第5話「カフェと色の洪水」
図書館の重い扉を開けて外に出ると、夕暮れの喧騒が私を待ち構えていた。閉館後の静寂に慣れた耳には、車の走行音や人々のざわめきが鋭く突き刺さる。そして、それ以上に私を消耗させるのが、街にあふれる声の「色」だった。
「今から飲みに行かない?」という楽しげな誘いの言葉は期待のオレンジ色に染まり、「ごめん、今日は残業で……」という言い訳は罪悪感の滲む薄紫色になる。あらゆる声が、様々な感情と嘘の色を伴って、私の脳内に無差別に流れ込んでくる。情報量の多さに、少しだけ気分が悪くなるのを感じた。
「こちらです」
すぐ隣から聞こえた声だけが、その濁流の中で唯一、汚染されていない純粋な音だった。蓮が指し示したのは、駅前の路地裏にひっそりとたたずむ、古民家を改装したような小さなカフェだった。
店内に入ると、コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。しかし、ここもまた、色の洪水からは逃れられない場所だった。
「ご注文はお決まりですか?」という店員の声には、マニュアル通りの笑顔に隠れた疲労の鉛色が混じっている。「このケーキ、すごく美味しいね」と隣の席で話すカップルの女性の声は、本心からの感想に、「彼に気に入られたい」という計算の淡いピンク色が混じっていた。
そのすべてにうんざりしながら、私はメニューに視線を落とした。向かいの席に座る蓮は、そんな私の内心を知る由もなく、静かに店内を見渡している。
「ここのコーヒーは、豆の種類が豊富なんです」
彼の声が、私の周りに見えないシールドを張ってくれるような気がした。彼の声だけが、この色の洪水の中における唯一の安全地帯だった。それだけが、私の神経を逆なでしない、穏やかな音。
コーヒーが運ばれてきて、私たちはしばらく無言でカップを傾けた。沈黙が苦にならない相手は、彼が初めてかもしれない。
やがて、彼がぽつりぽつりと自身の仕事について語り始めた。
「いつも、図書館にはお世話になっています。静かで、集中できるので」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
「小説を書くという作業は、孤独なので。人の気配がありながら、静寂が保たれている。図書館は、理想的な場所です」
彼の言葉は、やはり無色透明だった。ただ事実を述べているだけなのに、その言葉には不思議な説得力があった。
私は、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「海道先生の作品は、人間の心理、特に嘘がテーマになることが多いですよね」
「ええ、そうですね」
「なぜ、そこまで『嘘』にこだわるんですか?」
私の問いに、彼は少し考えるように視線をさまよわせた。そして、真っ直ぐに私を見つめて答える。
「嘘が物語を大きくゆがませる、その瞬間を描きたいんです。たった一つの嘘が、人間関係を破壊し、信頼を裏切り、取り返しのつかない悲劇を生む。その過程を、徹底的に掘り下げてみたい。嘘が持つ、その強大なエネルギーの正体を知りたいのかもしれません」
彼の言葉は、ナイフのように私の胸に突き刺さった。
嘘が、物語をゆがませる。
まさに、私の人生そのものだった。嘘のせいで、私の世界は歪み、人との関係はねじ曲げられてきた。嘘の「色」が見えることで、私は誰の言葉も素直に受け取れず、物語の登場人物のように、孤独な道を歩まされている。
彼はフィクションの世界で、私は現実の世界で、同じ「嘘」というテーマに囚われている。そう思った瞬間、彼に対して、ただの興味ではない、もっと深い共感のような感情が芽生えていることに気づいた。
「……わかる、気がします」
思わず、そうつぶやいていた。彼は意外そうな顔で私を見る。
「嘘は、人を孤独にしますから」
そう付け加えた私の声に、どんな色が乗っていただろうか。自分では確かめるすべがない。ただ、彼を見つめる私の瞳には、きっと初めて、確かな感情の色が浮かんでいたに違いない。
カフェの中の色の洪水は、相変わらず私の感覚を刺激していたが、もはやそれほど苦痛には感じられなかった。目の前に、たった一つの、信じられる音がある。それだけで、世界は少しだけ耐えられるものになる気がした。




