第3話「図書館の定位置」
海道蓮は、その日から宣言通り、毎日のように図書館へ通うようになった。
開館してしばらくするとやってきて、閉館間際に帰っていく。彼の定位置は、窓際の閲覧席の一番奥。午後の柔らかい光が埃を金色に照らすその場所で、彼はいつも山のように積み上げた資料を、驚くほどの集中力で読みふけっていた。
ベストセラー作家という派手な肩書とは裏腹に、彼のたたずまいはむしろ地味なほど静かで、図書館の空気に完全に溶け込んでいる。時折、他の利用者から話しかけられても、彼が発する短い言葉は、いつだって無色透明だった。
どんな些細な言葉も、感情の揺らぎが乗らない純粋な音。私はカウンターの中から、彼の姿を観察することが日課になっていた。彼の存在は、私の世界における唯一のバグであり、同時に、目が離せない特異点でもあった。
私の能力が狂ってしまったのではないか、という疑念は日に日に強くなる。あるいは、彼は人間ではない何かなのかもしれない。そんな非現実的なことまで考えてしまうほど、彼の存在は私の常識からかけ離れていた。
声の色が見えるようになってから、私は真実と嘘の境界線で生きてきた。人の言葉を額面通りに受け取れず、常にその裏に隠された「色」を探ってしまう。そんな私にとって、蓮の声はあまりに純粋で、まぶしすぎた。彼の前では、私の長年の経験則が一切役に立たない。それは、一種の恐怖でもあった。
ある日の午後、蓮がいつものように資料を返却しに来た。数十冊の本をカウンターに積み上げる。私が黙って一冊ずつバーコードを読み取る。その時、一冊の本から小さな付箋がはらりと落ちた。拾い上げると、そこには彼のものと思われる、整ってはいるがどこか無機質な文字が並んでいた。
『この時代の警察の捜査資料について、詳しい方はいませんか?』
おそらく、彼が作業中に書き留めた独り言のようなものだろう。普段の私なら、気づかなかったふりをしてそのまま処分していたはずだ。人と余計な関わりを持つことは、面倒の種にしかならない。
けれど、そのメモを見た瞬間、司書としての専門知識が、にわかに頭をもたげた。昭和期の警察制度、科学捜査の黎明期──頭の中に、関連書籍のタイトルと配架場所が次々と浮かんでくる。
気づけば、私はバックヤードの書庫へと向かっていた。彼の作品のリアリティを支える一助になれば、という純粋な知的好奇心。いや、それだけではない。色のない声を持つ彼に、ほんの少しだけ近づいてみたいという、自分でも気づかない小さな欲求があったのかもしれない。
私は、該当すると思われる専門書や郷土資料を数冊選び出し、それらのタイトルと請求記号を記したメモを作成した。そして、彼の席に誰もいないのを見計らって、そのメモを彼の机の上にそっと置いた。
心臓が少しだけ速く脈打っていた。余計なことをしてしまっただろうか。もし彼がこれを迷惑に感じたら、彼の声に初めて不快の色が混じるかもしれない。それを確かめるのが怖かった。
自分の席に戻り、カウンター業務を再開する。窓際の席に座る彼の姿が、やけに気になった。やがて彼は机の上のメモに気づき、手に取る。そして、その紙片をしばらく見つめた後、ふと、こちらのカウンターの方へ視線を向けた。
目が合った気がして、私は慌てて視線を逸らした。顔が少し熱くなるのを感じながら、私はただ、書架の整理をするふりを続けることしかできなかった。




