第6話「彼の世界の『真実』」
カフェでの会話をきっかけに、蓮と私の間には、以前よりも少しだけ打ち解けた空気が流れるようになった。彼は相変わらず毎日図書館に通い、私はカウンターから彼の姿を見守る。時折、彼が探し物について質問しに来たり、私が専門的な資料を提案したりと、自然な交流が生まれていた。
彼の声を聞くたびに、私はその透明さに安堵し、同時に一つの疑問が心を離れなかった。なぜ彼は、嘘がつけないのだろう。
その疑問は、日増しに大きくなっていく。彼の小説は、人間の嘘をあれほど冷徹に描き出す。それは、嘘というものを客観的に、あるいは突き放して見ているからではないのか。だとしたら、彼自身が嘘をつけない(あるいは、つかない)のは、なぜなのか。
ある日、返却された本について話している時、私は意を決して、その核心に触れるような質問をしてみた。会話の流れは、ごく自然だった。
「海道先生の作品を読んでいると、本当に嘘というものがお嫌いなんだな、と感じます」
私は、探るような気持ちでそう言った。彼の反応をうかがう。彼は少しの間、遠くの書架に視線をやったまま、黙り込んでいた。何かを思い出しているような、あるいは、言葉を選んでいるような沈黙だった。
やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。
「嫌い、というより……」
彼の声が、ほんの少しだけ揺れた。私が今まで聞いたことのない、微かな変化だった。それは「色」ではない。音そのものが持つ「音色」の変化。チェロの弦が、悲しい旋律を奏でる前の一瞬の震えのようだった。
「……つけないんです。つけなくなった、と言うべきでしょうか」
つけなくなった。
その言葉は、彼の過去に何か決定的な出来事があったことを示唆していた。先天的なものではなく、後天的に、彼は「嘘をつけない」人間になったのだ。
彼の声に滲んだのは、悲しみだろうか。それとも後悔だろうか。声に色がないから、私には断定できない。だが、その音色の変化は、どんな色のついた声よりも雄弁に、彼の心の深い部分にある傷の存在を物語っていた。
私はそれ以上、何も聞くことができなかった。彼の表情は普段と変わらないように見えたが、その瞳の奥には、私が踏み込んではいけない深い影が落ちているのを感じたからだ。
「そうですか」
そう答えるのが精一杯だった。
彼は私の反応を気にしたのか、少しだけ困ったように微笑むと、「すみません、変な話をして」と付け加えた。その声は、もういつもの無色透明な音に戻っていた。
しかし、私の中には、彼の声が残した微かな震えが、さざ波のように広がり続けていた。
彼はなぜ、嘘を「つけなく」なったのか。
その理由を知りたい、と強く思った。それは単なる好奇心ではなかった。彼の透明な声に救われている私が、彼の抱える影の部分に触れたいと思うのは、自然な感情なのかもしれない。彼の純粋さの根源にあるであろう、その悲しい過去を理解したい。そして、もしできることなら、その痛みを少しでも分かち合いたい。
そう願っている自分に気づき、私は戸惑った。
人間不信のはずの私が、人を信じることをあれほど恐れていた私が、一人の人間の内面にこれほど強く惹かれている。
彼の声には色がない。だから、彼が語ることはすべて真実だ。しかし、彼が語らないことの中にもまた、隠された「真実」がある。私はその日、彼の世界の本当の「真実」に触れるためには、彼の言葉だけではなく、彼の沈黙にも耳を傾けなければならないのだと、初めて理解した。そしてそれは、私の呪われた能力では決して読み取ることのできない、心の領域だった。




