表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘が色で見える地味司書の私が、唯一嘘をつけない無色透明な声を持つ人気ミステリー作家様と出会って、呪われた人生が彩られ始めました  作者: 久遠翠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/21

第8話「心の壁」

 蓮との交流が深まるにつれて、私の心は奇妙な二律背反に揺れていた。

 彼といる時の安心感は、紛れもなく本物だった。彼の色のない声は、私の荒れ狂う色彩の世界における、唯一の凪いだ港のようだった。彼が隣にいるだけで、周囲の嘘の色が少しだけ遠のき、呼吸が楽になる。このまま彼に心を預けてしまいたい。そう思う自分と、人を信じることへの根深い恐怖が、常にせめぎ合っていた。

 そんなある日の夜、実家の母親から電話がかかってきた。画面に表示された「母」という文字に、私の心は無意識に身構える。


「詩織? 元気にしてる? ちゃんとご飯食べてるの?」


 母の声は、一見すると心配の色に満ちているように聞こえる。しかし、私の耳には、その奥に潜む淡いピンク色の嘘がはっきりと見えていた。それは、世間体を気にする見栄の色。娘がきちんと自立しているか、ご近所に恥ずかしくない生活を送っているか、それを確認したいだけの、自己満足の色だった。


「うん、元気だよ。ちゃんと食べてる」


 私は感情を殺して答える。


「そう。それならいいんだけど。そういえばね、田中さんのところの娘さん、結婚するんですって。相手は銀行員さんで、立派な方らしいわよ。あなたももう27でしょう? 少しは将来のこと、考えないと」


 始まった。いつものお説教だ。母の声は、「あなたのためを思って」という体裁を装った、美しい藤色に染まっていた。しかし、その本質は「早く結婚して私を安心させてほしい」という、支配欲と不安が混じった、くすんだ色合いだった。悪意はない。だからこそ、厄介なのだ。母は本気で、これが娘のためだと信じ込んでいる。その無自覚な嘘が、私には何よりも苦痛だった。


「……今は、仕事が楽しいから」

「仕事ばっかりじゃダメよ。女の幸せはね……」


 私はそれ以上、聞いていることができなかった。


「ごめん、もう切るね。おやすみ」


 一方的に電話を切り、ソファに倒れ込む。どっと疲労感が押し寄せてきた。母は、私を愛していないわけではない。ただ、その愛情表現が、私にとっては常に偽りの色を帯びて聞こえてしまう。それが悲しくて、虚しかった。

 血の繋がった親でさえ、こうなのだ。

 だったら、赤の他人である蓮が、いつまでも透明でいてくれる保証などどこにあるのだろう。

『どうせこの人もいつか、私に嘘をつくようになる』

 心の奥底から、黒い疑念が鎌首をもたげる。彼が私に好意を向ければ向けるほど、その疑念は濃くなっていく。いつか、彼も私を喜ばせるため、あるいは傷つけないため、優しい色の嘘をつくようになるのではないか。その時、私はきっと絶望するだろう。唯一の安息所を失う恐怖が、私を支配した。

 翌日、図書館で蓮に会った時、私は無意識に彼と距離を置いていた。


「水森さん、おはようございます」


 彼がいつものように声をかけてくれても、「おはようございます」と短く返すだけ。彼が何か話したそうにしていても、私は「すみません、少し急ぎの仕事が」と、わざとらしく書類の山に視線を落とした。

 私のよそよそしい態度に、彼は気づいているはずだった。しかし、彼は何も言わず、ただ静かにいつもの席へと向かっていった。彼の戸惑いが、声にはならずとも、その背中から伝わってくるようだった。

 ごめんなさい。心の中で謝る。

 でも、これ以上あなたに近づくのが怖い。あなたを信じ切ってしまうのが怖い。あなたがいなくなった時のことを考えると、息ができなくなる。

 私は、自分の手で再び心の壁を高く厚く塗り固めていた。蓮の透明な声が届かないように。彼がくれる安心感に、これ以上依存してしまわないように。

 傷つくことから逃げるため、私は最も大切な光から目を逸らそうとしていた。窓際の席で静かに本を読む彼の横顔を、私は盗み見ることすらできずにいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ