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娘を勘当しろと迫られた夜、父は娘の靴を磨き始めた

作者: MIYA
掲載日:2026/10/17

「娘を勘当なさい。今夜、この場で」


 救護院長のベルナール夫人は、火事のあった建物を背にして言った。私の娘イネスは、煙で黒くなった外套(がいとう)を着たまま、夫人の隣に立たされている。


 慈善祭(じぜんさい)の祝宴(しゅくえん)が中断されて、まだ一時間しかたっていなかった。食堂の卓には冷えた鴨料理(かもりょうり)が残り、窓からは濡(ぬ)れた麻布の焦げる臭(にお)いが流れ込んでいる。


「洗濯係を閉じ込め、火を放ったのはイネス嬢(じょう)です。見た者もおります。以前から配給の帳簿に難癖(なんくせ)をつけ、職員たちを困らせていたではありませんか」


「私がつけたのは難癖(なんくせ)じゃありません。人数よりパンが少なかったんです。今日も、その話をネリと――」


「ほら、ご覧なさい。火事の夜にまで、他人を責め立てる」


 周りを囲む寄付者たちが娘を見た。男爵夫人(だんしゃくふじん)の一人が、袖(そで)で口を隠して何か囁(ささや)く。イネスは、その人が週に一度救護院へ運ばせている古着を選別してきた娘だ。礼状を書くときは、必ず一枚ずつ状態を確かめていた。


 それなのに、誰も娘に何があったのか尋ねない。


「お父様。ネリはあの中で動けなくなっていました。乾燥炉の扉(とびら)が――」


「イネス、待ちなさい」


 自分の声が食堂に響き、私は一瞬だけ満足した。少なくとも場を収めることはできる。救護院の理事を十五年務めてきた私にとって、大勢の前で人を静めるのは慣れた仕事だった。


 ベルナール夫人が、待っていたように紙を差し出した。


「評議会が結論を出すまで、お嬢様(じょうさま)の立ち入りを禁じる書面です。伯爵(はくしゃく)の承認があれば、寄付者の皆様も安心なさるでしょう」


 私はその紙を読んだ。立入禁止は暫定措置とある。断罪ではない。疑いのある身内を現場から遠ざけ、調査を公正にするためなら、理事として間違った判断ではないはずだ。


 胸元の筆を抜いた。


「お父様、それは……」


「君の話は屋敷で聞く。今ここで争えば、救護院の評判まで傷つく」


 署名を終えるまで、娘は何も言わなかった。


 紙を返すと、夫人は寄付者たちへ深々と頭を下げた。私も並んで頭を下げる。二人で同じ方向を向いたそのとき、イネスが一歩後ろへ下がった。


「お父様。私が何をしたかは、まだお聞きになっていませんね」


「だから、あとで――」


「聞かないまま、あの人の話だけで私の居場所を取り上げたんですね」


 娘の右手から赤いものが一滴落ちた。爪(つめ)の際が切れていた。私はそれを見て、初めて娘が負傷していると気づいた。


「その手を医者に――」


「ネリのほうへ行ってください。あの子の喉(のど)のほうがひどいから」


 イネスは食堂の出口へ向かった。ベルナール夫人が「これでひと安心ですわ」と声をかけてきたが、私は返事をしなかった。


 なぜ私があんな紙にすぐ署名したのか、分かっていた。娘を疑ったからだけではない。勘当を迫られる父親を、皆の前で演じたくなかったのだ。暫定の書面に名を書けば、とりあえず私への視線は弱まる。


 火事の少し前、私は洗濯棟の裏を通っていた。乾燥炉の鉄扉(てつとびら)が斜(なな)めに浮き、取っ手に巻かれた針金が火に照らされていた。職員に「あとで直すように」と言って通り過ぎた記憶がある。


 立ち止まっていれば、何が見えただろう。


*


 真夜中、屋敷の玄関に革靴が一足残されていた。


 執事によると、イネスは夜のうちに着替えだけ持ち出したそうだ。手紙には「当面、救護院近くの宿に泊まります」と一行。黙って出ていったわけではない。父親に許可を求めるつもりがなかったのだ。


 泥で汚れた靴を見つけた瞬間、私は靴磨き箱を取りに行った。


 イネスの母が亡くなった年、娘は六歳だった。雨の日は濡(ぬ)れた靴を揃(そろ)えて置き、翌朝履(は)けるかと必ず確かめに来た。私が布で水気を取り、革に油を塗ると、ようやく安心した顔で寝室へ戻ったものだ。


 大きくなってからも、私は時々娘の靴を磨いていた。娘はもう何年も「自分でできる」と言っていたが、私はその言葉を都合よく聞き流した。磨き上げた靴を玄関に戻すと、良い父親でいられる気がしたからだ。


 左の靴を膝(ひざ)に置き、布を当てる。黒い泥は簡単に落ちた。だが、靴底の溝(みぞ)に入り込んだ白い泥だけは、布を押しつけても残った。


 白い泥。


 王都の敷石道にはない。石灰を含んだ、指でこすると粉を吹く土。古い建物の排水路をさらうと出てくるものだ。


 踵(かかと)を傾けると、革の縁にも不自然な傷があった。平行な二本の裂け目があり、間に赤褐色(せっかっしょく)の錆(さび)が挟まっている。娘が歩いて釘(くぎ)を踏んだだけでは、こういう傷にはならない。


 靴磨き箱の底から細いブラシを取り出しかけ、手を止めた。


 救護院の旧図面が浮かんだ。洗濯棟の下には、今は使われていない排水路が通っている。床下の湿気を逃がすために残した保守通路の出口には、二枚重なった鉄の掛け金があった。見学に来た理事たちが汚れを嫌って入らなかった場所だ。


 あそこを通ったのか。なぜ。


 娘は言いかけていた。「乾燥炉の扉(とびら)が」と。そして「ネリはあの中で動けなくなっていた」と。


 私が遮(さえぎ)った、その先に何があった。


 ブラシをしまった。磨いてしまえば革の傷に残る錆(さび)も、白い泥も失われる。濡(ぬ)れた布を別の封筒に入れ、靴を紙で包んで保管した。右の靴には手をつけなかった。


 執事が廊下(ろうか)の奥から、気遣わしげに訊(き)いた。


「お嬢様(じょうさま)を、お呼び戻しになりますか」


「まだ呼べない」


 私は片方だけ汚れを落とした靴を見た。娘は、屋敷を出るために履(は)き替えた靴まで用意していた。帰ってきたところへ私が何を言っても、昨夜の署名は消えない。


「朝になったら火除け組合へ使いを。事故現場を調べる職人を頼みたい。私の知り合いでなく、組合が当番を決めた者を」


 執事が礼をした。私は娘の靴を、自分の机へ運んだ。


*


 翌朝、ベルナール夫人は私が洗濯棟へ入ろうとするのを見て、露骨に顔をしかめた。


「伯爵(はくしゃく)、立入禁止に署名されたばかりではありませんか」


「娘の立ち入りにだ。設備の調査を止めるとは書いていない」


「そんなに熱心になさらなくとも、こちらで始末はつけます」


「何の始末だ?」


 夫人は答えず、横を向いた。


 火除け組合から来た検査職人は、中年の痩(や)せた男だった。私に愛想笑いもせず、黒い革袋から縄、定規、木札を取り出した。煤(すす)で白くなった入口に札を立て、私たち以外が通らないようにしてから炉の前にしゃがむ。


「乾燥炉の扉(とびら)を見てください。蝶番(ちょうつがい)の下側が折れています。新しい割れ目です」


 焼けた床に、扉(とびら)を支えていた鉄の部品が落ちていた。折れた箇所(かしょ)は黒い錆(さび)でなく、灰色の金属が露出している。炉の前には燃え残った麻布が塊(かたまり)になっていた。


「内側に積んだ火が扉(とびら)の隙間(すきま)からこぼれれば、ここに移ります。危険は前からあったはずです。ただし、事故か人の手によるものか、この金具だけで決めてはいけません」


 職人は一歩離れ、倒れた棚(たな)を指した。重い棚(たな)が出口の戸を押さえ、扉(とびら)は外側から押しても開かない状態になっている。


「人が中にいれば、ここからは出られませんな」


 私は黙って頷(うなず)いた。


 次に、職人と旧排水路へ回った。入口は大人が腰を折らなければ通れない高さで、壁際の泥は乾いて白く固まっている。奥には足跡が一列あり、掛け金の錆(さび)の上だけ真新しく擦れた筋があった。


 靴底の傷と鉄具の幅が近いことを確認し、職人が紙へ寸法を書き込んだ。だが、靴をその場で押し当てることはしなかった。私が磨きかけた靴を持ち込んだと知れば、その痕跡(こんせき)自体が疑われても仕方ない。


「通った者はいたらしい。しかし娘だと断定はできませんな」


「分かっている。そこで何をしたかも、まだ」


 職人は振り返り、古い鉄の掛け金を見上げた。


「内側から押せる仕組みです。外からだと手を突っ込んで引くしかない。指か革を傷つけた人間がいるなら、話は合います」


 私は昨日見た娘の傷を思い出した。


 夫人が離れた場所から声を張った。


「伯爵(はくしゃく)! そんな裏道を娘さんが知っていたなら、むしろ何かを企んでいた証拠ではありませんか」


 職人が私の顔を見た。私の肩書きを知ってから、初めて返答を待つような目だった。


「夫人。裏道を知っていることと、火をつけたことは別だ」


 私は初めて、昨夜の寄付者の前で言うべきだった言葉を口にした。


 職人に火元と通路の検査記録を封じてもらったあと、私は救護院の裏手へ回った。煙を吸った職員が休んでいる仮宿舎はそこにある。


 ネリ・トール。昨夜、娘が何度も呼んでいた名だ。


*


仮宿舎の部屋には、寝台が五つ並んでいた。うち二つは脚の長さが合わず、短いほうへ木片を噛(か)ませてある。火事で寝所を失った職員が、使える寝具を持ち寄ったのだという。


 ネリ・トールは一番奥で、穴の開いた前掛けを縫(ぬ)っていた。肘(ひじ)に包帯があり、針を持つたび顔をしかめる。私が名乗ると立ち上がろうとしたので、椅子(いす)を引いて止めた。


「お見舞いだ。話せないなら帰る」


「伯爵(はくしゃく)様、院長に言われて来たんですか」


「違う。私が聞きたいんだ」


 ネリは縫(ぬ)い針を布へ刺した。細い糸が震えている。


「火事の前、イネスはどこにいたか。分かる範囲だけ教えてくれないか」


「配給倉庫です。私は洗濯場にいたから、全部は分かりません。でも、あの人が乾燥炉へ来る前に火が出ました」


「何を見た」


「取っ手に巻いた針金が、ぱちんって外れたんです。鉄の扉(とびら)が手前に倒れて、火のついた木片が麻布へ跳(は)ねました。棚(たな)を引いて離そうとしたら、脚が滑って戸に倒れちゃって」


 そこでネリの息が乱れた。私は机の水差しを取り、手が届く場所へ移した。


「続きは、急がなくていい」


「イネス様が裏から入ってきたとき、私、もう戸を叩(たた)く力がなくて。腕を引かれたんです。途中であの人の靴が引っかかって、手を離したから、一人で逃げたんだと思いました」


 彼女は包帯の上を押さえた。


「でも戻ってきた。革が裂けたのに、もう一度引っぱって、私を外に出してくれました」


「夫人には話したのか」


「はい。だけど『煙で何も分からなかったことにしなさい』って。次の日から働けなくなってもいいのかって」


 傍(かたわ)らの前掛けには、補修を待つ裂け目がもう一つあった。休養するよう言えば、そのまま給金を減らされる。別の仕事を世話すると約束すれば、同じ部屋で寝ている仲間を置いて出なければならない。


 私は懐から財布を出しかけ、手を戻した。


「君がここで働きたい理由は、ほかにあるか」


「弟が、学校に行ってます。冬に納める金がまだ。あと、ここを出たら、寝る場所がありません」


「評議会では、職員の賃金も救済費も扱える。だが私は、発言する代わりに給金を払うと約束したくない」


 ネリが眉(まゆ)を寄せる。貴族の話は回りくどいだろう。私自身、うまく説明できる自信がなかった。


「君に証言を頼めば、夫人の報復が怖いはずだ。今日は断っていい。君の話は公開せず、火元の検査を先に進める」


「……じゃあ、なんで聞きに来たんですか」


「娘の言葉を遮(さえぎ)ったからだ。同じことを君にしたくなかった」


 ネリは目を逸(そ)らし、前掛けを折りたたんだ。


「私の話、イネス様に伝えていいです。でも、評議会で話すかはまだ決められません」


「分かった。院長には伝えない」


 帰り際、ネリが一枚の小さな札を見せた。洗濯棟の当番札だ。縁が焦げている。


「これがないと、働いた日を数えてもらえないんです。火事のあと、院長はみんなの札を回収してしまった。私のだけ、袖(そで)に入ってました」


 裏には三日前までの印が刻まれていた。私は帳面にその形を写した。ネリは、私が札を取り上げないと分かってから、やっと手を緩めた。


*


 救護院の記録室は、乾燥炉の修繕記録(しゅうぜんきろく)を探すには都合の悪い造りだった。支出帳と設備帳は別々の棚(たな)にあり、承認書は年度ごとに厚い束へ綴(と)じられている。理事が一枚の署名だけで仕事を済ませられるようにできていた。


 私は十五年間、その仕組みを便利に使ってきた。


 火除け組合から三週間前に届いた修繕通知(しゅうぜんつうち)には、赤い線が三本引かれていた。


『乾燥炉下部の蝶番(ちょうつがい)に破損。炉扉(ろとびら)が外れる危険あり。祭期前に交換すること。乾燥布を炉の前へ置く作業は中止』


 ベルナール夫人の受領印がついている。


 その四日後の支出帳には、交換部品の代金が消され、夜会用の天幕と招待客の椅子(いす)の借り賃へ移されていた。承認欄(しょうにんらん)にあるのも夫人の筆跡だった。


 最後に、年末設備点検の紙束を取り出した。


『全棟、安全上の支障なし』


 その下に私の署名がある。


 私はその日のことを覚えていた。領地の橋が壊れ、修理費の相談が四件重なった午後だ。夫人が分厚い紙束を持って来て、「職人が点検を終えました」と言った。私は中を見ることもせず、最後の紙に署名した。


 イネスもその場にいた。


「お父様、洗濯棟の炉の扉(とびら)が外れそうです。ネリたち、針金で留めて使っています」


 あのとき私は、娘にこう言った。


「院長が見ている。君は配給の仕事をきちんとしなさい」


 娘はそれでも一度、職人を呼べないかと尋ねた。私は仕事の邪魔(じゃま)だと思い、書斎から下がらせた。


 署名の横に置いた指が、かすかに汚れた。古いインクが手袋へ移ったのだ。昨日、娘の靴から取った白い粉よりも、この黒い染みのほうが落としにくい気がした。


 記録係に原本の封印と写しを頼む。彼女は、私の署名を見つけて顔を上げた。


「伯爵(はくしゃく)様。こちらも提出なさいますか」


「ああ。修繕(しゅうぜん)を止めたのは夫人だが、安全だと認めたのは私だ」


「理事長代理から、記録は院長を通して出すようにと……」


「評議会の規程を持ってきてほしい。理事一名と独立した組合検査員が求めた設備資料は、保存原本から写しを取れるとあるはずだ。開示の記録に私の名を書いて構わない」


 規程を確認した記録係は頷(うなず)き、二通の控えに封をした。私はそのうち一通を組合に預け、保管を頼んだ。私の書斎へ運び込んでから見つからなくなるようでは、娘の立場をさらに悪くする。


 廊下(ろうか)の窓から、救護院の門が見えた。門柱には私の家の紋章(もんしょう)が刻まれている。毎年、寄付者が記念に撮る場所だ。門の中で働く者が何に困っていたか、私はついぞ聞いていなかった。


*


「あなたまで辞めたら、救護院の寄付は半分になるでしょう」


 ベルナール夫人は、客用の暖炉の前で私を迎えた。


「現実を見てください。王都の貴婦人たちは、善行に名を連ねることが好きなのです。伯爵家(はくしゃくけ)が不祥事を認めた施設へ、誰がお金を出しますか」


 私は机に二つの写しを置いた。組合の修繕通知(しゅうぜんつうち)と、支出帳の該当頁(がいとうぺーじ)だ。


「炉扉(ろとびら)の交換を止めたのは、なぜだ」


「費用の兼ね合いです。慈善祭(じぜんさい)が成功すれば、いくらでも修理できますわ」


「その前に事故が起きると、三週間前に知らされていた」


「だから針金で仮留めを。炉の前に布を置くのは、職員たちの不注意でしょう」


「使うなと命じれば、冬の洗濯物は乾かない。ほかの炉もない。職員を責めるなら、代わりの設備を用意すべきだった」


 夫人は私の署名のある紙を見つけ、扇子(せんす)の骨で叩(たた)いた。


「伯爵(はくしゃく)もお認めになったのです。ご自身の責任を追及されてもよろしいんですの?」


「明日、そのつもりだ」


 夫人が扇子(せんす)を閉じた。


「娘を一人、勘当すれば済む話です」


「娘が火をつけた証拠はない」


「走って逃げた姿を見た客がいる。娘さんが現場にいたのは事実でしょう。家から追放してくだされば、今度の件も『ご令嬢(れいじょう)の不始末』として収まります。あなたの名前は守れます」


「告発した職員の名を教えてほしい」


「職員を守るため、公表しておりません」


「目撃した客の名は」


「そんな細部にこだわるから、話が進みませんのよ」


 昔なら私は、ここで黙っただろう。寄付金を集め、見栄えよく式典を終わらせる彼女の手腕には助けられてきた。だが、娘を火の中から帰した者まで、帳面の都合で黙らせることがある。


「立入禁止の書面は、私が署名した。あれは私の誤りだ。明日、撤回を求める」


「お嬢様(じょうさま)を信じたいだけの父親の感傷でしょう」


「そうかもしれない。だから私の言葉だけを信じてくれとは言わない。組合の検査と、あなたの帳面を評議員に見てもらう」


 夫人は立ち上がり、私の書類へ手を伸ばした。


「それを出せば、あなたも無事では済まない」


「分かっている」


「娘さんだって、あなたが理事でなければ助けられませんよ」


「私は娘の居場所を奪う署名はできても、あの火事から娘を助けることはできなかった。娘が助けた人の話を、今度は聞くつもりだ」


 夫人は初めて私の名を呼ばず、「出て行きなさい」と命じた。


*


 宿の裏庭で、イネスは濡(ぬ)れた寝具を紐(ひも)に掛けていた。片手にはまだ包帯があり、引っぱるたびに眉(まゆ)が動く。


「今度は何の書類ですか、伯爵(はくしゃく)閣下」


 私は彼女が洗濯物を掛け終えるまで待った。


「最初に、一つだけ。君にあの書面の取り消しを頼む資格は、今の私にはない。でも、明日、評議会へ撤回を提案する」


「提出してくださったとき、私はそこにいました」


「覚えている」


「では、言い訳は結構です」


 娘は桶(おけ)の水を捨てた。冷たい地面で水が一本の筋になって流れる。


「炉の危険を知らせてくれたのに、私は確かめずに点検済みと署名した。職員が話せない状況も作った。君を人前で黙らせたのは、家の名を守りたかったからだ」


 イネスはようやく私の顔を見た。


「私がいちばん腹を立てたのは、院長に疑われたことじゃありません」


「……ああ」


「お父様は、私の話を聞く前に、私を信じていない人たちの仲間になりました」


 言葉を返せなかった。


「ネリは私が助けたことを話したがっていました。でも、解雇が怖いんです。私はあの子に来てほしいとは言いません。証言しなければならないのは、私とお父様のためじゃないから」


「分かっている。組合の資料と、私の署名を出す。ネリの名を勝手に使わない」


 イネスは一度、口を開きかけてやめた。


「私も明日行きます。私はあの中で何をしたのか、もう一度、自分の言葉で話します」


「そうしてくれ」


「でも、そのために家へは帰りません。私の部屋の荷物にも、勝手に触れないでください」


 私は頷(うなず)いた。彼女が水桶(みずおけ)を片づけるのを見ていたが、手伝おうと踏み出すのはやめた。


「……イネス。手の傷は、まだ痛むか」


「痛みます。だから、乾いた布だけ、そこの棚(たな)から取ってください」


 私は棚(たな)から布を一枚取り、娘の手に渡した。彼女がそれをどこへ使うかは尋ねなかった。


*


臨時評議会は、三日前に娘が告発された食堂で開かれた。


 寄付者たちも傍聴席(ぼうちょうせき)にいた。公開を望んだベルナール夫人の名札が、長机の中央にある。


「先にロウエン伯爵令嬢(はくしゃくれいじょう)の問題を解決いたしましょう」


 夫人は用意した議案を掲げる。


「職員を閉じ込め、放火の疑いをかけられた娘さんについて、保護者の伯爵(はくしゃく)から正式な勘当をお願いしたいのです。そうでなければ寄付者の皆様に示しがつきません」


 傍聴席(ぼうちょうせき)の奥にイネスがいる。灰色の上着を着て、手には包帯を巻いていた。


「その議案より先に、火災の原因と告発の根拠を確認したい」


 私が立つと、夫人は目に見えて不機嫌になった。


「伯爵(はくしゃく)、あなたは親御さんです。中立ではいらっしゃいませんでしょう」


「その通りだ。私の監督上の責任も議題になる。採決には加わらない。資料だけ提出させてほしい」


 年長の評議員が頷(うなず)き、記録係へ合図した。私は理事席を離れ、検査職人が待つ証言台の横へ移った。


 焼け落ちた乾燥炉の蝶番(ちょうつがい)が盆(ぼん)に載せられた。


「これが火元の一つとして考えられる部品です」


 職人が現場図を広げた。


「蝶番(ちょうつがい)が壊れ、炉扉(ろとびら)が倒れたとき、燃えた木片が積んだ布へ飛びます。床に残った焦げ跡の広がり方は、その説明と合います。ただし、炉の故障だけで放火がなかったと断定するものではありません」


「そうでしょう!」


 夫人が声を挟んだ。


「イネス嬢(じょう)は裏の通路を知っていたのです。火の前にも出入りできた。疑うに足る事情があるではありませんか」


「出入りできたことと、実際に火をつけたことは別です」


 職人は同じ調子で答え、炉の下から採った煤(すす)の見本を戻した。


 私は机に靴を載せた。磨きかけの左足だけが、乾いた革の色を取り戻している。


「娘の靴から、旧排水路と同じ種類の石灰泥が出た。革に残る二本の傷も通路の鉄具と幅が近い。ただし私は発見した夜に靴の表面を拭(ふ)いている。この品は、誰が通ったかを決める強い証拠にはならない」


「そんなものを持ち出すのですか。お嬢様(じょうさま)の靴を、父親が磨いたというだけの話でしょう」


「そうだ。だが私がそこへ足を運ぶきっかけにはなった」


 靴を下げ、別の束を開いた。


「こちらは火除け組合の三週間前の修繕通知(しゅうぜんつうち)だ。炉扉(ろとびら)の蝶番(ちょうつがい)が危険であり、祭期前に交換するよう求めている。受領したのは院長。その四日後、交換費用を夜会の設備費へ移した記録がある」


 夫人の顔から笑みが消えた。


「帳簿を勝手に持ち出したのですか」


「理事の閲覧手続(えつらんてつづき)きと、組合検査員の立会いを記録した。原本は記録室に封印されている。ここにあるのは写しだ」


「運営費をどこへ使うかは院長の裁量です。皆様をお迎えするため、必要な支出でした!」


「その判断の是非は評議会が決める。まず危険を知っていたかどうかだ」


 私は一枚目を裏返した。


「そして私は、炉の状態を一度も確認せず、安全に支障なしと署名した」


 署名のある書面を、いちばん手前に置く。


 傍聴席(ぼうちょうせき)がざわついた。誰かが「伯爵(はくしゃく)ご自身も」と言った。夫人は、そこに活路を見つけたように身を乗り出した。


「ご覧ください! 私だけが悪いのではありません。伯爵(はくしゃく)も承認なさったのです。娘さんを守るために、ご自分の責任を持ち出しておられる!」


「私にも責任がある」


 夫人の声が一度、止まった。


「修理の要請を娘からも聞いた。それを退けた。職員の安全より、院長への信頼と自分の仕事の都合を優先した。私の署名で工事が進まず、危険な設備が使われ続けた。私はそれを記録に残してほしい」


 記録係が筆を走らせる。夫人の横に座っていた評議員が、初めて議長の顔を見ずに次の頁(ぺーじ)へ手を伸ばした。


「それでも、娘さんに疑いは残ります」


 夫人が言い張る。


「疑いを残したいのは分かった。では、火をつけるところを見た人は誰だ」


「裏庭を走るお嬢様(じょうさま)を見た人はおります」


「火が出る前か、あとか」


「そこまで正確に覚えている者が、どれだけいると?」


「分からないなら、確かめる必要がある。三日前、あなたは『閉じ込めて火をつけた』と断言した。見ていないことを、見たことにしてはならない」


 夫人が机を叩(たた)いた。


「現場の職員が証言したとしても、あの子はイネス嬢(じょう)に恩がある。信用できません!」


 傍聴席(ぼうちょうせき)で椅子(いす)を引く音がした。


「私の話なら、私がします」


 ネリが立っていた。片手に持っているのは、縁の焦げた当番札だった。イネスが振り返ったが、彼女を前に押し出すことはしなかった。


「証言を断っても、働いた日が消えるのは嫌なんです。だから、今日はこれを持ってきました」


 ネリは札を記録係へ手渡した。評議員の一人が椅子(いす)を勧めたが、首を振る。


「炉の取っ手を針金で留めてたのは、私たちです。直るまで使うなって言われても、乾燥炉は一つしかなくて。布が乾かなかったら、明日の寝具が足りない」


 咳(せき)が一つ混じった。ネリは水を飲み、続けた。


「火が出たとき、私は中に一人でした。蝶番(ちょうつがい)が落ちる音がして、燃えた木片が飛びました。棚(たな)をどかそうとして、戸を塞(ふさ)いじゃった。そのあと裏の掛け金が動いて、イネス様が来ました。火はもう出てました」


「それは、イネス嬢(じょう)に言われて話しているのでしょう!」


 夫人が立ち上がった。


「あなたの給金を誰が決めると思っているの。これ以上、勝手なことを言えば、ここで働けなくなりますよ」


 七人の評議員のうち、三人が同時に顔を上げた。ネリは夫人を見たまま、足を引かなかった。


「それです。火事のあとも、同じことを言われました。イネス様に助けられたと話すなら仕事はない、と」


 夫人は扇子(せんす)を握ったが、開かなかった。


 私は机へ向き直る。


「今の発言も議事録へ。証言内容と職の保障は分けて扱うべきだ。ネリの仕事を続けるかどうかを、彼女に不利な証言を引き出す道具にしてはいけない」


「では、伯爵(はくしゃく)のほうで雇えばよろしいでしょう!」


「ここで働きたいと本人が言っている。救護院の仕事を奪うことが、彼女を守ることにはならない」


 イネスが立った。父親の隣ではなく、ネリの横へ進む。


「私は火を見てから洗濯棟へ走りました。裏の通路を知っていたのは、配給用の薪(まき)を運ぶときに何度か使ったからです。掛け金に靴が引っかかったけれど、もう一度入ってネリを連れ出しました」


 娘は包帯のある手を机の上へ置いた。


「私が院長の帳簿を確かめていたのも事実です。配給の人数と、渡されたパンの数が合わない日があったから。言い方が悪かったことは謝ります。でも、火をつけたという話まで受け入れるつもりはありません」


 夫人が何か言いかけた。だが誰も促さない。イネスは彼女へ向き直った。


「私を罰したいのなら、私が何をしたか聞いてからにしてください」


 年長の評議員が立った。


「火災調査に関する当院の記録から、ご令嬢(れいじょう)を放火及び監禁の行為者と記す箇所(かしょ)を撤回する動議を出します。院長の発言は事実として確かめられず、現時点の資料は救出の説明を支持します。刑事上の調査は別途、町の役所へ委ねます」


 賛成の手が挙がる。夫人が自分の名札を押さえた。


「まだ終わっていません。院長は私です!」


「その件も動議にします」


 私は立ったまま、評議会へ頭を下げた。


「職員への威圧と、修繕記録(しゅうぜんきろく)の隠蔽(いんぺい)について、ベルナール夫人の職務停止を求める。同時に、設備の危険を承認した私の理事辞職を申し出る」


「あなたまで辞めるのなら、誰がこの院を守るのです!」


 夫人の声は、三日前より高かった。


 私は机の上の靴を片づけ、娘を見た。


「守るべき相手の話を聞かなかった者には、もう任せられない」


 夫人を採決から外して職務停止と外部調査の受け入れが可決され、私の辞職も受理された。議長の名札が机から外される。夫人は最後まで「寄付者が逃げる」と繰り返したが、傍聴席(ぼうちょうせき)の寄付者の一人が「今夜、泊まる場所のない職員は何人ですか」と尋ねた。


 ネリは当番札を握り直した。


「四人です。それと、休んだ日の給金が決まっていません」


 評議員は新しい紙を取り出し、宿と賃金の臨時支出についてその場で採決した。ネリは座るよう勧められてから、初めて椅子(いす)を使った。


 散会を告げる鐘(かね)が鳴る前に、イネスが私のところへ来た。


「お父様」


 娘がそう呼んだのは、火事の夜以来だった。


「今日のことは、ありがとうございます。ネリのことも」


「私は、もっと早く話を聞くべきだった」


「ええ」


 短い返事だった。私はそれ以上、謝罪を重ねなかった。


「でも、私は屋敷には戻りません。今の仕事を続けます。部屋の片づけも自分で決めます」


「分かった」


「……今度は、最後まで聞いてくださったんですね」


 イネスは鍵(かぎ)を手の中で握り、ネリのいるほうへ歩いていった。私は引き止めなかった。


*


 三週間後、私は救護院の裏庭ではなく、町の寄付品仕分け所を訪ねた。


 イネスはそこで、届いた寝具を大きさごとに分けていた。手の傷は薄く残っている。ネリは救護院に戻り、乾燥炉の修繕(しゅうぜん)が終わるまで別の建物で洗濯を続けると聞いた。あの事故の公的な調査は、まだ終わっていない。


「これを返しに来た」


 私は紙包みを差し出した。中には、左だけ途中まで磨いた革靴が入っている。検査職人が痕跡(こんせき)を記録し終えるまで預けていたものだ。


「まだ持っていらしたんですね」


「勝手に磨き始めて、勝手に預かった。すまない」


 娘は左の靴の白い縫(ぬ)い目を見て、口の端をわずかに上げた。


「小さい頃は、お父様が全部磨いてくださいましたね」


「ああ。君が自分で磨くと言っても、渡さなかった」


「私、一度だけ革油をつけすぎて、歩くたびに砂が貼(は)りついたことがあるんです」


「覚えている。玄関まで砂を連れて帰ったな」


 仕分け所の軒下には、手入れ用の木箱が置いてある。娘はそこから古布を二枚取った。


「左だけ、お願いできますか。傷のところは避けて」


「いいのか」


「右は私がやります」


 娘が右の靴を膝(ひざ)へ置くのを待ち、左の靴を手に取った。


 娘は自分の布をたたみ、私に背を向けず、隣へ腰を下ろした。


 二人で、一足の靴を片方ずつ磨き始めた。

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