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「すまなかったな」
日あたりの良いアトリエのまん中で、師匠が頭を下げた。
「まさかあいつがお前の弟とは思わなかったんだ。なにしろ、髪はぼうぼうだし、鬚はのびてるし…」
「謝らないで下さいよ。しょうがないですよ。それにしても…あいつ、名乗らなかったんですか?」
「ああ。だから、どっかからの家出人とは思ったが、お前の弟とは想像もしなかった…」
ここは、東京。
俺の師匠、菊池大成のアトリエだ。
説明するまでもないが、弟を探して上京してきているのである。(1週間の休みをもらうのは、正直いって辛かった)
弟は、確かにここに来たらしい。
ある晩、師匠が買い物から帰って来ると、門の前で自転車と一緒に寝ているホームレスがいた。それが、弟、正だ。驚いた師匠が声をかけると、奴は腹が減ったので何か食わせてくれという。その際、奴は、河井正とは名乗らず、『田中太郎』とかいうふざけた偽名を使ったそうだ。
気のいい師匠は、弟を家に上げ、飯を食わせてやった。それだけでなく、数日泊めてやったそうだ。この人には昔からそういうところがある。よく、道ばたで寝ている人とか拾ってくる事があった。(俺も拾われたクチかもな)
それが、なんで俺の弟かって分かったといえば、例のママチャリさ。
ブレーキが壊れちゃって、もう使えないからと、奴が置き捨てていったそれは、今だに師匠の庭に置かれている。ボロくなっているが、確かにあれはおふくろ愛用のママチャリだ。あの、真っ赤さ加減といい、あのどピンクのハンドルカバーといい見間違えるはずがない。
「で、弟はここにいる間何をしてたんです?」
「何も」
「何も?」
「ああ。ただ、黙ってぼーっと俺の絵を眺めていた。そして、3日後ぐらいに出ていった」
「行き先は?」
「何も聞いてない。しかし、自転車を置いていったっていう事は、都内にいるんじゃないか?」
「そうですか…」
結局、たいした手がかりはつかめなかった。軽くへこむ。
「まあ、何日でも泊まっていけよ。俺もなるべく協力するし…」
という、師匠の好意に甘える事にする。
奥さんには、某駅で買った超レアなあんころ餅を渡す。とても、喜んでくれた。
次の日からさっそく俺は都内を駆けずり回った。
弟の行きそうな所…秋葉原、池袋のネットカフェ。それから…渋谷、新宿駅構内のホームレスの中まで捜しまわった。
しかし、世の中そんなに甘くない。言うまでもないが、東京は広い。ネットカフェに限定したって、何件あるのか見当もつかない。奴の姿は見当たらない。
こんなんで、本当に見つかるんだろうか? すぐに絶望的な気分になってくる。
3日目の夜、何の収穫もないまま師匠宅に戻る。
母屋から少し離れたアトリエのソファに座り、師匠が描く絵をぼーっと眺める。
昔も、よくここに座ってこうしていたもんだ(あの頃は、横に彩香がいたけど)。
その時、俺は「あれ?」と思った。
部屋の奥の方の乱雑に置かれたキャンバスの横に、見なれぬ扉を見つけたからだ。
「あんな扉、ありましたっけ?」
と、尋ねると、
「今ごろ気付いたのか?」
と、師匠はあきれ顔する。
「去年、建て増しをしたんだ。『倉庫』替わりの和室だよ」
「へえ…」
興味はあるが、見に行こうという気力がない。なにしろ、連日歩き回って、心も体もへとへとなのだ。それで、見るともなしに、薄茶色の扉を見ているうちに何だか寂しい気持ちになってくる。何が寂しいって、俺の知らないものがそこにある事が寂しかった。それで、つい、こんな事を言ってしまう。
「なんか…俺のいない間に、色々変わってますね。駅も、改装しちゃったし…」
「ああ。●●駅な。地下行きのエスカレーターついて、便利になっただろう?」
「むしろ、ややこしくなりましたよ」
と、俺はこぼす。
何だか、悔しい。その思い出を共有できない事がだ。だんだん俺がここにいた形跡がかき消されていく。そして、いつかここには俺の記憶など跡形も残さぬよそよそしい場所になってしまうんだろうか? 俺はもう、ここには戻れないんだろうか?
いや、そんな筈はない。だって、あの頃と変わらず師匠のアトリエは居心地がいいし、立ちこめる匂いも懐かしいし、何より俺の無くしてた魂の片割れが戻って来るような気がする。
ああ。そうだ。これだ。この感じだよ。
これが、生きるという感じだ。
そうだ。俺はやっぱり、ここに戻らなくちゃいけない。きっと、戻らなくちゃいけない。
そんな風に思いながら、眠りに落ちていった…。
目的は何であれ、上京は俺に生きる気力を取り戻させてくれた。
しかし、肝心の弟は見つからぬまま、あっという間に日は過ぎてしまう。そして、ついに最後の日が来てしまった。
色んな意味でがっかりだった。
弟が見つからなかった事もがっかりだが、せっかく上京したにも関わらず、弟探しなんぞしていたせいで、行きたい場所、会いたい人の元にさっぱり行けなかった事がなおさらがっかりだ。
俺の落胆ぶりに師匠が深い同情を示す。
「残念だったけど、大丈夫だよ。あいつだって、いい年こいた男だ。その気になりゃあ、なんとしてでも生きていけるさ」
「…生存の確認はしてるので大丈夫です」
あいつが生きている事は、森崎からのメールで知っていた。あいつは、相変らず毎日のように森崎のサイトに出入りしているらしい。
「あいつが行きそうなネットカフェには、ビラを配っておいたし…」
例のミノ虫男のイメージイラストを森崎に描いてもらって、ビラを作ったのだ。
「警察には?」
「警察には言ってません、…あいつの『必ず帰る』っていう言葉を信じて、届けるのはもう少し待とうと思います」
「そうか。俺も気をつけておくよ。何か分かったら連絡する」
それから、俺は師匠の家を後にして、新幹線に乗るギリギリの時間まで弟の姿を探素事にした。しかし、午後6時。とうとう断念。暗たんたる気持ちで山手線に乗り込む。
椅子に座り、目を閉じてこの度の上京について思いめぐらす。この顛末を、両親にどう説明するか考える。そしておふくろの失望するのを想像し、げんなりする。何で、俺がこんなに気をもまなくちゃいけないんだと腹が立って来る。その時、ズボンの中で携帯がふるえた。メールが来たようだ。誰からだ? ああ、森崎か。それにしちゃ、中途半端な時間だな。あいつは夜しかメールして来ないのに。…とかなんとか思いながら画面を見る。そして、そこに書かれた文字を見て、思わず椅子から立ち上がった。
『お疲れ。今日、帰って来るんだよね。弟さん見つかった? 見つかってないかな? もし見つかってなければ、参考にして欲しいんだけど…。実は、私も今思い出したんだけど……前に、上京した時に、カオスって画廊で河井君にそっくりな人の幻を見たっていったでしょう? あれ、もしかして、幻じゃなくて、河井君の弟だったんじゃないのかな?』
あんな奴と似ているなんて、断じて認めたくない。
しかし、他人から見ると、俺達は双児のようにそっくりらしい…と、昔はよく言われたものだ。
俺は、携帯をカバンに放り込むと、次の駅で山手線を降り、懐かしい町へ向かった…。