていった。
その頃の俺の唯一の安らぎは、中学から付き合っていた女といる時だけだった。彼女も複雑な家庭の娘で、同じように孤独だった。彼女は音楽をやっていて、創作を通じてお互いに引かれあっていた。
ある日俺は彼女に言った。『もう疲れた、2人で死のう』。半分冗談のつもりだったが、彼女が嬉しそうに『いいよ』と答えたから、それで全てが決まってしまった。その日の夜中には二人で車で山に向かっていた。
あの時の奇妙な高揚感は今だに忘れられない。俺達はワクワクしていた。音楽を鳴らしながら猛スピードで走って行く。世界がどんどん闇の中を過ぎ去って行く。うねる道を山頂へと向かい、急カーブでアクセルを踏む。
そして、俺達は、崖から車ごと落ちた。
どれぐらいの高さだったのかな? 気がつくと、俺は花の中にいた。すぐ側に彼女が仰向きに横たわっていて、足元で車が炎上しているのが分かった。その炎のおかげで、夜だというのに辺りがはっきり見える。そこは、一面の花畑だった。それで、てっきり、もう死んだのかなと思ったが、まだ生きている証拠に体のあちこちが痛い。俺は彼女に聞いた『生きているか?』そしたら『生きてるよ』と返事があった。それから『でも、もうダメだと思う』とも聞こえた。俺は、まだ元気が残っていたから、上半身だけ起して、彼女の側に這い寄って行った。見ると、ガラスの破片で彼女は体中が傷だらけになっていた。俺は彼女の手をとった。『大丈夫か?』って聞いたら、彼女は『痛い』と涙をこぼした。俺は『しっかりしろ』と彼女を励ました。すると彼女は『バカだね、死にに来たんでしょう?』と笑った。『ごめんな。こんな目にあわせてごめんな』と謝ると、彼女は首を振った。『何言ってるの? 私嬉しかったんだよ。あんたが有名になっちゃって、私、世界に一人ぼっちで取り残されたみたいな気分になってたのに、最後は一緒に行こうって言ってくれた。だから、すごく嬉しかったんだよ』そう言って笑いながら泣く。
なんて事をしてしまったんだろう? と、その時初めて思った。俺も彼女も不幸だった。でも、2人で生きれば幸せになれたかもしれないのに…。
しかし、後悔先にたたずだ。足元で車が爆発し、勢いよく炎が燃え上がった。俺は、突然『死にたくない』と思った。『彼女と一緒に幸せになりたい』と。そう思った途端、世界中が光った。大袈裟でもなんでもなく、本当に光ったんだ。そして、花も、彼女も、木々までもがやけに鮮やかに美しく見えた。それは、不思議な光景だった。けど、長くは続かなかった。すぐに意識を失ってしまったからだ。
気がつくと、病室にいた。
彼女の死についてはしばらく隠されたが、動けるようになるにつれ、耳に入ってきた。
初めは、言い様のない虚脱感に襲われた。
次に、深い悲しみに包まれた。
最後に、恐ろしくなった。
彼女を失った俺の目の前に、果てしなく人生が広がっている。
これから、どう生きようか?
2度と死ぬ勇気はもてない。
絵も、描きたくない。
絵は、長い事俺にとっての逃げ場所だったが、少しも自分や周りの人間を幸せにしないのなら、描かない方がいい。
それから俺は、絵を捨てた。松坂牙城の名も捨て、普通に就職した。人生をやり直すつもりだった。
しかし、誰にでもできるはずの会社勤めは、俺にとっては拷問以外の何ものでもなかった。時間に縛られる事も苦痛だったし、少しも尊敬できない奴に頭を下げるのも腹立たしかった。人とぶつかる事を避け、上手くやる事ばかりやる同僚達を見ては、何がおもしろくて生きているのかと内心軽蔑の眼差しを送っていたもんだ。
人を軽蔑していた俺は、人に軽蔑し返された。そのせいか、噛み違えた歯車みたいに、何もかもが上手く行かなかった。そこでも俺は孤独だった。疲労もあり、精神的にも肉体的にも追いつめられていった。単調で重苦しい日々が果てしなく続いた。こんな日が続くぐらいなら死んだ方がマシだと思った事もある。
それでも、死ななかったのは、贖罪のためさ。罪を犯した俺は、存分に苦しまなきゃいけない。しかし、生きるためには自分を殺さなければいけなかった。俺は若い頃に培った主張もこだわりもポリシーも抑え、ひたすら相手を受け入れる事に徹し、一日一日積み重ねるようにして生きていった。
ところが、そうしているうちに、思いもかけない景色が見えて来た。
くだらないと思っていた事にも理由があるし、理不尽だと思って居た相手にも理不尽なりの理由があると気付きはじめたんだ。
たいした発見じゃないが、たったそれだけの事に気付くために膨大な時間を費やしてしまった。
そんな頃、今のかみさんに出会った。
きっかけは、絵さ。あいつの趣味は絵画鑑賞だったんだ。といっても、見るだけで描かない。
幸せな家庭に育った平凡な奴だが、明るくてこだわりがなくて一緒にいると妙に居心地がいい。それで、気付いたら結婚する事になっていた。
一緒になる時、俺はあいつに、過去に起きた事の全てを打ち明けた。重い過去にも関わらず、あいつは理解してくれたようだ。
長女が産まれた時「絵を描いてくれない?」とあいつが言った。娘の絵を描いて欲しいというんだ。俺は了解した。もちろん本気で描くつもりはなかった。ほんのお遊び程度に描くつもりだった。
ところが、絵筆を取り白い紙に向かうとほとばしるように暗いイメージが湧いてくる。忘れたつもりでも、俺の右手は何もかも覚えているんだ。あの、『陰鬱な世界』を。
悩んだ末、俺は左手で描く事にした。左手では、右手で描く程早くも上手くも描けない。それで俺は初心に返り、モチーフを無心で観察して、できるだけ正確に線や光を写し取ろうとした。しかしどれだけ丁寧に描いても、右手でやるような正確な線は描けない。にもかかわらず、仕上がった絵を見て驚いた。それは、今までの俺にはとても描く事ができないような美しい世界だったからだ。
いつしか俺は描く事の面白さを思い出していた。子供の頃そうしていたように、仕事の合間にスケッチブックを持ち写生に出かける。あの頃と違うのは、今度は自分のためでなくて家族のために描くことだ。だから、モチーフもなるべく家族が喜びそうなものを選んだ。例えば、道ばたの花や、田舎の風景、夏の海に、川辺に咲くすすき…。探せばどこにでも描けるものはある。
そんな風に何枚も描いて行くうち、ふとこんな疑問を持った。
『どうして昔の俺は、あんなに汚い世界に生きていたんだろう? 春に咲く花も、夏の木陰も、秋の夜の月も、澄み切った冬の空も…この世界には、こんなに美しいものがあふれているというのに…』
その答えはすぐにみつかった。
『簡単な話さ。不幸な人間には、美しいものを美しいと感じる余裕がないからだ』
…じゃあ、どうして俺は不幸だったんだ?
『孤独だったからだ』
…彼女が居たのに?
『そういえば、そうだな』
それで分からなくなる。
『どうしてあの頃と今じゃこんなに生きている世界が違うんだろう?』