15話
「••••••••••••んあぁっ‥‥‥?」
混濁した意識に光が差す。
生まれてから何度も繰り返してきた感覚。
目が覚める。
見慣れてしまった天井を認識すると同時に、頭の重みと鈍い痛みを自覚した。
「‥‥‥‥‥‥」
過去に何度か経験したことのある倦怠感。
‥‥‥二日酔いだ。
「‥‥‥あぁー‥‥‥」
昨日の記憶を思い出す。
冷泉家での依頼を終えた後、バリオスに向かった。
最初にやたらと美味しい酒を飲み、その後も四条に勧められたお酒やカクテルを飲んだ。
しかし、何杯目かを飲んだところから記憶が無い‥‥‥
「やっちまったなあ‥‥‥」
頭痛とともに、情けなさと申し訳なさが眞を襲う。
二日酔いはともかく、記憶を飛ばしてしまうことは、酒の飲み方が分かっていない頃以来だ。
その時は会社の先輩に迷惑を掛けてしまった記憶がある。そうなると、詩音か四条に迷惑を掛けてしまった可能性が高い。
「はあぁぁ‥‥‥‥‥‥」
溜息を付く。
だが、自己嫌悪に浸っていても状況は変わらない。
とりあえず、詩音に話を聞かないことには何も始まらない。そう思った眞は詩音の定位置に顔を向ける。
「黒羽さん、昨日は申し訳‥‥‥」
ソファで寝ている詩音を見た瞬間、言葉を失う。
••••••正確には動揺で言葉が出ない。
「‥‥‥‥‥‥ぅぅん‥‥‥‥」
詩音のシャツのボタンがいつもより多めに外されており、黒い下着とそれに包まれているものが顕になっていたからだ。
眞の言葉が煩かったのか、端整な顔を僅かに歪めながら身をよじる。そのたびに、シャツとともに大きなものが形を変えて潰れていた。
眞の脳裏に1つの仮説が思い浮かぶ。
(まさか‥‥‥俺、黒羽さんを‥‥‥?!)
思わず自身の衣服を見る。
皺がついてはいるが、乱れはない。
そこまで見たところでやっと気が付く。
詩音の服装もシャツのボタン以外におかしい所はない。
‥‥‥アセトアルデヒドのせいで頭が正常では無かったようだ。眞はようやく理解した。
「‥‥‥‥‥‥はぁぁぁぁっ」
再び溜息を付く。理由は安堵から。
雇い主と“もしも”の事があれば、気まずいどころの話ではない。
その日から再び無職に元通りだ。
(‥‥‥‥‥‥でも、まあ)
理性では分かっていても、そこは男の悲しき性。
小さい体つきとはいえ、出ている所は出ている大人の女性が隣で寝ている••••••しかも半裸で。
心の何処かで邪な考えが顔を出そうとしているかもしれない。
そう思いながら横目で詩音の寝姿を見る‥‥‥
「元気そうだな?」
「く、くろばねさぁん?!」
いつの間にか置きていた様だ。
詩音はソファに寝たまま、腕を枕に横向きで見つめている。
そんな詩音の声に驚いてしまい、思わず声がうわずってしまう。
「‥‥‥発情するのも良いが‥‥‥何か言うことはないのか?」
「す、すみ‥‥‥申し訳ありませんでしたぁっ?!」
ジト目で見つめながらも、横向きで潰れるものを隠しもせず淡々と詰めてくる詩音に対し、ソファの上で器用に土下座することしか選択肢は無かった。
◇
「本当に‥‥‥本当に申し訳ありませんでした‥‥‥」
「もういい。頭を冷やしたら朝飯を作れ」
詩音が衣服を整えている中、眞はずっと頭を下げていた。
詩音はそれ以上は何も言わず、朝食を催促する。
「‥‥‥‥‥‥良いんですか?」
「何だ‥‥‥これ以上何か必要か?」
叱責を受けるかと思ったが、詩音はもう気にしていないようであった。
これ以上は藪蛇か、と咄嗟に話題を変える。
「い、いえ‥‥‥それでは朝食のご用意をさせて頂きます」
堅苦しい敬語になってしまった。
「飯と味噌汁‥‥‥しじみだ。それに、魚と和え物。食後は茶も飲む」
「かしこまりました‥‥‥」
眞は粛々《しゅくしゅく》と詩音の命令に従うことにした。
「‥‥‥今日は休みだ。朝食を食べたら私は出掛ける。お前も勝手にするといい‥‥‥だが、夜は空けろ‥‥‥‥‥‥話しがある」
「は、はぁ‥‥‥」
突然与えられた休みに戸惑いつつ、夜の話とやらが気になった。眞はその話について尋ねてみた。
「‥‥‥えっと、その‥‥‥私の事ですか?」
「‥‥‥まあ、そうだ」
「‥‥‥」
少し考えたあと、肯定されてしまった。
一気に血の気が引く。
「まさか‥‥‥クビですか」
「‥‥‥は?‥‥‥馬鹿なことを言っていないでさっさと飯を作れ‥‥‥‥‥‥‥‥‥今後についてのことだ。••••••詳しいことは今夜話す」
詩音は呆れながらも、眞を安心させるかのように補足する。とりあえず、役立たずとみなされた訳ではないことに安堵しながら朝食の準備を進めることにした。
◇
朝食後、詩音は何処かへ出掛けて行った。
1人残された眞は、突然与えられた休みをどの様に使えば良いのかと考える。
(休み、といってもなあ。二日酔いだからといって寝て過ごすのも‥‥‥‥‥‥あ、アパートも片付けと契約の解除でもしにいくか)
1ヶ月も経たない間に、仕事をクビになったり、再就職したり、初仕事をしたりと。慌ただしい日々を過ごしていたため、前職の頃に住んでいたアパートの引き払いをしていなかった事を思い出す。
(荷物はまあ、PCと母さんの形見くらいか‥‥‥)
元々私物と呼べるものは少なく、毎日整理整頓も心がけていたので、そこまで時間はかからないだろう。
だが、ここで1つの考えが思い浮かんでいた。
(金も入ったし‥‥‥このまま契約だけでも残しておくか?)
金の無駄遣いとはいえ、そこまで家賃が高いアパートでもない。無職であれば死活問題だが、今は大口の依頼を終えて懐も暖かい。
数ヶ月程度であれば、支払いを継続していても支障はないだろう。
(‥‥‥セーフハウスみたいで、良いな)
年甲斐もなく馬鹿な事を考えてみる。
あながち、その考えも悪くない。
(ここを辞める事になっても、寝泊まり出来る所があれば暫くは生きていけるし、それに黒羽さんが女性を連れ込んだ時には避難も出来る‥‥‥)
そんな考えもあり、アパートの契約解除は見送ることにした。
口座にでも入金しておけば、勝手に引き落としもされるだろう。しかし、そのための振り込みだけで予定は終わってしまう。時間はまだあるのだ。
(‥‥‥どうするかなあ)
特に趣味もない。
強いて言うなら、酒と煙草くらいか。
どうしたものか、と考えている内に事務所の扉が目についた。
(そういえば、あれ‥‥‥壊れているんだよなあ)
ここに来た当初から、扉の立て付けや蝶番がおかしかった。そのため、満足に閉めることも、鍵を掛ける事も出来なかった。ならば‥‥‥
「‥‥‥よし、ホームセンター行くか」
扉の修理。
それで今日の予定を潰そうと考え、必要な道具を買い揃えようと準備を始めた。
◇
「‥‥‥これは‥‥‥」
「あ、黒羽さん。おかえりなさい。扉の調子はどうですか?」
「ああ、問題ない‥‥‥お前が?」
「はい、休みだったので」
「そうか‥‥‥」
その日の夜。
詩音は紙袋を持って、事務所に帰ってきた。
新しくなっている扉を怪訝な目で見ていたが、眞が修理したということが分かると、すんなりと納得する。
「どちらへ行っていたんですか?」
「野暮用だ」
昼頃に詩音から、夕食はいらないと連絡があった。そのこともあり、余計に気にはなっていた。
ただ、詩音の身体から嗅いだことのある甘い香水の匂いが漂っていた。
それで、詩音の行き先が分かった。
「‥‥‥あ、はい。分かりました」
「それよりも話しがある。‥‥‥扉の修理も丁度良かった。‥‥‥赤城、これを持ってそこで待っていろ‥‥‥それとグラスも2つ用意しておけ」
「は、はい」
詩音から紙袋を渡される。中には液体の入った瓶と木箱のようなものが入っていた。
詩音の言葉から1つは酒であろうと推察された。
詩音は事務所のデスクから何かを探している。
それを横目にソファに座り、紙袋をテーブル置いた。その横には2脚のグラスも。
「‥‥••••••‥あった」
詩音が手紙の様なものを持ってソファに座る。
そして、紙袋から酒瓶と木箱を取り出した。
「これは‥‥‥」
眞が置かれたものを見る。
片方は赤茶色の液体が入った丸みを帯びた瓶。
『DICTADOR LA VIDA DULCE 』とラベルに記載されていた。
もう一つは、黄色い木箱。『Montecristo』
「それはマスターに頼んだものだ••••••詳しくは知らん」
詩音はそう言いながら瓶の封を開け、準備されたグラスに注ぎ始める。
ウイスキーの琥珀色とは少し違い、やや赤みを帯びた粘度の高そうな液体が静かに揺れる。
次いで、木箱から綺麗に並べられた葉巻を1本取り出し、何処からか取り出したナイフで葉巻の先を切り落とす。
そして口に咥えたまま、愛用のライターで火を付け、じっくりと炙る。
火と煙が安定したところで、大きく吹かす。
いつも吸っている紙巻きとは違い、粘つくような重い煙が事務所に漂い始める。
(‥‥‥重い、香りだ)
木や土、珈琲などニュアンスのある、甘い薫香が鼻腔に入る。
重く煙たいが、ネガティブな印象はない。
大きく吸ったあと、葉巻を灰皿に置く。火種はしっかりと残り、僅かに紫煙をたなびかせている。
「‥‥‥まずは、飲め」
「あ、はい」
差し出されたグラスを受け取り、口元に近づける。
葉巻の香りを凌駕するほどの甘い香りが漂う。
マロングラッセやバニラ、ミルク系統のニュアンスも感じる。
1口飲む。
(あぁ‥‥‥舌の上で溶けるような‥‥‥これほどまで濃い甘さは初めてだ‥‥‥だが、美味い‥‥‥)
香りと同じ甘さが口腔内に広がる。
マロングラッセ。それもメイプルシロップがまとわりつく極甘。そこにアーモンドの風味が絶妙に絡みつく。
余韻のカスタードとチョコレートの風味はどこまでも長く続く。
名前の通り、アルコールのドルチェ。
そんな印象を受ける。
濃厚な味に感動している中、詩音が先に口を開く。
「‥‥‥‥‥‥赤城。お前に協力してもらいたいことがある」
「‥‥‥協力?」
グラスをテーブルに置き、本題に入る。肘を抱くように腕を組み、片手を口元に当てる。
口元から、何かを悟られないように。
「‥‥‥ある人間に、復讐をしたい」
「復讐‥‥‥」
いつもの気怠げな雰囲気とは違い、地の底から響くかのような声色。
大きな声を出した訳でも、演技している訳でもない。淡々とした言葉であったが、眞にはそのように感じた。
「‥‥‥それを見ろ」
テーブルの上の手紙を示す。
眞は促されるまま、手紙を取り、中身を見る。
手紙は、とある製薬会社の不正の事実を克明に書き記したものであった。
しかし、それ以上に見逃せない単語が書かれていた。
『黒羽幹久』という名前の他、『琴音』という女性名と‥‥‥『詩音』の名が。
「‥‥‥これは‥‥‥まさか」
「ああ••••••父の、遺書だ」
◇
『琴音へ。
君がこの手紙を呼んでいる時、私は既に君の前から消えていることだろう。捜索は不要だ。この世にはいないはずだから。
最初に君に感謝をしたい。
私の妻となり、沢山の幸せを与えてくれて、本当にありがとう。
短い間だったが、君と詩音の3人で過ごした日々は、私の人生の中で最高の思い出だ。
そして、謝りたい。
こんな不甲斐ない男に付き合わせてしまって、本当に申し訳ない。
私には、耐えることが出来なかった。
しかし、君にだけは真実を伝えておきたい。
今回の事件について、私は不正に関与していない。
新薬のデータの捏造や臨床試験の指示や許可など出した覚えもない。
私は嵌められた、と言いたい。
だが、世間にはそんな言い訳は通用しない。
だからこそ、私は責任を取らざるを得ない。
だが、私には1つ心当たりがある。会社の立ち上げから付いてきてくれた研究員の1人。安西譲二。
彼が、今回の新薬開発の責任者だった。だが、彼はこの事実が公開される前に、他の製薬会社に引き抜かれていた。
この手紙を書く直前まで、その事実を知らなかったが。
私はこの手紙を書き終えたら、残した仕事に取り掛かる。私に面会したいという人間がいるらしい。それが、私の最期だろうな。
梶原君は既に解雇した。彼なら無事に逃げ延びる事が出来るだろう。優秀な部下を持てたことも、幸運だった。
最後に。
琴音。今でも君の事を愛しているよ。
そして、詩音の事を宜しく頼む。
2人が幸せに過ごせるよう、祈っている。
黒羽幹久』
◇
グラスの中身を1口飲み、詩音は語る。
「‥‥‥私の父は、黒羽製薬という新興の会社を経営していた。‥‥‥私が幼い頃の話だから、どうであったかは知らない。••••••だが、比較的裕福であった覚えはある」
「そこに書いてある通り••••••父、黒羽幹久が‥‥‥部下に裏切られた。‥‥‥そして、開発中だった新薬の臨床データを捏造したとして全責任を負うことになった‥‥‥人も、死んでいたからな」
「結果、父は死んだ。••••••表向きは自殺で片付けられたよ」
もう一口飲む。
甘い筈なのに、苦々しい表情を浮かべている。
「そして、母と私は逃げるように地方の街へ移り住んだ。‥‥‥そこから母は私を育てる為に必死になっていた。詳しいことは知らない‥‥‥ただ、朝方に帰って来ることは多かった。••••••後から知ったが、家族と縁の切れていた母は誰にも頼ることは出来なかったらしい‥‥‥」
「それでも私のことは愛してくれていたと思う。私もそんな母が好きだったさ‥‥‥だが、ある日の朝‥‥‥母は死んだ」
グラスの中身を飲み干す。
「疲労と‥‥‥心労が祟ったんだろうな」
「泣いて••••••泣き疲れた私は、母の遺品の中から偶然、古い手紙を見つけた。‥‥‥母の父親‥‥‥祖父だ」
「その祖父の連絡先が書いてあったから、私はそこに連絡をした‥‥‥どうにかして欲しかったんだろうな」
「祖父と名乗る男は直ぐに来たよ。••••••泣きじゃくる私を、静かに受け止めてくれた」
「母は‥‥‥私と祖父の2人に見送られた‥‥‥寂しい最期だったな」
グラスを置き、葉巻に持ち替える。
葉巻の火は消え、冷たくなりかけていた。
「祖父は私を引き取って育ててくれた‥‥‥無愛想な男だったが、私にこの仕事のいろはを叩き込んでくれた」
「その祖父が死んだ後、その手紙を見つけた‥‥‥祖父が、遺品の中に残されていたものを隠していたんだろう」
「私は両親の死の原因と、2人を死に追いやった人間がいる事を知った。••••••そして、決めたんだ‥‥‥」
冷たくなった葉巻に、火を点ける。
再び熱を持ち、先の赤くなった葉巻を吸い、白煙を吐く••••••深く、大きく、怨嗟の声を出すかの様に。
「―――復讐を。死ぬことすら生温い••••••地獄を見せてやる」
その言葉に、眞は寒気を覚えた。
‥‥‥生かしたまま、人を殺す。
矛盾した事。
だが、詩音にはそれが可能であると理解した。
「••••••手掛かりは研究員の名前と、部下の名前くらいだ」
「私は独自で調べたが、手掛かりを掴む事が出来なかった」
「‥‥‥私には無理だと、諦めるようになっていた」
だからこそ、常に無気力な雰囲気が漂っていた。自分の生活がおろそかになるほど。
‥‥‥生きながら死ぬ。
遠くない未来。詩音はそのようになっていた筈であった。
「‥‥‥だが、赤城。お前を雇い始めてから風向きが変わった」
祖父との約束。
それを抜きにしても、詩音には冷泉葉月を助ける気は無かった。
しかし、眞の決断により、僅かな希望を持つことが出来た。
ほんの小さな。希望。
それが心の中で燻っていた種火に反応し、大きくなりつつある感覚があった。
「冷泉家の後ろ盾がある今、再び仇を追うことが出来る」
「だからこそ、赤城。••••••お前には共犯者になってもらいたい」
「‥‥‥共犯者」
「ああ、私だけでは手が届かない••••••悔しいことだがな‥‥‥だが、信用に足る奴がいれば、復讐が叶うかもしれない。いや、必ず‥‥‥」
苦渋に満ちた表情。
手に持つ葉巻にも、力が入る。
「お前も、私と同じ‥‥‥誰かを憎んでいるだろう?」
「‥‥‥••••••何故、それを?」
誰にも言ったことが無い、眞だけの秘密。
「父親を許さない、と言っていたな」
「‥‥‥‥‥‥」
そこで気が付く。
昨晩、寝ている間に不覚を取った事を。
「どうなんだ?」
「‥‥‥はい。母を捨てた父親が、憎い‥‥‥そう、思っていました」
「思っていた‥‥‥?」
怪訝な表情で見つめる詩音に対し、乾いた微笑みを浮かべる。自然と視線が下がってしまう。
「はい‥‥‥黒羽さんと違って、俺は諦めていたんです‥‥‥見たこともない、手掛かりもない、確認することもできない‥‥‥それにもう何十年も前の事です」
顔を上げる。
詩音と同じ様に眞の中に存在していたものが、大きくなりつつあることを自覚していた。
「ですが、冷泉さんの依頼を受けてから思ったんです‥‥‥復讐すら満足に出来ない自分には何が出来るのだろうかと」
「この話を聞いていて思ったんです。私も、何かを見つける事が出来るんじゃないかと」
一息付く。
「黒羽さんが私と同じ様な境遇で、復讐を諦めていない‥‥‥それに手掛かりもある。なら••••••私は喜んで手を貸します。‥‥‥共犯者に‥‥‥なります」
眞は思う。
身の危険を考えて断る事も出来たが、それは出来なかった。
自分の中に何かを見たのだろう。それを信じて話してくれたのであれば、その期待には応えたい。
それに••••••
(何故だか分からないが••••••この人を放っておけない••••••)
漠然とした何かが、眞を動かしていた。
「‥‥‥そうか」
眞の答えに満足した詩音は、再び葉巻を吹かす。
先程よりも大きく、長く吐く。
詩音が吸い終わったあと、その葉巻の吸口を眞に向け、差し出す。
‥‥‥握手の代わりだ。
「なら、今日から遠慮はいらん。私のことは好きに呼べ‥‥‥私も眞と呼ぶ」
「では‥‥‥詩音さん、宜しくお願いします」
詩音から葉巻を受け取り、深く吸う。
••••••何年振りだろうか。
僅かな湿り気とともに。木と土、カカオや深煎りの珈琲。そこにスパイスの風味が見え隠れする。
軽いような重いような不思議な感覚。
しかし、眞にとっては蠱惑的な味であった。
(‥‥‥‥‥‥忘れられそうにないな、この味は)
葉巻と酒の名前を記憶に刻む。
詩音とともに、再びこの味を愉しむ為に。
グラスに酒をつぎながら、詩音は言葉を続ける。
「••••••報酬についてだが」
「報酬‥‥‥ですか?」
意外な言葉に眞は驚く。
何故ならそんな事は考えもしていなかったから。
「ああ。私の個人的な事に巻き込む訳だからな‥‥‥‥‥‥一応考えておく‥‥‥また、いつか話す」
「‥‥‥分かりました」
難しい顔をする詩音。
彼女が何を考えているのかは分からないが、その“いつか“を待つことにした。
(雇って貰っている訳だから‥‥‥別に、いらないんだがなあ‥‥‥)
変なところで真面目だなと思いつつ、手に持つ葉巻と酒に思いを馳せることにした。




