11
しかし、人生とはしばしば希望よりも絶望の色合いが濃いものなのか。
俺は森崎に紹介してもらったデザイン会社に1ヵ月ほど勤めたもの、あっさりと辞めてしまった。辞めたといえば聞こえがいいが、実は首になったのである。
理由は色々ある。
自分の名誉のために格好良く理由をつけるなら、事務所の求めるものと、自分の目ざすものが違ったとうことだ。
主に広告用のチラシ製作をしているこの会社において芸術性などというものは無視される。大切なのはクライアントに気に入ってもらえるものを、いかに短時間で、要領よく、そつなく仕上げるかである。それだけの事である。それだけであるのにもかかわらず『それだけの事』が俺にはこなせなかった。なぜなら、ひたすら自分のこだわりを追究してしまうからである。
こだわりを追究すれば時間がかかる。いいものを創るには絶対的に時間がかかると俺は信じている。しかし、クライアントは「いいもの」など求めない。自分の満足できる範囲内ですばやく見栄えのいいものを仕上げて来る事だけが重要なのだ。
そして、さらに、これが致命的ふぁったのだが(致命的であることは目に見えていたのだが)俺はソフトの扱いに慣れていなかった。
「せっかくの紀美香の紹介だけど…」
森崎の先輩にあたる俺の上司は申し訳なさげに言った。
「うちが欲しいのは即戦力だから…」
「俺は絵の仕事がもらえると思ってたんですけど…」
「残念だけど、うちにはそんなにイラストの仕事はないし…。紀美香にちゃんと説明しておかなかった私も悪かったの。ごめんね」
11月下旬。
そろそろ木枯らしの吹きかける街頭で、この世界から一人置き去りにされたような気になる。
どこをさがしても、袋小路から抜け出る術はない。いっそ正のように自分の小世界に閉じこもってしまおうか。そうすれば、親父とおふくろは2人の大きな赤ん坊を抱え途方に暮れる事になるだろう。しかし、それもすべて自分達の責任である。ざまあみろだ。いや、それとも…。
と、俺は欄干越しに流れる川を見下ろした。川面は鈍色に白々しく日の光を反射させながら流れつづけている。
…いっそ、ここで身を投げれば楽になるんだろうか?
不吉な考えにとりつかれた時プルプルと携帯がなった。森崎からだった。
「ごめんね」
開口一番森崎が言った。
「なんで謝るの?」
川面を眺めたままぶっきらぼうに答える。
「私の考えが甘くて、河井君にも先輩にもいやな思いさせて…」
「別に、森崎のせいじゃないだろ? いい年こいて何もできないのは、今まで怠けてた自分のせいだ。因果応報ってやつだ」
「でも…」
「もういいって」
多少きつい口調で言うと、森崎は黙ってしまった。
川沿いに町並みは続いて行く。既に夕暮れが迫り、気の早いクリスマス仕様のイルミネーションが光が川面に映っている。その美しさがやけに空々しく感じる。
「ねえ」
森崎が俺の真横に立った。
「少し歩いて話そう」
それで俺達もきらきら光るイルミネーションの中を歩くはめになった。居心地の悪さばっかり感じる。
「あのね」
と、森崎が光の中で言った。
「もし良かったら、私ソフトの使い方教えてあげるよ。そうすれば、きっと…」
「もういいよ」
俺は怒った。同じ年の、多少の恋心を抱いた事もある相手に、ここまで気をもませなければならないふがいない自分が、たまらなく情けなくなったからだ。
「俺にはやっぱり向いてないんだよ。会社勤めなんて…」
「…じゃあ、どうするの? これから」
「どうにかするさ」
「どうにかって、どう? どの世界もそうだと思うけど…いい加減にやってうまくいく程世の中そんなに甘くないよ」
分かりきってるよそんな事は…と、食い下がる森崎が少々煩わしくなる。
「いいんだよ。別に俺は東京に戻る気だし。ここで定職をみつける気もないし」
「いつ? いつ戻るのよ」
「森崎には関係ないだろ?」
「そうやって、目の前のことから逃げてるだけじゃないの?」
「もういいから、俺の事は放っておいてくれよ」
どこからかクリスマスソングが流れて来る。11月に何がクリスマスだ、嘘くさいと思う。
森崎は泣きそうな顔をした。しかし、泣き崩れる事はしなかった。
かわりにこう言った。
「分かった。もう、よけいなおせっかいしない」
「それが賢明だな」
「キズつけてごめんね。さよなら」
「ああ、さようなら」
「…」
「…」
「…だとおもったんだけどな」
「は?」
「あの工場の前で偶然河井君見かけた時…」
「何?」
「もういいわ。私がバカだったのよ。子供みたいに…」
「何言ってるんだ」
「さようなら」
「おい!」
呼びかける俺に目もくれず森崎は足早に去って行く。それを追いかける気力もなく俺は脱力する。とはいえ、いつまでもそうしていられないから金と銀の光りの中を俺はよろよろ歩き出した。袋小路に迷う哀れな仔羊の頭上に、聖なる歌は降り注ぐ。
その日から俺は一週間ほど部屋に閉じこもった。
閉じこもって何をしてたかったいうと、ひたすら絵を描いていた。
モチーフは思いつく限りの人の顔だった。
うろこ人間や、木造人間、メタル人間、プレス機に圧し潰された人。溶鉱炉でどろどろにされ再生される人、人、人…。
一度、母親がふいにドアを開け、足の踏み場もなく散乱した画用紙を見て悲鳴をあげた。
「あんたは気がふれたの?」
「大丈夫だよ」
俺は笑顔で答えた。
「俺の絵を完成させようとしてるんだ。いつか完成するさ」
しかし、描けども描けども思う通りの絵は描けない。そして一週間後。ついに俺は散らばった画用紙の上に昏倒した。薄れる意識の中に一枚の絵が浮かんで来る。
…つぎはぎのマリア。
あれは、俺の人生を狂わせた絵だ。
師匠の描いた…あの絵。
…どうしたら、あんなふうに……。