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嘘が色で見える地味司書の私が、唯一嘘をつけない無色透明な声を持つ人気ミステリー作家様と出会って、呪われた人生が彩られ始めました  作者: 久遠翠


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第9話「静かなる一歩」

 私が蓮に対して意識的に壁を作ってから、数日が過ぎた。図書館の空気は、どこかぎこちなく、重たいものになっていた。蓮は私の態度について、何も問い詰めてはこなかった。ただ、毎日変わらず図書館に通い、静かに自分の作業を続けている。その沈黙が、かえって私を苦しめた。

 彼は、私の心の揺れに気づいているはずだ。それでも、無理にこじ開けようとはしない。まるで、怯えた小動物が自分から穴を出てくるのを、辛抱強く待っているかのようだった。彼のその距離感が、ありがたくもあり、もどかしくもあった。

 その日も、私はカウンター業務をこなしながら、心の隅でずっと彼のことを考えていた。母との電話以来、私の心はすっかりささくれ立ってしまっている。もう一度、あの色のない声に触れたい。でも、触れたら最後、また期待してしまうのが怖い。そんな矛盾した感情の中で、私は立ち往生していた。

 閉館時間が近づき、利用客もまばらになった頃。蓮が席を立ち、私のカウンターへ向かってきた。私は身構える。ついに、何か言われるのだろうか。しかし、彼が差し出してきたのは、分厚い紙の束だった。

 それは、製本される前の、ゲラ刷りだった。


「水森さん」


 彼は、少しだけ緊張した面持ちで口を開いた。


「まだ誰にも見せていない、書き上げたばかりの新作です。もし、迷惑でなければ……一番に、読んでほしくて」


 彼の言葉は、もちろん無色透明だった。

 そこには、何の計算も、下心も、駆け引きもなかった。ただ純粋に、「君に読んでほしい」という信頼だけが、まっすぐな音となって私の鼓膜を震わせた。

 一番に、読んでほしい。

 その言葉の重みに、私は息をのんだ。作家にとって、書き上げたばかりの原稿は、まだ皮膚のない、むき出しの魂のようなものだろう。それを、編集者でも誰でもなく、私に一番に差し出すという。

 それは、彼が私にできる、最大限の信頼の証だった。

 私のよそよそしい態度への答えが、これなのだろうか。彼は言葉で私を問い詰める代わりに、自身の作品を差し出すことで、静かに一歩を踏み出してくれたのだ。あなたを信じている、と。


「……いいんですか? 私が、最初に」


 震える声で尋ねると、彼はこくりとうなずいた。


「君に、読んでほしいんです」


 その声も、やはり透明だった。

 私の心の奥で、高く厚く塗り固めたはずの壁に、大きな亀裂が入る音がした。彼の不器用で、けれどあまりにも誠実な優しさが、私の頑なな心を少しずつ溶かしていく。


「……ありがとうございます。読ませて、いただきます」


 私は、まるで大切な宝物を受け取るように、そのゲラ刷りを両手で受け取った。ずっしりとした紙の重みが、彼の信頼の重さのように感じられた。

 彼が図書館を去った後も、私はしばらくその原稿の束を抱きしめていた。涙が、わけもなく滲んでくる。

 人を信じるのが怖い。でも、この人だけは、信じてみたい。

 蓮が踏み出してくれた静かなる一歩は、私が再び彼の方へ顔を向けるための、大きな、大きな勇気となった。その夜、私は自宅の灯りの下で、彼の魂が込められた物語の最初のページを、震える指でめくった。

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