表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
嘘が色で見える地味司書の私が、唯一嘘をつけない無色透明な声を持つ人気ミステリー作家様と出会って、呪われた人生が彩られ始めました  作者: 久遠翠


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/21

第5話「カフェと色の洪水」

 図書館の重い扉を開けて外に出ると、夕暮れの喧騒が私を待ち構えていた。閉館後の静寂に慣れた耳には、車の走行音や人々のざわめきが鋭く突き刺さる。そして、それ以上に私を消耗させるのが、街にあふれる声の「色」だった。

「今から飲みに行かない?」という楽しげな誘いの言葉は期待のオレンジ色に染まり、「ごめん、今日は残業で……」という言い訳は罪悪感の滲む薄紫色になる。あらゆる声が、様々な感情と嘘の色を伴って、私の脳内に無差別に流れ込んでくる。情報量の多さに、少しだけ気分が悪くなるのを感じた。


「こちらです」


 すぐ隣から聞こえた声だけが、その濁流の中で唯一、汚染されていない純粋な音だった。蓮が指し示したのは、駅前の路地裏にひっそりとたたずむ、古民家を改装したような小さなカフェだった。

 店内に入ると、コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。しかし、ここもまた、色の洪水からは逃れられない場所だった。

「ご注文はお決まりですか?」という店員の声には、マニュアル通りの笑顔に隠れた疲労の鉛色が混じっている。「このケーキ、すごく美味しいね」と隣の席で話すカップルの女性の声は、本心からの感想に、「彼に気に入られたい」という計算の淡いピンク色が混じっていた。

 そのすべてにうんざりしながら、私はメニューに視線を落とした。向かいの席に座る蓮は、そんな私の内心を知る由もなく、静かに店内を見渡している。


「ここのコーヒーは、豆の種類が豊富なんです」


 彼の声が、私の周りに見えないシールドを張ってくれるような気がした。彼の声だけが、この色の洪水の中における唯一の安全地帯だった。それだけが、私の神経を逆なでしない、穏やかな音。

 コーヒーが運ばれてきて、私たちはしばらく無言でカップを傾けた。沈黙が苦にならない相手は、彼が初めてかもしれない。

 やがて、彼がぽつりぽつりと自身の仕事について語り始めた。


「いつも、図書館にはお世話になっています。静かで、集中できるので」

「そう言っていただけると、嬉しいです」

「小説を書くという作業は、孤独なので。人の気配がありながら、静寂が保たれている。図書館は、理想的な場所です」


 彼の言葉は、やはり無色透明だった。ただ事実を述べているだけなのに、その言葉には不思議な説得力があった。

 私は、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。


「海道先生の作品は、人間の心理、特に嘘がテーマになることが多いですよね」

「ええ、そうですね」

「なぜ、そこまで『嘘』にこだわるんですか?」


 私の問いに、彼は少し考えるように視線をさまよわせた。そして、真っ直ぐに私を見つめて答える。


「嘘が物語を大きくゆがませる、その瞬間を描きたいんです。たった一つの嘘が、人間関係を破壊し、信頼を裏切り、取り返しのつかない悲劇を生む。その過程を、徹底的に掘り下げてみたい。嘘が持つ、その強大なエネルギーの正体を知りたいのかもしれません」


 彼の言葉は、ナイフのように私の胸に突き刺さった。

 嘘が、物語をゆがませる。

 まさに、私の人生そのものだった。嘘のせいで、私の世界は歪み、人との関係はねじ曲げられてきた。嘘の「色」が見えることで、私は誰の言葉も素直に受け取れず、物語の登場人物のように、孤独な道を歩まされている。

 彼はフィクションの世界で、私は現実の世界で、同じ「嘘」というテーマに囚われている。そう思った瞬間、彼に対して、ただの興味ではない、もっと深い共感のような感情が芽生えていることに気づいた。


「……わかる、気がします」


 思わず、そうつぶやいていた。彼は意外そうな顔で私を見る。


「嘘は、人を孤独にしますから」


 そう付け加えた私の声に、どんな色が乗っていただろうか。自分では確かめるすべがない。ただ、彼を見つめる私の瞳には、きっと初めて、確かな感情の色が浮かんでいたに違いない。

 カフェの中の色の洪水は、相変わらず私の感覚を刺激していたが、もはやそれほど苦痛には感じられなかった。目の前に、たった一つの、信じられる音がある。それだけで、世界は少しだけ耐えられるものになる気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ