26
「ただの風邪ですよ。2、3日も寝てれば治りますよ」
白髪の医師がもそもそと言う。
「そうですか」
俺は安堵して、布団の中で寝息をたてている弟の顔を見下ろした。
「でも、少し栄養失調気味ですから、熱が下がったらたっぷりと栄養をつけさせてあげてください」
そう言うと、猫背気味の医師は、薬を置いて静かに部屋から去っていった。師匠の奥さんがそれを追って出ていく。
「よかったな。おおごとでなくて」
と、師匠が言った。
「はい。…いや十分大騒ぎでしたけどね」
俺は答えた。
本当に大騒ぎだったのだ。やっと見つけた弟に目の前で倒れられて、救急車を呼ぶか、タクシーを手配するか途方にくれていた時に、タイミングよく師匠から電話が入った。「これこれこういうわけで、今大変なんです」と訴える俺を落ち着かせ、師匠は車を飛ばして来てくれた。幸い、あの駅から師匠の家は近かったので、そのまま弟をここまで運び、夜明けを待たずに医者を呼んだ。
「本当にすみません。また、お世話かけるはめになっちゃって」
と、恐縮すると、
「気にすんな。それより弟見つかって良かったな」
と、師匠は言ってくれる。
とりあえず、奴が完治するまでは俺も東京にとどまる事にする。奴をここに置いていったら、また何をしでかすか分からないからだ。
けど、何もせずに世話になるのも悪いので、家の事を手伝う事にした。一応一人暮らししてた身でもあるし、家事全般なんでもこなせるわけだし。そして、次の日、朝食の後始末をして弟の部屋に戻ると、奴は目をぱっちりと開けてガラス越しの庭の風景を見ていた。
「目、さめたかよ」
と近寄ってくと、
「ここは、どこ?」
と、鼻声で尋ねる。
「ここは、菊地大成…つまり俺の師匠の家の母屋の一室だ。お前はただの風邪だから、安心して寝てろ」
と、説明しててやると、
「…そう」
と、だけ答えて、弟は眠ってしまった。しかし、その日の昼過ぎには、起き上がって粥を食えるまでになる。そして薬を飲むと、またひたすら眠る。そんな調子で2日も眠っていたら熱も下がり、咳もおさまってきた。この調子なら明後日ぐらいには家に戻れるだろうなんて思いつつ、昼飯を終えて離れのアトリエに向かう。師匠と話そうと思って行ったのに、アトリエの中はがらんと静まりかえっていた。師匠は出かけているようだ。
それで、勝手に上がり込み、師匠の帰りを待つ事にする。初めはソファに座って待っていたのだが、そのうち退屈になってきて、ヒマつぶしに師匠の絵でも見ようと思いつく。そして、アトリエのあちこちに雑然と立て掛けられているキャンバスを一つ一つ手に取って、つくづくと眺めた。見なれた絵もあったし、初めて見る絵もかなりあった。そのいずれもが光り輝くように美しい世界を、四角いキャンバスの向こうに果てしなく広げている。
そうしてキャンバスを物色しているうちに、例の増築したという倉庫の扉の前にたどり着いていた。扉の横には、際立って大きなキャンバスが3点立て掛けられていた。それらを見た時、胸の中にある予感がよぎる。それで、俺は不可思議にも高鳴る鼓動をおさえ切れぬまま、それらに手を伸ばした。
最初のキャンバスには何も描かれていなかった。
次のキャンバスには、この家と、家族の姿が描きかけになっていた。
そして、最後のキャンバスには…
「ああ…!」
思わず声を上げる。
「これだったか」
そこには…そう、あの『つぎはぎのマリア』が…あの十字架を抱いて眠る女が居たのだ。それは、上京後初めての邂逅であり、約3年ぶりの再会であった。
ほとばしる命の息吹と、その背徳的な美しさが、初めて出会った時そのままの衝撃を俺に与える。それで、俺はこの絵に向かう時常にそうであったように、今もまた忘我の境に入り眺め続けた。
どれぐらい、そうしていただろう?
背後に気配を感じ、俺は我に返った。
師匠かなと思ったが、ゴホゴホ咳をするから弟と分かる。
「何だ? もう起きれるのか?」
と、たずねるが返事がない。
仕方ないから放っておくと、しばらくして弟が言った。
「なんでここに来いって言ったの?」
「うん?」
「何で、ここに来いって言ったの?」
「ああ…」
俺はうなずいた。奴が言ってるのは、つまりは俺が言ったという『うわごと』の事だろう。うわごとだから理由なんて知らない。けど、まさかそんなこと言えない。だから、とりあえず、思いつきで答えておいた。
「ここにある絵をお前に見て欲しかったんだろう…」
そして、心の中でこう付け加えた『多分、おそらく、きっと』。
「絵を?」
弟は首をかしげた。
「なんで?」
「なんでって…」
知るかよ。今、適当に言っただけだもん。けど、何か答えなければ治まりそうがない。それで、俺はありとあらゆる知恵を総動員してこう答えた。
「…だって、綺麗だろう? 心が洗われるようじゃないか?」
「ふーん…」
『ふーん』て…『ふーん』で終わりかよ。なんとなくムカツク。だからというわけでもないが、なんとなく説教口調になってしまう。
「…お前、今までどこで、何をしてたんだよ? さんざんみんなに心配かけて。迷惑かけるのも大概にしろよ」
すると、奴は臆面もなく言った。
「仕事を探してたんだ」
「仕事!?」
「うん。まだ、見つかってないけど…」
驚いたなんてものじゃない。
仕事だって? ここで? 何を考えてるんだ? マジで訳わかんねえよこいつ。
「まさか…東京に住みたいとか?」
「別に…」
別に住む気ないのに、何でここで探す? 内心のうるささに反比例して、俺達の周りを気まずい沈黙が包む。次の言葉が見つからないまま固まっていると、弟が口を開いた。
「でも、俺はこういう絵は嫌いだな」
「何?」
「俺はこういう絵は嫌いだって」
なんだよ、今度は絵の話しかよ。脈絡がないんだよ、お前は。
「嫌いって…どうしてさ?」
「だって、なんか綺麗すぎる。綺麗なばっかりで…なんていったらいいんだろう? 真実味がないよ」
まともに長いセンテンスを喋ったと思ったらこれだ。まったく頭にくる。
俺としちゃ言いたい事が山のようにある。それを要約すればこんな感じだ。
『アホか、お前は。これがただの綺麗なだけの絵に見えるのか? それは、お前の目が節穴だからだろう? ちゃんと学んだ人間には分かるんだよ。これは、ただの綺麗なだけの絵とは違う。どう違うと言えばだなあ、あ〜、う〜…』
最後の方がまとまらずにいると、天上から声がした。
「綺麗なだけとは言ってくれたな」
神の声か? と見上げたら、残念ながら神ではなくて師匠だった。師匠は例の倉庫の扉を半開きにしてにゅっと顔を出している。
「うわ! どっから出て来るんですか?」
って、わりにベタに驚くと、
「休憩してたんだ」
と師匠は言う。
「倉庫で?」
ってきくと、
「この部屋は倉庫件休憩室なんだ」
って、奥を指さす。
そこは、6畳の和室になっていてドミノ状に置かれたキャンバスと、こたつとテレビが置いてあるのが見えた。なるほど、なんかくつろげそうな感じだ。
「それにしても、綺麗なばっかとは言ってくれたな」
と、師匠は弟をじっと見た。で、弟はといえば、師匠の視線に耐え切れずにぷいっとそっぽを向く。
「まずい…」と、俺は思った。弟の無遠慮な言葉が師匠を怒らせたらしい…しかし、普段はこんなことで怒る人じゃないんだが…いや、とにかく、仲裁しなきゃと俺は二人の間に割って入った。
「すいません。何しろこいつは8年も社会と断絶していたんで、口のきき方を忘れたんだと思います。どうか許してやってください」
しかし、師匠はそんな俺の言葉の1文字もきいちゃいない。
「俺は、こいつと話をしているんだ」
って、俺を押し退ける。
「ゴホゴホ」と、弟が咳込んだ。動揺しているようだ。しかし、師匠はおかまいなしだ。
「俺の絵に真実味がないってどういう事だよ?」
「それは、つまり…ゴホゴホ」
弟が再び咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
俺は、思わず弟に手を差し伸べた。
「それは、つまり…なんだよ?」
師匠は割としつこい。
「それは、つまり…ゴホゴホ…ゴホゴホ…ゴホゴホ…」
「つまり…なんだよ?」
「つまり、この世がこんなに綺麗なわけがないからだ」
「この世がこんなに綺麗なわけがない?」
師匠は首をかしげた。
「何を根拠にそう思うんだ?」
「根拠?」
弟はそう言うと、また咳き込んだ。それでも、考え考え、はっきりとこう答えた。
「根拠は…、根拠は……そうだ、この僕が…僕の存在が…」
「お前が?」
師匠はますます首をかしげた。
「なんで?」
その答えは、俺もぜひききたいと思った。