娘を勘当しろと迫られた夜、父は娘の靴を磨き始めた
「娘を勘当なさい。今夜、この場で」
救護院長のベルナール夫人は、火事のあった建物を背にして言った。私の娘イネスは、煙で黒くなった外套を着たまま、夫人の隣に立たされている。
慈善祭の祝宴が中断されて、まだ一時間しかたっていなかった。食堂の卓には冷えた鴨料理が残り、窓からは濡れた麻布の焦げる臭いが流れ込んでいる。
「洗濯係を閉じ込め、火を放ったのはイネス嬢です。見た者もおります。以前から配給の帳簿に難癖をつけ、職員たちを困らせていたではありませんか」
「私がつけたのは難癖じゃありません。人数よりパンが少なかったんです。今日も、その話をネリと――」
「ほら、ご覧なさい。火事の夜にまで、他人を責め立てる」
周りを囲む寄付者たちが娘を見た。男爵夫人の一人が、袖で口を隠して何か囁く。イネスは、その人が週に一度救護院へ運ばせている古着を選別してきた娘だ。礼状を書くときは、必ず一枚ずつ状態を確かめていた。
それなのに、誰も娘に何があったのか尋ねない。
「お父様。ネリはあの中で動けなくなっていました。乾燥炉の扉が――」
「イネス、待ちなさい」
自分の声が食堂に響き、私は一瞬だけ満足した。少なくとも場を収めることはできる。救護院の理事を十五年務めてきた私にとって、大勢の前で人を静めるのは慣れた仕事だった。
ベルナール夫人が、待っていたように紙を差し出した。
「評議会が結論を出すまで、お嬢様の立ち入りを禁じる書面です。伯爵の承認があれば、寄付者の皆様も安心なさるでしょう」
私はその紙を読んだ。立入禁止は暫定措置とある。断罪ではない。疑いのある身内を現場から遠ざけ、調査を公正にするためなら、理事として間違った判断ではないはずだ。
胸元の筆を抜いた。
「お父様、それは……」
「君の話は屋敷で聞く。今ここで争えば、救護院の評判まで傷つく」
署名を終えるまで、娘は何も言わなかった。
紙を返すと、夫人は寄付者たちへ深々と頭を下げた。私も並んで頭を下げる。二人で同じ方向を向いたそのとき、イネスが一歩後ろへ下がった。
「お父様。私が何をしたかは、まだお聞きになっていませんね」
「だから、あとで――」
「聞かないまま、あの人の話だけで私の居場所を取り上げたんですね」
娘の右手から赤いものが一滴落ちた。爪の際が切れていた。私はそれを見て、初めて娘が負傷していると気づいた。
「その手を医者に――」
「ネリのほうへ行ってください。あの子の喉のほうがひどいから」
イネスは食堂の出口へ向かった。ベルナール夫人が「これでひと安心ですわ」と声をかけてきたが、私は返事をしなかった。
なぜ私があんな紙にすぐ署名したのか、分かっていた。娘を疑ったからだけではない。勘当を迫られる父親を、皆の前で演じたくなかったのだ。暫定の書面に名を書けば、とりあえず私への視線は弱まる。
火事の少し前、私は洗濯棟の裏を通っていた。乾燥炉の鉄扉が斜めに浮き、取っ手に巻かれた針金が火に照らされていた。職員に「あとで直すように」と言って通り過ぎた記憶がある。
立ち止まっていれば、何が見えただろう。
*
真夜中、屋敷の玄関に革靴が一足残されていた。
執事によると、イネスは夜のうちに着替えだけ持ち出したそうだ。手紙には「当面、救護院近くの宿に泊まります」と一行。黙って出ていったわけではない。父親に許可を求めるつもりがなかったのだ。
泥で汚れた靴を見つけた瞬間、私は靴磨き箱を取りに行った。
イネスの母が亡くなった年、娘は六歳だった。雨の日は濡れた靴を揃えて置き、翌朝履けるかと必ず確かめに来た。私が布で水気を取り、革に油を塗ると、ようやく安心した顔で寝室へ戻ったものだ。
大きくなってからも、私は時々娘の靴を磨いていた。娘はもう何年も「自分でできる」と言っていたが、私はその言葉を都合よく聞き流した。磨き上げた靴を玄関に戻すと、良い父親でいられる気がしたからだ。
左の靴を膝に置き、布を当てる。黒い泥は簡単に落ちた。だが、靴底の溝に入り込んだ白い泥だけは、布を押しつけても残った。
白い泥。
王都の敷石道にはない。石灰を含んだ、指でこすると粉を吹く土。古い建物の排水路をさらうと出てくるものだ。
踵を傾けると、革の縁にも不自然な傷があった。平行な二本の裂け目があり、間に赤褐色の錆が挟まっている。娘が歩いて釘を踏んだだけでは、こういう傷にはならない。
靴磨き箱の底から細いブラシを取り出しかけ、手を止めた。
救護院の旧図面が浮かんだ。洗濯棟の下には、今は使われていない排水路が通っている。床下の湿気を逃がすために残した保守通路の出口には、二枚重なった鉄の掛け金があった。見学に来た理事たちが汚れを嫌って入らなかった場所だ。
あそこを通ったのか。なぜ。
娘は言いかけていた。「乾燥炉の扉が」と。そして「ネリはあの中で動けなくなっていた」と。
私が遮った、その先に何があった。
ブラシをしまった。磨いてしまえば革の傷に残る錆も、白い泥も失われる。濡れた布を別の封筒に入れ、靴を紙で包んで保管した。右の靴には手をつけなかった。
執事が廊下の奥から、気遣わしげに訊いた。
「お嬢様を、お呼び戻しになりますか」
「まだ呼べない」
私は片方だけ汚れを落とした靴を見た。娘は、屋敷を出るために履き替えた靴まで用意していた。帰ってきたところへ私が何を言っても、昨夜の署名は消えない。
「朝になったら火除け組合へ使いを。事故現場を調べる職人を頼みたい。私の知り合いでなく、組合が当番を決めた者を」
執事が礼をした。私は娘の靴を、自分の机へ運んだ。
*
翌朝、ベルナール夫人は私が洗濯棟へ入ろうとするのを見て、露骨に顔をしかめた。
「伯爵、立入禁止に署名されたばかりではありませんか」
「娘の立ち入りにだ。設備の調査を止めるとは書いていない」
「そんなに熱心になさらなくとも、こちらで始末はつけます」
「何の始末だ?」
夫人は答えず、横を向いた。
火除け組合から来た検査職人は、中年の痩せた男だった。私に愛想笑いもせず、黒い革袋から縄、定規、木札を取り出した。煤で白くなった入口に札を立て、私たち以外が通らないようにしてから炉の前にしゃがむ。
「乾燥炉の扉を見てください。蝶番の下側が折れています。新しい割れ目です」
焼けた床に、扉を支えていた鉄の部品が落ちていた。折れた箇所は黒い錆でなく、灰色の金属が露出している。炉の前には燃え残った麻布が塊になっていた。
「内側に積んだ火が扉の隙間からこぼれれば、ここに移ります。危険は前からあったはずです。ただし、事故か人の手によるものか、この金具だけで決めてはいけません」
職人は一歩離れ、倒れた棚を指した。重い棚が出口の戸を押さえ、扉は外側から押しても開かない状態になっている。
「人が中にいれば、ここからは出られませんな」
私は黙って頷いた。
次に、職人と旧排水路へ回った。入口は大人が腰を折らなければ通れない高さで、壁際の泥は乾いて白く固まっている。奥には足跡が一列あり、掛け金の錆の上だけ真新しく擦れた筋があった。
靴底の傷と鉄具の幅が近いことを確認し、職人が紙へ寸法を書き込んだ。だが、靴をその場で押し当てることはしなかった。私が磨きかけた靴を持ち込んだと知れば、その痕跡自体が疑われても仕方ない。
「通った者はいたらしい。しかし娘だと断定はできませんな」
「分かっている。そこで何をしたかも、まだ」
職人は振り返り、古い鉄の掛け金を見上げた。
「内側から押せる仕組みです。外からだと手を突っ込んで引くしかない。指か革を傷つけた人間がいるなら、話は合います」
私は昨日見た娘の傷を思い出した。
夫人が離れた場所から声を張った。
「伯爵! そんな裏道を娘さんが知っていたなら、むしろ何かを企んでいた証拠ではありませんか」
職人が私の顔を見た。私の肩書きを知ってから、初めて返答を待つような目だった。
「夫人。裏道を知っていることと、火をつけたことは別だ」
私は初めて、昨夜の寄付者の前で言うべきだった言葉を口にした。
職人に火元と通路の検査記録を封じてもらったあと、私は救護院の裏手へ回った。煙を吸った職員が休んでいる仮宿舎はそこにある。
ネリ・トール。昨夜、娘が何度も呼んでいた名だ。
*
仮宿舎の部屋には、寝台が五つ並んでいた。うち二つは脚の長さが合わず、短いほうへ木片を噛ませてある。火事で寝所を失った職員が、使える寝具を持ち寄ったのだという。
ネリ・トールは一番奥で、穴の開いた前掛けを縫っていた。肘に包帯があり、針を持つたび顔をしかめる。私が名乗ると立ち上がろうとしたので、椅子を引いて止めた。
「お見舞いだ。話せないなら帰る」
「伯爵様、院長に言われて来たんですか」
「違う。私が聞きたいんだ」
ネリは縫い針を布へ刺した。細い糸が震えている。
「火事の前、イネスはどこにいたか。分かる範囲だけ教えてくれないか」
「配給倉庫です。私は洗濯場にいたから、全部は分かりません。でも、あの人が乾燥炉へ来る前に火が出ました」
「何を見た」
「取っ手に巻いた針金が、ぱちんって外れたんです。鉄の扉が手前に倒れて、火のついた木片が麻布へ跳ねました。棚を引いて離そうとしたら、脚が滑って戸に倒れちゃって」
そこでネリの息が乱れた。私は机の水差しを取り、手が届く場所へ移した。
「続きは、急がなくていい」
「イネス様が裏から入ってきたとき、私、もう戸を叩く力がなくて。腕を引かれたんです。途中であの人の靴が引っかかって、手を離したから、一人で逃げたんだと思いました」
彼女は包帯の上を押さえた。
「でも戻ってきた。革が裂けたのに、もう一度引っぱって、私を外に出してくれました」
「夫人には話したのか」
「はい。だけど『煙で何も分からなかったことにしなさい』って。次の日から働けなくなってもいいのかって」
傍らの前掛けには、補修を待つ裂け目がもう一つあった。休養するよう言えば、そのまま給金を減らされる。別の仕事を世話すると約束すれば、同じ部屋で寝ている仲間を置いて出なければならない。
私は懐から財布を出しかけ、手を戻した。
「君がここで働きたい理由は、ほかにあるか」
「弟が、学校に行ってます。冬に納める金がまだ。あと、ここを出たら、寝る場所がありません」
「評議会では、職員の賃金も救済費も扱える。だが私は、発言する代わりに給金を払うと約束したくない」
ネリが眉を寄せる。貴族の話は回りくどいだろう。私自身、うまく説明できる自信がなかった。
「君に証言を頼めば、夫人の報復が怖いはずだ。今日は断っていい。君の話は公開せず、火元の検査を先に進める」
「……じゃあ、なんで聞きに来たんですか」
「娘の言葉を遮ったからだ。同じことを君にしたくなかった」
ネリは目を逸らし、前掛けを折りたたんだ。
「私の話、イネス様に伝えていいです。でも、評議会で話すかはまだ決められません」
「分かった。院長には伝えない」
帰り際、ネリが一枚の小さな札を見せた。洗濯棟の当番札だ。縁が焦げている。
「これがないと、働いた日を数えてもらえないんです。火事のあと、院長はみんなの札を回収してしまった。私のだけ、袖に入ってました」
裏には三日前までの印が刻まれていた。私は帳面にその形を写した。ネリは、私が札を取り上げないと分かってから、やっと手を緩めた。
*
救護院の記録室は、乾燥炉の修繕記録を探すには都合の悪い造りだった。支出帳と設備帳は別々の棚にあり、承認書は年度ごとに厚い束へ綴じられている。理事が一枚の署名だけで仕事を済ませられるようにできていた。
私は十五年間、その仕組みを便利に使ってきた。
火除け組合から三週間前に届いた修繕通知には、赤い線が三本引かれていた。
『乾燥炉下部の蝶番に破損。炉扉が外れる危険あり。祭期前に交換すること。乾燥布を炉の前へ置く作業は中止』
ベルナール夫人の受領印がついている。
その四日後の支出帳には、交換部品の代金が消され、夜会用の天幕と招待客の椅子の借り賃へ移されていた。承認欄にあるのも夫人の筆跡だった。
最後に、年末設備点検の紙束を取り出した。
『全棟、安全上の支障なし』
その下に私の署名がある。
私はその日のことを覚えていた。領地の橋が壊れ、修理費の相談が四件重なった午後だ。夫人が分厚い紙束を持って来て、「職人が点検を終えました」と言った。私は中を見ることもせず、最後の紙に署名した。
イネスもその場にいた。
「お父様、洗濯棟の炉の扉が外れそうです。ネリたち、針金で留めて使っています」
あのとき私は、娘にこう言った。
「院長が見ている。君は配給の仕事をきちんとしなさい」
娘はそれでも一度、職人を呼べないかと尋ねた。私は仕事の邪魔だと思い、書斎から下がらせた。
署名の横に置いた指が、かすかに汚れた。古いインクが手袋へ移ったのだ。昨日、娘の靴から取った白い粉よりも、この黒い染みのほうが落としにくい気がした。
記録係に原本の封印と写しを頼む。彼女は、私の署名を見つけて顔を上げた。
「伯爵様。こちらも提出なさいますか」
「ああ。修繕を止めたのは夫人だが、安全だと認めたのは私だ」
「理事長代理から、記録は院長を通して出すようにと……」
「評議会の規程を持ってきてほしい。理事一名と独立した組合検査員が求めた設備資料は、保存原本から写しを取れるとあるはずだ。開示の記録に私の名を書いて構わない」
規程を確認した記録係は頷き、二通の控えに封をした。私はそのうち一通を組合に預け、保管を頼んだ。私の書斎へ運び込んでから見つからなくなるようでは、娘の立場をさらに悪くする。
廊下の窓から、救護院の門が見えた。門柱には私の家の紋章が刻まれている。毎年、寄付者が記念に撮る場所だ。門の中で働く者が何に困っていたか、私はついぞ聞いていなかった。
*
「あなたまで辞めたら、救護院の寄付は半分になるでしょう」
ベルナール夫人は、客用の暖炉の前で私を迎えた。
「現実を見てください。王都の貴婦人たちは、善行に名を連ねることが好きなのです。伯爵家が不祥事を認めた施設へ、誰がお金を出しますか」
私は机に二つの写しを置いた。組合の修繕通知と、支出帳の該当頁だ。
「炉扉の交換を止めたのは、なぜだ」
「費用の兼ね合いです。慈善祭が成功すれば、いくらでも修理できますわ」
「その前に事故が起きると、三週間前に知らされていた」
「だから針金で仮留めを。炉の前に布を置くのは、職員たちの不注意でしょう」
「使うなと命じれば、冬の洗濯物は乾かない。ほかの炉もない。職員を責めるなら、代わりの設備を用意すべきだった」
夫人は私の署名のある紙を見つけ、扇子の骨で叩いた。
「伯爵もお認めになったのです。ご自身の責任を追及されてもよろしいんですの?」
「明日、そのつもりだ」
夫人が扇子を閉じた。
「娘を一人、勘当すれば済む話です」
「娘が火をつけた証拠はない」
「走って逃げた姿を見た客がいる。娘さんが現場にいたのは事実でしょう。家から追放してくだされば、今度の件も『ご令嬢の不始末』として収まります。あなたの名前は守れます」
「告発した職員の名を教えてほしい」
「職員を守るため、公表しておりません」
「目撃した客の名は」
「そんな細部にこだわるから、話が進みませんのよ」
昔なら私は、ここで黙っただろう。寄付金を集め、見栄えよく式典を終わらせる彼女の手腕には助けられてきた。だが、娘を火の中から帰した者まで、帳面の都合で黙らせることがある。
「立入禁止の書面は、私が署名した。あれは私の誤りだ。明日、撤回を求める」
「お嬢様を信じたいだけの父親の感傷でしょう」
「そうかもしれない。だから私の言葉だけを信じてくれとは言わない。組合の検査と、あなたの帳面を評議員に見てもらう」
夫人は立ち上がり、私の書類へ手を伸ばした。
「それを出せば、あなたも無事では済まない」
「分かっている」
「娘さんだって、あなたが理事でなければ助けられませんよ」
「私は娘の居場所を奪う署名はできても、あの火事から娘を助けることはできなかった。娘が助けた人の話を、今度は聞くつもりだ」
夫人は初めて私の名を呼ばず、「出て行きなさい」と命じた。
*
宿の裏庭で、イネスは濡れた寝具を紐に掛けていた。片手にはまだ包帯があり、引っぱるたびに眉が動く。
「今度は何の書類ですか、伯爵閣下」
私は彼女が洗濯物を掛け終えるまで待った。
「最初に、一つだけ。君にあの書面の取り消しを頼む資格は、今の私にはない。でも、明日、評議会へ撤回を提案する」
「提出してくださったとき、私はそこにいました」
「覚えている」
「では、言い訳は結構です」
娘は桶の水を捨てた。冷たい地面で水が一本の筋になって流れる。
「炉の危険を知らせてくれたのに、私は確かめずに点検済みと署名した。職員が話せない状況も作った。君を人前で黙らせたのは、家の名を守りたかったからだ」
イネスはようやく私の顔を見た。
「私がいちばん腹を立てたのは、院長に疑われたことじゃありません」
「……ああ」
「お父様は、私の話を聞く前に、私を信じていない人たちの仲間になりました」
言葉を返せなかった。
「ネリは私が助けたことを話したがっていました。でも、解雇が怖いんです。私はあの子に来てほしいとは言いません。証言しなければならないのは、私とお父様のためじゃないから」
「分かっている。組合の資料と、私の署名を出す。ネリの名を勝手に使わない」
イネスは一度、口を開きかけてやめた。
「私も明日行きます。私はあの中で何をしたのか、もう一度、自分の言葉で話します」
「そうしてくれ」
「でも、そのために家へは帰りません。私の部屋の荷物にも、勝手に触れないでください」
私は頷いた。彼女が水桶を片づけるのを見ていたが、手伝おうと踏み出すのはやめた。
「……イネス。手の傷は、まだ痛むか」
「痛みます。だから、乾いた布だけ、そこの棚から取ってください」
私は棚から布を一枚取り、娘の手に渡した。彼女がそれをどこへ使うかは尋ねなかった。
*
臨時評議会は、三日前に娘が告発された食堂で開かれた。
寄付者たちも傍聴席にいた。公開を望んだベルナール夫人の名札が、長机の中央にある。
「先にロウエン伯爵令嬢の問題を解決いたしましょう」
夫人は用意した議案を掲げる。
「職員を閉じ込め、放火の疑いをかけられた娘さんについて、保護者の伯爵から正式な勘当をお願いしたいのです。そうでなければ寄付者の皆様に示しがつきません」
傍聴席の奥にイネスがいる。灰色の上着を着て、手には包帯を巻いていた。
「その議案より先に、火災の原因と告発の根拠を確認したい」
私が立つと、夫人は目に見えて不機嫌になった。
「伯爵、あなたは親御さんです。中立ではいらっしゃいませんでしょう」
「その通りだ。私の監督上の責任も議題になる。採決には加わらない。資料だけ提出させてほしい」
年長の評議員が頷き、記録係へ合図した。私は理事席を離れ、検査職人が待つ証言台の横へ移った。
焼け落ちた乾燥炉の蝶番が盆に載せられた。
「これが火元の一つとして考えられる部品です」
職人が現場図を広げた。
「蝶番が壊れ、炉扉が倒れたとき、燃えた木片が積んだ布へ飛びます。床に残った焦げ跡の広がり方は、その説明と合います。ただし、炉の故障だけで放火がなかったと断定するものではありません」
「そうでしょう!」
夫人が声を挟んだ。
「イネス嬢は裏の通路を知っていたのです。火の前にも出入りできた。疑うに足る事情があるではありませんか」
「出入りできたことと、実際に火をつけたことは別です」
職人は同じ調子で答え、炉の下から採った煤の見本を戻した。
私は机に靴を載せた。磨きかけの左足だけが、乾いた革の色を取り戻している。
「娘の靴から、旧排水路と同じ種類の石灰泥が出た。革に残る二本の傷も通路の鉄具と幅が近い。ただし私は発見した夜に靴の表面を拭いている。この品は、誰が通ったかを決める強い証拠にはならない」
「そんなものを持ち出すのですか。お嬢様の靴を、父親が磨いたというだけの話でしょう」
「そうだ。だが私がそこへ足を運ぶきっかけにはなった」
靴を下げ、別の束を開いた。
「こちらは火除け組合の三週間前の修繕通知だ。炉扉の蝶番が危険であり、祭期前に交換するよう求めている。受領したのは院長。その四日後、交換費用を夜会の設備費へ移した記録がある」
夫人の顔から笑みが消えた。
「帳簿を勝手に持ち出したのですか」
「理事の閲覧手続きと、組合検査員の立会いを記録した。原本は記録室に封印されている。ここにあるのは写しだ」
「運営費をどこへ使うかは院長の裁量です。皆様をお迎えするため、必要な支出でした!」
「その判断の是非は評議会が決める。まず危険を知っていたかどうかだ」
私は一枚目を裏返した。
「そして私は、炉の状態を一度も確認せず、安全に支障なしと署名した」
署名のある書面を、いちばん手前に置く。
傍聴席がざわついた。誰かが「伯爵ご自身も」と言った。夫人は、そこに活路を見つけたように身を乗り出した。
「ご覧ください! 私だけが悪いのではありません。伯爵も承認なさったのです。娘さんを守るために、ご自分の責任を持ち出しておられる!」
「私にも責任がある」
夫人の声が一度、止まった。
「修理の要請を娘からも聞いた。それを退けた。職員の安全より、院長への信頼と自分の仕事の都合を優先した。私の署名で工事が進まず、危険な設備が使われ続けた。私はそれを記録に残してほしい」
記録係が筆を走らせる。夫人の横に座っていた評議員が、初めて議長の顔を見ずに次の頁へ手を伸ばした。
「それでも、娘さんに疑いは残ります」
夫人が言い張る。
「疑いを残したいのは分かった。では、火をつけるところを見た人は誰だ」
「裏庭を走るお嬢様を見た人はおります」
「火が出る前か、あとか」
「そこまで正確に覚えている者が、どれだけいると?」
「分からないなら、確かめる必要がある。三日前、あなたは『閉じ込めて火をつけた』と断言した。見ていないことを、見たことにしてはならない」
夫人が机を叩いた。
「現場の職員が証言したとしても、あの子はイネス嬢に恩がある。信用できません!」
傍聴席で椅子を引く音がした。
「私の話なら、私がします」
ネリが立っていた。片手に持っているのは、縁の焦げた当番札だった。イネスが振り返ったが、彼女を前に押し出すことはしなかった。
「証言を断っても、働いた日が消えるのは嫌なんです。だから、今日はこれを持ってきました」
ネリは札を記録係へ手渡した。評議員の一人が椅子を勧めたが、首を振る。
「炉の取っ手を針金で留めてたのは、私たちです。直るまで使うなって言われても、乾燥炉は一つしかなくて。布が乾かなかったら、明日の寝具が足りない」
咳が一つ混じった。ネリは水を飲み、続けた。
「火が出たとき、私は中に一人でした。蝶番が落ちる音がして、燃えた木片が飛びました。棚をどかそうとして、戸を塞いじゃった。そのあと裏の掛け金が動いて、イネス様が来ました。火はもう出てました」
「それは、イネス嬢に言われて話しているのでしょう!」
夫人が立ち上がった。
「あなたの給金を誰が決めると思っているの。これ以上、勝手なことを言えば、ここで働けなくなりますよ」
七人の評議員のうち、三人が同時に顔を上げた。ネリは夫人を見たまま、足を引かなかった。
「それです。火事のあとも、同じことを言われました。イネス様に助けられたと話すなら仕事はない、と」
夫人は扇子を握ったが、開かなかった。
私は机へ向き直る。
「今の発言も議事録へ。証言内容と職の保障は分けて扱うべきだ。ネリの仕事を続けるかどうかを、彼女に不利な証言を引き出す道具にしてはいけない」
「では、伯爵のほうで雇えばよろしいでしょう!」
「ここで働きたいと本人が言っている。救護院の仕事を奪うことが、彼女を守ることにはならない」
イネスが立った。父親の隣ではなく、ネリの横へ進む。
「私は火を見てから洗濯棟へ走りました。裏の通路を知っていたのは、配給用の薪を運ぶときに何度か使ったからです。掛け金に靴が引っかかったけれど、もう一度入ってネリを連れ出しました」
娘は包帯のある手を机の上へ置いた。
「私が院長の帳簿を確かめていたのも事実です。配給の人数と、渡されたパンの数が合わない日があったから。言い方が悪かったことは謝ります。でも、火をつけたという話まで受け入れるつもりはありません」
夫人が何か言いかけた。だが誰も促さない。イネスは彼女へ向き直った。
「私を罰したいのなら、私が何をしたか聞いてからにしてください」
年長の評議員が立った。
「火災調査に関する当院の記録から、ご令嬢を放火及び監禁の行為者と記す箇所を撤回する動議を出します。院長の発言は事実として確かめられず、現時点の資料は救出の説明を支持します。刑事上の調査は別途、町の役所へ委ねます」
賛成の手が挙がる。夫人が自分の名札を押さえた。
「まだ終わっていません。院長は私です!」
「その件も動議にします」
私は立ったまま、評議会へ頭を下げた。
「職員への威圧と、修繕記録の隠蔽について、ベルナール夫人の職務停止を求める。同時に、設備の危険を承認した私の理事辞職を申し出る」
「あなたまで辞めるのなら、誰がこの院を守るのです!」
夫人の声は、三日前より高かった。
私は机の上の靴を片づけ、娘を見た。
「守るべき相手の話を聞かなかった者には、もう任せられない」
夫人を採決から外して職務停止と外部調査の受け入れが可決され、私の辞職も受理された。議長の名札が机から外される。夫人は最後まで「寄付者が逃げる」と繰り返したが、傍聴席の寄付者の一人が「今夜、泊まる場所のない職員は何人ですか」と尋ねた。
ネリは当番札を握り直した。
「四人です。それと、休んだ日の給金が決まっていません」
評議員は新しい紙を取り出し、宿と賃金の臨時支出についてその場で採決した。ネリは座るよう勧められてから、初めて椅子を使った。
散会を告げる鐘が鳴る前に、イネスが私のところへ来た。
「お父様」
娘がそう呼んだのは、火事の夜以来だった。
「今日のことは、ありがとうございます。ネリのことも」
「私は、もっと早く話を聞くべきだった」
「ええ」
短い返事だった。私はそれ以上、謝罪を重ねなかった。
「でも、私は屋敷には戻りません。今の仕事を続けます。部屋の片づけも自分で決めます」
「分かった」
「……今度は、最後まで聞いてくださったんですね」
イネスは鍵を手の中で握り、ネリのいるほうへ歩いていった。私は引き止めなかった。
*
三週間後、私は救護院の裏庭ではなく、町の寄付品仕分け所を訪ねた。
イネスはそこで、届いた寝具を大きさごとに分けていた。手の傷は薄く残っている。ネリは救護院に戻り、乾燥炉の修繕が終わるまで別の建物で洗濯を続けると聞いた。あの事故の公的な調査は、まだ終わっていない。
「これを返しに来た」
私は紙包みを差し出した。中には、左だけ途中まで磨いた革靴が入っている。検査職人が痕跡を記録し終えるまで預けていたものだ。
「まだ持っていらしたんですね」
「勝手に磨き始めて、勝手に預かった。すまない」
娘は左の靴の白い縫い目を見て、口の端をわずかに上げた。
「小さい頃は、お父様が全部磨いてくださいましたね」
「ああ。君が自分で磨くと言っても、渡さなかった」
「私、一度だけ革油をつけすぎて、歩くたびに砂が貼りついたことがあるんです」
「覚えている。玄関まで砂を連れて帰ったな」
仕分け所の軒下には、手入れ用の木箱が置いてある。娘はそこから古布を二枚取った。
「左だけ、お願いできますか。傷のところは避けて」
「いいのか」
「右は私がやります」
娘が右の靴を膝へ置くのを待ち、左の靴を手に取った。
娘は自分の布をたたみ、私に背を向けず、隣へ腰を下ろした。
二人で、一足の靴を片方ずつ磨き始めた。




