獣との邂逅
短いお話です。
「次、ここに来たら殺すって言った筈だけど」
深い深い森の奥、真円を描く湖のほとりには太古の獣が棲んでいる。
獣の落とす涙には不思議な力が宿っており、あらゆる病を癒す薬になるという。
獣はあどけない少年の姿をしていた。
何百年と生きたとは思えない、黒髪の利発そうな少年。
今は呆れた顔を隠しもせず、湖に突き出した岩の上に座ったまま、こちらに視線を向けてくる。
一週間前の事だった。
不治の病を得た妹の苦しみように藁にも縋る思いで、この森に分け入ったのは。
それは千もある御伽噺の一つを信じるようなものだったけれど、チエナにはもうそれ以外、頼れる手段が無かったのだ。
こんな辺境の村では医者も遠く離れた隣町から呼ばなくてはならない。
やっとで招いた医者は、手の尽くしようが無いとすぐに匙を投げた。
生き永らえたとして後数日。絶望的な宣告を受けた後、チエナは昼夜、危険を押して森を彷徨い、そして獣と出会った。
獣はチエナから病の症状を詳しく聞くと、涙ではなく、瓶に入った粉薬をくれた。
その薬を与えると、みるみるうちに妹は全快したのだった。
「お礼を申し上げたかったんです」
獣の発言を気に留めた様子もなく、チエナはにっこり微笑み、手に持った大きなバスケットを高く上げてみせた。
「何がお好きかわからなかったので、ええと、わたしの得意料理なんですけれど、
柔らかく煮込んだお肉を詰めたパイと、干したベリーと木の実を混ぜたクッキー、あと、リンゴの実もたくさんあります!
お口に合うといいんですけど」
もう来るなと言われていたけれど、感謝の気持ちも述べずに済ませる事は到底できないと思った。
自分の命と引き替えにしても助けたかった妹の命の恩人なのだ。
たとえ殺されてもいい。それほどもう一度会いたい気持ちが止まらず、チエナは再び森に分け入った。
―――それに、別れ際に殺すと告げた獣が、なんだかとても淋しそうにみえたのだ。
獣は考えるように黙り、次に面を上げた時には無表情になっていた。
軽やかな動作で岩を降り、チエナの前まで近づいた。
「礼など要らない。俺の望みは静かに湖のほとりで暮らす事だけだ。帰って」
にべも無く拒絶され、チエナはバスケットをぎゅっと握り締めた。
「あ、あの、パイはお嫌いでしたか…?」
「…」
「甘いものも苦手だったり…?」
「…」
「え、えと、じゃあ、果物は? リンゴの実はさっぱりして、そんなに甘くないですし…」
「…」
「あっ、もしかして、食べ物を食べたら死んじゃうとか、そうじゃないですよね!?」
無反応で見返され、チエナは泣きそうな気分になって俯いた。
「…ごめんなさい。わたしの我が侭だってわかっているんですけど…どうしてもお礼がしたくて。
本当に、何かわたしに出来る事は無いですか…?」
しばらく苦行のような沈黙が続いた後、小さく溜息が落とされた。
「全く、変なヒトだなぁ。そのままここの事を忘れてくれればそれで良いって言ったのに」
何でわざわざ戻ってくるかな、と、冷たい空気を払拭して、獣は苦笑いしてみせた。
チエナは突然、変わった相手の様子に目を瞬かせる。
「食べられるよ」
「…えっ」
「食べ物を摂取する必要はないけどね。俺の糧は森の精気で事足りているから」
手を差し出されて、信じられないようなふわふわとした気持ちのまま、チエナはバスケットを手渡した。
瞬間、緊張の解けた身体から膝の力が抜けて、転びそうになる所を、獣が咄嗟に片腕で受け留める。
大丈夫?と声をかけられ、不意の急接近に色々と免疫の無いチエナは真っ赤になって、慌てて謝りながら離れた。
「ほら、お礼は受け取ったよ。だから、もう帰って」
「…た、食べてる所を見ててもいいですか!? …って、あのっ、けしてヘンな意味じゃなく!
ただ、純粋にお口に合うか気になるだけなんですが!」
「そ、それに、ゴハンを一人で食べるって淋しいじゃないですか!」
何でこんなに必死になってしまうのか。
気が付けば、チエナはこぶしを握って力いっぱい主張していた。
「…本当、変なヒト」
ようやく獣はくすりと笑うと、彼女と二人、並んでバスケットを開く事になったのだった。
***
「お口に合いますか?」
「うん、悪くないよ」
静かな森の奥でバスケットの中身をつつきつつ、少女は獣の話を聞いた。
獣の名前は、リガナと言う事。
五百年も昔からここに住んでいる事。
昔は獣の他にも仲間が居たが、時が経つ内に住処を移動し、たった一頭になった事。
普段、この森の奥には結界が張られており、滅多な事では近づけない事。
「君があんまり必死に呼ぶから、仕方なく、招いてあげたんだよ」
「そ、それは重ね重ねありがとうございます…」
また来ても良いかと言ったチエナに、やはり、リガナは駄目だと言った。
「どうしてですか」
「前にヒトに酷い目に遭わされてね。もう二度とヒトとは関わらないと決めたんだ。
それに」
ちらりと少女を見下ろして、リガナは瞳を伏せた。
「もうすぐ月が満ちる」
「何か関係があるんですか?」
「簡単に言えばね、繁殖期になるんだ」
予想外の単語に、チエナは唖然と口を開いた。
「今度来たら、襲っちゃうかもね」
悪戯っぽく言われて、チエナは真っ赤になる。
「いっ、何時になったら、その、繁殖期は、終わるんですか…? 終わった後なら来てもいいですよね?」
「無理、繁殖期は基本的に十年続くから」
「…」
チエナは愕然とした。
「まぁ、百年の内十年って割合だからさ。俺たちの寿命からしてみればそんなに長くも無いんだよ」
さらりと述べられた事実は想像もつかない次元の話だ。
「じゃ、じゃあ、十年後にまた来ます…」
気持ちが自分でも理由がわからないほど沈む。それでも、チエナはリガナともうこれきりで別れたく無かった。
リガナはきょとんとした顔で、隣に座った少女を振り返った。
「そんなに俺と会いたいの?」
「…はい」
もう離れたくないと思う。
この気持ちにつける名前はおぼろげにわかった。
獣―――リガナトーアを一目見た瞬間にきっと自分は。
……………あれ?
「…リガナ、トーア?」
ふと浮かんだ名前にチエナは首を傾げた。
ついさっき教えてもらった名前は、リガナ。リガナトーアとは一言も言われていない筈なのに、その名前は獣の名前だとわかった。
隣でリガナも目もまるくして、チエナを見つめてくる。
そして、迷い子が光を見つけた時のように、泣きそうな顔になった。
「本当に…現れるなんて」
「…リガナ」
「三百年待ってて良かった…」
そう言って、力強く、抱きしめられる。
何が何だかまだよくわからないチエナは目を白黒させた。
「り、リガナ!? ど、どどど、どうしたの!?」
「…君が、俺の探していた妻だったんだ」
仰天するチエナに構わず、リガナは離さないとばかりに抱きしめ続ける。
ふっと湖の色と同じ、蒼い光がその身を包んだかと思うと、少年の姿は綺麗に消えて、黒い体躯の獣の姿が現れる。
チエナの胸ほどまである大きな猫のような、しなやかな四足の獣、その額には真直ぐに天に突き立つ角が真珠色に輝く。
初めてみる筈のそれは、ただ、懐かしく。
チエナは言葉も出ずにその美しい獣を見つめた。
―――それは、遠い時間の中で交わされた約束が叶う時。
それからの二人のお話はまた別の機会に。