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「東京にいるらしいよ、弟さん」
と、森崎が言った。
昼間のカフェの明るい風景によく馴染む、実にあっさりとした口ぶりで。
「東京?」
その意外な言葉に、手にとったサンドウィッチを落としそうになる。
「マジで?」
たずねる俺に「うん」とうなずき、
「嘘は言ってないと思う」
と森崎は断言した。
「言ってないと思うって…直接、話したの?」
「そうよ」
「そうよ…って…どうやって?」
「インターネット上で話したのよ」
「ああ」
納得する。
「チャットかなんかで?」
「掲示板よ」
「でも、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「簡単よ。弟さんのサイトの掲示板に小説の感想を書いて、そのついでに私のサイトへのリンクを貼っておいたの。そうしたら弟さん、私のサイトに来てくれたのよ」
「そういえば…」
思い当たる事がある。
「少し前からあいつのサイトに『リリカ』って女の人がよく書き込みしてたけど…」
その人物は、奴の引きこもり小説に対して、やけに丁寧な感想を書いていた。珍しい女も居たもんだと思っていたが、それがまさか…
「それが、私よ」
と森崎がうなずく。
「なるほどね」
俺は感心した。
インターネットの事をよく知らないだけに、感動も大きい。
「けど、森崎、サイトなんてやってるんだ」
「まあね。今まで書きためた絵をのせてるだけなんだけど…」
「ふうん…」
俺は森崎の描く繊細なタッチの少女達の絵を思い出した。
「それで…リンクを貼ったら、弟さんも私のサイトに来てくれて、私の絵にも感想くれたの。それをきっかけに色々話したのよ」
「あいつと話すなんか事あるの?」
森崎と弟に、共通の話題があるとは思えない。
「いくらでもあるわよ。だって、私も中学の頃ひどいイジメにあったから」
「え?」
初耳だった。
「森崎が?」
「そうよ。登校拒否にはならなかったけど」
「信じられない。でも、なんで?」
「中学生の頃、太っていてね…あ、でもそれが原因じゃ無いのよ。やせようと思ってダイエットのために毎日マラソンしてたら、足が早くなっちゃってね…その年のマラソン大会で、何と優勝しちゃったの」
「凄いじゃん。でも、それとイジメとなんの関係があるの?」
「うん。それが、ストレートに優勝したわけじゃ無くて、元々一位で走っていた子がゴール前で転んじゃってね。それで、ちょうどその後ろにいた私が優勝できたってわけ。タナボタ式の優勝だったの。そんなことがあったものだから、元々一位だった子が納得できなかったらしくてね」
「もしかして、それでイジメになったとか?」
「そ。色んな事されたわよ。『森崎紀美香がわざと転ばせた』なんていう噂たてられて、どんなに『違う』って言っても聞いてもらえなくて、おかげで悪者にされちゃった。クラスの大半の女子から無視されたり、上ぐつ捨てられたり、教科書隠されたり…」
「ムカツク奴だな」
「今、考えるとかわいそうな子だと思う。だって、負けたぐらいで普通そこまでする? そこまで『勝ち』にこだわるって、自分が苦しいだけだと思う。それに、理由がなんであれ、人を傷つけなきゃ済まないなんて、よほど『他の何か』で自分が傷付いている証拠よ。……当時はそこまで考えられなかったけど」
「そういうもんかな? でもよく、登校拒否にならなかったな? 辛かっただろう?」
「辛かったわ。毎日泣いてた。先生に相談したって、『いじめられる方にも原因あるんじゃないの?』で終わっちゃうし。でも、とことん追いつめられたら、私最後にキレちゃって…」
「キレた?」
「うん。それで、そっくり同じ事を相手にしてやった」
「へ?」
「幸い、私は孤立まではしてなくて、味方になってくれる子もいたから。その子達と組んで、上履き隠したり、通りがかる度に皮肉言ってやったり、とにかく私がされた事をそっくり仕返してやった」
「…そう…なんだ」
軽く引いた。
「なんか…信じられない。森崎って、優等生でおとなしいイメージしかなかったから…」
「そう見える? でも、やられたらやり返すわよ。そうしなきゃ、多分、私が壊されてたわ」
「…で、その彼女はどうしたの?」
「ああ。彼女なら、最終的には私のごきげんうかがって来たわ。謝ったんじゃなくて、ごきげんをうかがって来たの。なんか、阿呆らしくなっちゃった。『偉そうになんだかんだ語ったって、弱いものには強気で出るのに、相手が強いと分かったら手の平返すんだ』って思った。下らない。でも、人間てそんなものかなって、その時は思った。それきりでお終い。彼女との関わりはそこまでよ」
「その話、弟にもしたの?」
「したわよ。そしたら、『リリカさんは強いですね』って感心されちゃった。だから『こういうのは、強さとはいわないと思う』と答えたおいた。そしたら弟さん、言ったわ。『いいや、あなたは強い。それに比べて僕は弱い。弱いからいじめられる。いじめられるのは弱い僕が悪いんだ』って。だから私こう言っておいた『何が本当の強さかなんて、誰にも分からないと思う。何が本当に正しいかも、誰にも断言できないと思う。もし、人を傷つけれられる事が強くて正しい事なら、私は弱くても、間違っていてもいいと思う』って。それから、まあ色々な事を話し合ったんだけど、最後には『ありがとう』って…なぜかお礼を言われちゃった。お礼なんていらないのに」
そう言って、森崎は少し笑った。
「いや。俺には、弟の気持ちが分かる気がするよ」
「そう?」
「ああ。分かるさ」
だって、いじめられるような奴をここまで相手にしてくれる女が、今、この日本にどれだけいる? あいつには森崎が女神のように見えたんじゃないだろうか…。少なくとも今の俺にはそう見える。
「俺からも礼を言わせてくれ。ありがとう」
頭を下げると、
「やめてってば」
と、森崎は笑いながら首を振った。
「私もつい熱くなって語っちゃっただけ。インターネットって、人をそんな風にさせるところがあるの。でも、そんな話をしたのは一度きりよ。その後は絵の話ばっかりで…」
「絵の?」
「うん。弟さん、絵に興味があるらしいわよ」
「へえ? あいつが絵なんかに? 意外だな」
「兄貴の影響って言ってたわよ」
「俺の? まさか! あいつとそんな話したこともない」
「でも、彼はあなたの影響って思ってるみたいよ。それに…ああ、一番大事な事伝えるの忘れてたけど」
「何?」
「弟さんが東京に出た最初の理由は、あなたの師匠にあたる人に会いに行くためだったって…」
「え?」
がく然とする。
「嘘だろ?」
「嘘じゃないわよ。あなたにそうしろって言われたから東京に来たんだって」
その言葉で俺は弟の置き手紙のフレーズを思い出した。
『お兄ちゃんへ
お兄ちゃんの言うとおりにやってみようと思います』
って、あれだ。つまり、そういう事か、だが、しかし…。
「でも、言ったおぼえがない」
「それは…もしかして…河井君が意識不明の時に言ったからじゃないかな?」
「意識不明?」
「うん。弟さんの話によると、あなたが病院に運ばれて生死の境をさまよってる時に言われたって」
「ああ!」
…なるほど!
やっと納得がいく。つまり、うわごとだったってわけだ。それなら覚えてなくても不思議じゃない。
しかし、それならそれで、分からない事がある。なぜ俺はあいつに師匠の元へ行けなどと進めたのだろう?
そんな事を思った時、森崎が席を立った。
「そろそろ行かないと…」
「もう、時間?」
「うん。もう、40分過ぎちゃった。もう行かないと、お客さんとの約束の時間に間に合わない」
「仕事、大変そうだね」
「うん、まあね。でも、やっぱり私にはこっちのがあってるわ」
彼女は、今、デザイナーの仕事に戻っている。
「そっか。よかったな。充実してるみたいで」
「まあね。それより、今度はこんな昼休み中じゃなくて、日曜にでもゆっくり会おうね」
そう言うと、彼女はA3の封筒を抱えて店から出て行った。
後に残された俺は、残りわずかな休憩時間と競争するようにサンドウィッチを平らげ、早々に工場へと戻って行った。