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悪行ノートと赤ペン殿下

【殿下視点】婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノートを、毎晩赤ペンで添削していたのは僕です

作者: 富益 啓
掲載日:2026/10/08

本作は、短編『婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノート、なぜか毎朝赤ペンで添削されています ~犯人は冷徹な王太子殿下でした~』の殿下視点のおまけです。本編のネタバレを含みますので、未読の方はぜひ本編からどうぞ。

【おまけ】氷の王子は、今日も赤ペンを握りしめている


 ノートを拾ったのは、偶然だった。


 昼休み、中庭を横切ろうとしたら、ベンチの上に一冊のノートが置き去りにされていた。

 表紙には、見慣れた字で、でかでかと。


 『悪行ノート』


 見慣れた、というのは比喩ではない。五年間、季節ごとの手紙と、誕生日のカードと、お茶会の礼状で、僕は彼女の字を何度も読み返してきた。几帳面で、まっすぐで、ほんの少しだけ右肩が下がる、リーゼロッテ・ヴァイスフェルトの字だ。


 拾い上げて、彼女の姿を探した。

 渡り廊下の向こうで、彼女は階段を踏み外しかけた一年生の腕をつかみ、「怪我はない? 気をつけなさい、まったく」と言いながら、その子のずれた襟を直していた。


 声をかけるべきだった。

 けれど、なんと声をかければいいのかわからなかった。「ノートを落としたぞ」でいいはずなのに、その一言が喉のあたりで渋滞を起こした。

 五年間、ずっとこうだ。


 結局、僕はノートを持ったまま、生徒会室に戻ってしまった。


 ◇


 読むつもりはなかった。

 本当だ。持ち主の机に戻すとき、万が一にも中身が散らばらないよう確かめようとしただけで――。


 一ページ目に、彼女の決意が書いてあった。

 婚約破棄されたい。辺境でパン屋をやりたい。


 胸の真ん中に、氷の杭を打ち込まれたような気がした。

 当然だ、と思った。五年間、まともに話しかけることもできない婚約者だ。「ああ」と「そうか」しか言えない男と、誰が結婚したいものか。


 ページをめくる手が止まらなかったのは、たぶん、自分を罰したかったからだと思う。


 悪行その一。噴水作戦。

 ミア嬢を噴水に突き落とす。


 その下に、小さな字で注意書きがあった。


『※ただし水深は膝まで。季節は春。怪我はさせないこと』


「…………」


 僕は、生徒会室の机に突っ伏した。


 怪我はさせないこと。

 悪事の計画書に、怪我はさせないこと。


 だめだ。これはだめだ。可愛すぎる。


「殿下? ご気分でも?」

「……問題ない」


 扉の外から護衛の声がする。問題しかない。


 三ページ目の余白には、パン屋の間取りが落書きされていた。窯の位置。棚の数。看板の案が三つ。「小麦の家」「パンと薬草茶の店」「ヴァイスフェルト・ベーカリー(※侯爵家の名前は出さないほうがいいかも)」。


 僕はもう一度、机に突っ伏した。


 ◇


 ノートは、すぐに返すつもりだった。

 生徒会長として預かっている机の合鍵で、彼女の机にそっと戻す。何も見なかったことにする。それが紳士というものだ。


 けれど、噴水作戦のページをもう一度見て、僕は気づいてしまった。


 春先の噴水の水は、まだ冷たい。

 彼女はきっと、突き落とした後のことまでは考えていない。ミア嬢が風邪をひいたら、彼女はきっと、悪役令嬢の顔をしたまま、誰より気に病むのだろう。


 気づけば、手が赤インクのペンを握っていた。

 生徒会で書類を訂正するときの、いつもの癖だった。


『添削:春先とはいえ水は冷たい。濡れたまま放置すれば風邪をひく。

 →乾いたタオルと、温かい紅茶を用意すること』


 書いてから、血の気が引いた。

 何をしているんだ、僕は。人のノートに。婚約者の、秘密の計画書に。


 消そうとして、やめた。

 これは、五年ぶりに――いや、初めて、彼女の言葉に返事ができた瞬間だったから。


 ◇


 翌日、彼女は本当にタオルと紅茶を持って、ミア嬢を噴水に突き落とした。

 そして、悪役令嬢の顔をしようとして、まったくできずに、ミア嬢の髪をわしわしと拭いていた。


 あまりにも予想どおりで、口元が緩むのを止められなかった。

 春の陽射しのせいにしておいた。


 その夜、ずぶ濡れにさせてしまった詫びをしに、寮の面会室でミア嬢に会った。

 事情をかいつまんで話すと、ミア嬢は目を輝かせた。


「つまり殿下は、お姉さまの計画を、こっそり優しく直して差し上げたいんですね!」

「……そういうことになる」

「お手伝いさせてください! 私、朝はとっても早いので! 見張りでも何でもします!」


 机の鍵は渡せない、と言うと、ミア嬢は「当然です!」と胸を張った。

 こうして、悪役令嬢の悪行計画を、王太子とヒロインが共同で添削するという、前代未聞の体制が整った。

 なお、ミア嬢はインクが乾く前のページを何度か触ってしまい、そのたびに「苺ジャムです」と言い張ったらしい。苺ジャムで押し通せると思っているところが、彼女の強さだと思う。


 ◇


 添削は、楽しかった。


 彼女の計画は、どれも穴だらけで、どれも優しかった。

 教科書を隠す計画には「勉強に支障が出ないように」。お茶会でいびる計画には「人前で泣かせるのは可哀想」。僕の足を踏む計画には「骨は折らない程度に」。


 五年間わからなかった彼女の考えが、ページをめくるたびに流れ込んでくる。

 僕は毎日、放課後の生徒会室で、そのノートを開くのが待ち遠しくてたまらなくなった。


 一度だけ、ペン先が震えて、まともに字が書けなかった夜がある。


『計画:殿下に「大嫌いです」と言う。』


 わかっていた。罠だ。添削のしようがない計画を書いて、犯人をあぶり出そうという、彼女らしいまっすぐな作戦だ。


 わかっていても、その一行を読んだ瞬間、指先が冷たくなった。


 添削しようとして、何度もペンを置いた。

 「却下」と書くのが精いっぱいだった。それから、どうしても隠しきれなかった一行を足した。


『それだけは、添削では直せない』


 数日後、彼女がその計画を実行しないことにしたらしいと、ミア嬢から聞いた。

 その日、僕は生徒会の書類を三枚、間違えた。


 ◇


 誕生日に、焼き菓子をもらった。


 添削で、柑橘の皮を入れたものを、量は多めに、と書いた。

 職権濫用だという自覚はある。けれど、どうしても、もう一度食べたかった。


 十二歳の顔合わせの日。

 緊張で一言も話せなかった僕に、金色の髪の女の子が、焼き菓子を半分に割って差し出してくれた。


『無口な人は、お腹が空いているのよ』


 オレンジの皮の入った、少し焦げた焼き菓子だった。

 あの味を、僕はずっと覚えている。


 侍従が毒見役を呼ぼうとしたのは、止めた。

 規則は知っている。けれど、彼女が自分の手で焼いたものに、他人の歯形をつけさせたくはなかった。それに――彼女を疑う理由など、この五年間、ひとつもない。


 籠いっぱいの焼き菓子を前にして、僕は、いつもの三語しか出てこなかった。

 「問題ない」。本当は、「ありがとう」と「美味しい」と「ずっと好きだった」を言いたかったのに。


 だから、手が止まらなかったのは、言葉の代わりだ。

 侍従には、毒見を省いたことと、晩餐の前だということの両方で、たっぷり叱られた。


 ◇


 卒業記念パーティーの前夜。

 生徒会室で、僕は彼女のノートの最後のページを開いていた。


『最終計画:婚約破棄。

 卒業パーティーで殿下に、婚約破棄を宣言していただく。

 ※殿下の評判に傷がつかないよう、悪いのは全部私ということにすること』


 この期に及んで、僕の評判の心配をしている。

 本当に、この人は。


 ここ数日、このページには何も書けなかった。

 添削で直せるのは、計画の手順だけだ。彼女が本当に婚約破棄を望むなら、僕にそれを止める権利はない。


 けれど。

 噴水の日の、タオルを握った手。製本屋に教科書を抱えて走っていく背中。乗馬用の長靴を踏んで涙目になった顔。籠いっぱいの焼き菓子。


 この一年のページを全部めくり直して、僕は決めた。

 添削ではなく、最後くらいは、自分の口で言おう。


 赤いペンを置いて、ノートを閉じる。

 「訂正」の二文字を書くのは、明日、彼女の目の前で――いや、それでは格好がつかない。インクが乾かない。


「……殿下、まだお残りですか」

「すぐに出る」


 護衛に答えながら、僕はもう一度ノートを開いて、ペン先を最後のページに近づけ、そして、やっぱり離した。


 明日の朝、パーティーの直前に書こう。

 インクが乾いていないくらいのほうが、きっと、本気だと伝わる。


 ――そして、パーティーの夜。

 「そこまで読まないでください!」と真っ赤になって叫ぶ彼女を前にして、僕は五年ぶりに、自分が笑っていることに気づいたのだった。

お読みいただきありがとうございました!

本編では「ああ」「そうか」しか言わなかった殿下の、心の中はこんな感じでした。

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