25
午後7時過ぎの双葉町駅のホームに降り立つ。
改札を抜けると、昔と変わらない風景が目に飛び込んで来る。
そこは夢の吹きだまりだ。
明日のスターを夢見るストリートミュージシャンが、あちこちで声を張り上げている。自分の絵を並べて売っている奴もいるし、インチキくさいアクセサリーの販売をしてる外人の姿も見える。
かつては俺もその仲間に加わり、その一角で自分での絵を並べていた。大学を辞めた後、20才になるかならないかの頃だ。
あの頃、俺は師匠の絵を再現させる事に熱中していた。師匠の数有る傑作の中でも、究極の傑作『つぎはぎのマリア』の絵だ。
その絵の中では、一人の女が胸に十字架を抱いて横たわっていた。
栗色の長い髪が色とりどりの花の上を川のように四方に流れ出していた。
美しい女だが、その体には、まるで陶器に入ったひび割れのような、細かな線が無数に入れられていた。
そして、その女を包む無数の花々はなぜか光り輝いていた。
今でも、頭の中では忠実に再現できる。けれど、紙の上に再現させる事はできない。
しかし、その絵に出会って、俺の人生は変わった。他人が聞けば転落したの間違いだろうと言うかもしれない。けれど、俺はあの絵と出会った時に初めて己の中に宿る魂を自覚する事ができた。言い換えれば、あの時から、俺は『生きる』という事を学びはじめたのかもしれない。
そして、初めてあの絵を見たのが、この双葉町駅前の地下にある小さな画廊だった。それは、CHAOSという名の、普通なら見過ごしてしまうような小さな画廊だ。森崎はそこで弟らしき人物を見たという。もし、それが本当に弟だとするのなら、よく辿り着けたもんだ。いや、よく知っていたもんだ。ここが俺の運命を変えた第一の場所だって事を。
今、俺はその画廊の前に立ち、入り口の上に飾られた『CHAOS』って文字を眺めている。CHAOS(渾沌)とは言ったもんだな。まさに、今の俺の状況そのものじゃないか?
画廊は、昔にくらべると綺麗になっていた。改装したらしい。まだ電気がついてるから中に入れるみたいだ。入ろうかな?
ためしに入ってみると、中ではどこかの芸大生達の作品が展示されていた。めぼしい作品もなく、弟の姿を見つけるわけでもなく、失望とともに外に出る。
ギャラリー脇の階段を昇ると、先きほどの広場の前に出る。ギターをかき鳴らす二人組を横目に、一輪車に乗る若い奴らにぶつからぬよう広場を横切っていく。そして、車道を横切り、向側のカフェに入り、ホットドックとコーヒーで簡単な夕食をとる。昔はよくここに彩香と一緒に来たもんだ。
俺は2階のカウンター席に座った。ここからは広場の様子がよく見える。こんな風にぼーっと過去を懐かしむのも悪くない。
しばらくそんな風に景色を見てると、メールが入った。森崎からだ。それで、今現在、現実に引き戻される。
『今、どこにいる? もう、新幹線?』
画面に表示された文字を見て、俺は先きほど、電車の中で受け取ったメールに返事を送るのを忘れていた事に気が付く。それで、こんな風に返信した。
『いや。まだ東京にいるよ。さっきの森崎のメールをヒントに双葉町に来たんだ。それで、例の画廊…カオス…に行ってみたよ。でも、残念ながらいなかった。けど、もしかしてこの辺りのネットカフェにいるかもれないから、夕食とった後、この辺りをじっくり探すつもり…』
送信を済ませ、携帯を閉じ、コーヒーカップに手をやる。そして、再び窓の外を見て、過ぎ去った時間へと思いを巡らす。
と、その時、ガラス越しに妙なものが見えた。
男だ。
白いダウンジャケットを着た男が、広場のまん中をふらふらと歩いている。
ずいぶんおぼつかない足取りだ。一輪車の男にぶつかりそうになってる。
けれど、何で、俺はそんなものに心をとめたんだろう?
不可思議に思いつつコーヒーを一すすり、そして、思う。
そうだ。あの雰囲気。あの歩き方。どこかで見たような気がするんだ。だから、心をとめたんだ。
そこまで思ったところでピンとくるものがある。けれど、俺はすぐにその直感を否定した。
…あれは、違う。…あれは『あいつ』じゃない。…あいつは、もっと、ミノ虫っぽいはずだもん。
しかし、どうにも気になって仕方がない。俺はコーヒーを一気に胃の中に流し込むと、広場に行くために店を出た。
車道を横断しようとするが、あいにく信号は赤だ。しばらく待たなくちゃいけない。幸いな事に、道路をはさんでいても広場の様子はよく見える。例の男は、立ち止まり、電柱にもたれて空を見てる。服の白さがやたらと目だつ。
遠目にその横顔を見て、俺は思った。
…絶対に違う。あれは、どこにでもいる普通の奴だ。俺の知っている弟は、あんなに清潔じゃない。長髪だったし、無精髭も生えていたはじだし…師匠の前に現われたあいつもそんな姿をしていたというし。
しかし、そこで俺は思い直す。
…けど待てよ? 森崎が見たのは、俺そっくりの男の姿だったっていうな…だとすれば、ミノ虫でもないし、ロン毛でも鬚ヅラでもない。どこにでもいる、普通の奴のはずっじゃないか? …と、いうことは…
そこまで考えた時、タイミング良く信号が青になった。俺は走って広場に向かった。だんだんと男の顔がはっきり見えて来る。
…間違いない。
認めざるを得なかった。
「正!」
その名を叫ぶと、聞こえたのか聞こえなかったのか、奴は電柱にもたれたまま脱力し、しりもちをついた。そして、駆け寄った俺の目の前でがくりと気を失った。