【殿下視点】婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノートを、毎晩赤ペンで添削していたのは僕です
本作は、短編『婚約破棄されたい悪役令嬢の悪行ノート、なぜか毎朝赤ペンで添削されています ~犯人は冷徹な王太子殿下でした~』の殿下視点のおまけです。本編のネタバレを含みますので、未読の方はぜひ本編からどうぞ。
【おまけ】氷の王子は、今日も赤ペンを握りしめている
ノートを拾ったのは、偶然だった。
昼休み、中庭を横切ろうとしたら、ベンチの上に一冊のノートが置き去りにされていた。
表紙には、見慣れた字で、でかでかと。
『悪行ノート』
見慣れた、というのは比喩ではない。五年間、季節ごとの手紙と、誕生日のカードと、お茶会の礼状で、僕は彼女の字を何度も読み返してきた。几帳面で、まっすぐで、ほんの少しだけ右肩が下がる、リーゼロッテ・ヴァイスフェルトの字だ。
拾い上げて、彼女の姿を探した。
渡り廊下の向こうで、彼女は階段を踏み外しかけた一年生の腕をつかみ、「怪我はない? 気をつけなさい、まったく」と言いながら、その子のずれた襟を直していた。
声をかけるべきだった。
けれど、なんと声をかければいいのかわからなかった。「ノートを落としたぞ」でいいはずなのに、その一言が喉のあたりで渋滞を起こした。
五年間、ずっとこうだ。
結局、僕はノートを持ったまま、生徒会室に戻ってしまった。
◇
読むつもりはなかった。
本当だ。持ち主の机に戻すとき、万が一にも中身が散らばらないよう確かめようとしただけで――。
一ページ目に、彼女の決意が書いてあった。
婚約破棄されたい。辺境でパン屋をやりたい。
胸の真ん中に、氷の杭を打ち込まれたような気がした。
当然だ、と思った。五年間、まともに話しかけることもできない婚約者だ。「ああ」と「そうか」しか言えない男と、誰が結婚したいものか。
ページをめくる手が止まらなかったのは、たぶん、自分を罰したかったからだと思う。
悪行その一。噴水作戦。
ミア嬢を噴水に突き落とす。
その下に、小さな字で注意書きがあった。
『※ただし水深は膝まで。季節は春。怪我はさせないこと』
「…………」
僕は、生徒会室の机に突っ伏した。
怪我はさせないこと。
悪事の計画書に、怪我はさせないこと。
だめだ。これはだめだ。可愛すぎる。
「殿下? ご気分でも?」
「……問題ない」
扉の外から護衛の声がする。問題しかない。
三ページ目の余白には、パン屋の間取りが落書きされていた。窯の位置。棚の数。看板の案が三つ。「小麦の家」「パンと薬草茶の店」「ヴァイスフェルト・ベーカリー(※侯爵家の名前は出さないほうがいいかも)」。
僕はもう一度、机に突っ伏した。
◇
ノートは、すぐに返すつもりだった。
生徒会長として預かっている机の合鍵で、彼女の机にそっと戻す。何も見なかったことにする。それが紳士というものだ。
けれど、噴水作戦のページをもう一度見て、僕は気づいてしまった。
春先の噴水の水は、まだ冷たい。
彼女はきっと、突き落とした後のことまでは考えていない。ミア嬢が風邪をひいたら、彼女はきっと、悪役令嬢の顔をしたまま、誰より気に病むのだろう。
気づけば、手が赤インクのペンを握っていた。
生徒会で書類を訂正するときの、いつもの癖だった。
『添削:春先とはいえ水は冷たい。濡れたまま放置すれば風邪をひく。
→乾いたタオルと、温かい紅茶を用意すること』
書いてから、血の気が引いた。
何をしているんだ、僕は。人のノートに。婚約者の、秘密の計画書に。
消そうとして、やめた。
これは、五年ぶりに――いや、初めて、彼女の言葉に返事ができた瞬間だったから。
◇
翌日、彼女は本当にタオルと紅茶を持って、ミア嬢を噴水に突き落とした。
そして、悪役令嬢の顔をしようとして、まったくできずに、ミア嬢の髪をわしわしと拭いていた。
あまりにも予想どおりで、口元が緩むのを止められなかった。
春の陽射しのせいにしておいた。
その夜、ずぶ濡れにさせてしまった詫びをしに、寮の面会室でミア嬢に会った。
事情をかいつまんで話すと、ミア嬢は目を輝かせた。
「つまり殿下は、お姉さまの計画を、こっそり優しく直して差し上げたいんですね!」
「……そういうことになる」
「お手伝いさせてください! 私、朝はとっても早いので! 見張りでも何でもします!」
机の鍵は渡せない、と言うと、ミア嬢は「当然です!」と胸を張った。
こうして、悪役令嬢の悪行計画を、王太子とヒロインが共同で添削するという、前代未聞の体制が整った。
なお、ミア嬢はインクが乾く前のページを何度か触ってしまい、そのたびに「苺ジャムです」と言い張ったらしい。苺ジャムで押し通せると思っているところが、彼女の強さだと思う。
◇
添削は、楽しかった。
彼女の計画は、どれも穴だらけで、どれも優しかった。
教科書を隠す計画には「勉強に支障が出ないように」。お茶会でいびる計画には「人前で泣かせるのは可哀想」。僕の足を踏む計画には「骨は折らない程度に」。
五年間わからなかった彼女の考えが、ページをめくるたびに流れ込んでくる。
僕は毎日、放課後の生徒会室で、そのノートを開くのが待ち遠しくてたまらなくなった。
一度だけ、ペン先が震えて、まともに字が書けなかった夜がある。
『計画:殿下に「大嫌いです」と言う。』
わかっていた。罠だ。添削のしようがない計画を書いて、犯人をあぶり出そうという、彼女らしいまっすぐな作戦だ。
わかっていても、その一行を読んだ瞬間、指先が冷たくなった。
添削しようとして、何度もペンを置いた。
「却下」と書くのが精いっぱいだった。それから、どうしても隠しきれなかった一行を足した。
『それだけは、添削では直せない』
数日後、彼女がその計画を実行しないことにしたらしいと、ミア嬢から聞いた。
その日、僕は生徒会の書類を三枚、間違えた。
◇
誕生日に、焼き菓子をもらった。
添削で、柑橘の皮を入れたものを、量は多めに、と書いた。
職権濫用だという自覚はある。けれど、どうしても、もう一度食べたかった。
十二歳の顔合わせの日。
緊張で一言も話せなかった僕に、金色の髪の女の子が、焼き菓子を半分に割って差し出してくれた。
『無口な人は、お腹が空いているのよ』
オレンジの皮の入った、少し焦げた焼き菓子だった。
あの味を、僕はずっと覚えている。
侍従が毒見役を呼ぼうとしたのは、止めた。
規則は知っている。けれど、彼女が自分の手で焼いたものに、他人の歯形をつけさせたくはなかった。それに――彼女を疑う理由など、この五年間、ひとつもない。
籠いっぱいの焼き菓子を前にして、僕は、いつもの三語しか出てこなかった。
「問題ない」。本当は、「ありがとう」と「美味しい」と「ずっと好きだった」を言いたかったのに。
だから、手が止まらなかったのは、言葉の代わりだ。
侍従には、毒見を省いたことと、晩餐の前だということの両方で、たっぷり叱られた。
◇
卒業記念パーティーの前夜。
生徒会室で、僕は彼女のノートの最後のページを開いていた。
『最終計画:婚約破棄。
卒業パーティーで殿下に、婚約破棄を宣言していただく。
※殿下の評判に傷がつかないよう、悪いのは全部私ということにすること』
この期に及んで、僕の評判の心配をしている。
本当に、この人は。
ここ数日、このページには何も書けなかった。
添削で直せるのは、計画の手順だけだ。彼女が本当に婚約破棄を望むなら、僕にそれを止める権利はない。
けれど。
噴水の日の、タオルを握った手。製本屋に教科書を抱えて走っていく背中。乗馬用の長靴を踏んで涙目になった顔。籠いっぱいの焼き菓子。
この一年のページを全部めくり直して、僕は決めた。
添削ではなく、最後くらいは、自分の口で言おう。
赤いペンを置いて、ノートを閉じる。
「訂正」の二文字を書くのは、明日、彼女の目の前で――いや、それでは格好がつかない。インクが乾かない。
「……殿下、まだお残りですか」
「すぐに出る」
護衛に答えながら、僕はもう一度ノートを開いて、ペン先を最後のページに近づけ、そして、やっぱり離した。
明日の朝、パーティーの直前に書こう。
インクが乾いていないくらいのほうが、きっと、本気だと伝わる。
――そして、パーティーの夜。
「そこまで読まないでください!」と真っ赤になって叫ぶ彼女を前にして、僕は五年ぶりに、自分が笑っていることに気づいたのだった。
お読みいただきありがとうございました!
本編では「ああ」「そうか」しか言わなかった殿下の、心の中はこんな感じでした。
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