第9話 怪談
昼食を食べ終えてからしばらくして、藤次が約束通りに神田相生町の湯を訪れてきた。
「親分、お待ちしていました」
「おう輝斗か。待っていてくれたようだな。今日は店を開けているようでなにより。昨日みたいなのは勘弁してもらいてえぜ」
湯屋にも臨時休業がある。たとえば風が強い日は幕府から休業命令が下される。
昨日の神田相生町の湯はそういった自然現象での休みではなかった。なんと男湯の湯船で粗相をした輩が出たということで、清掃のために急遽お休みとなってしまったのだ。汚物が浮かんだ浴槽で営業できるはずがない。現代の公衆浴場でも似たような話があるが、とんだ大迷惑である。
「徳兵衛、ちょっくら輝斗を借りていくぜ」
「どうぞ。岡っ引きの仕事を教えてあげてください」
藤次と輝斗が外へ出ると、後ろからお咲が追いかけてきた。
「親分、私も行きます。この人、小さい子同然だから、誰かが付いていないと危なっかしくて」
「なんでい、お咲ちゃんも幼子の世話に興味が出てきたか? お望みなら見合い話をいくらでも持ってくるぜ?」
「まだ要りません」
「相変わらずだねぇ。説教はおっ母さんに任せるとして、今日はこの後に踊りの稽古があるんじゃなかったっけか?」
「師匠が風邪をひいたらしく、お休みになりました」
「そうか、なら一緒に付いてきてくれ」
三人で北の方へ歩き出した。
「話の前に、これを輝斗に渡しておくぜ。昨日、人殺しを捕まえたってことで御手当銭を頂けた。こいつは輝斗の分だ。御検視の前に落着していて、八丁堀の旦那も手間が省けたとお喜びだった」
岡っ引きは基本的に犯人を捕まえたりはしない。それは与力・同心の仕事で、岡っ引きの仕事は同心の指示を受けての調査が本分である。ただし、昨日の件みたいに先んじて捕まえたとなると、叱られるのではなく逆にお褒めの言葉がもらえるのだ。
「灰買の与介だが、ありゃあ死罪は免れられないだろうな。罪を輝斗になすりつけようとしたってことで、お上の御慈悲なんてありえねえし」
「人を殺したら、よっぽどのことがない限り死刑なんですよね?」
「お上も無闇矢鱈に罪人を殺したいってわけじゃねえが、此度の件は情状を汲む余地がねえ。酒や傾城買(女郎買い)で作った借金を返すためだったらしいからな。しかも、銀三の懐から盗んだ金が二十両(百六十万円)だった。十両(八十万円)盗めば死刑なわけだから、もうどうにもならねえ」
「銀三さん、博打で大勝ちでもしたんでしょうかね。そんな大金を持っているなんて」
「金の出所は分からねえが、それで殺されちまったんだから運のねえ話だ」
藤次がやれやれと首を振った。
「話を変えるぜ。今から向かうのは神田松下町(東京都千代田区)だ。着くまで真夏らしく怪談をするぞ」
「イヤですよ。こんな昼間から怪談だなんて」
お咲が眉をひそめる。
「一緒に来るなら聞いてもらわなきゃならねえ」
彼女の抗議を無視して、親分は話を始めた。
今から十五日前、神田松下町周辺で真夜中にノコギリを挽くような音が聞こえてきた。真夜中にそんな音が聞こえてくるのは珍しい。泥棒か何かが悪さをしているのではないかと自身番が判断し、近所の見回りを実施したが、ほどなく音が止んでしまった。念のために見回りを継続したものの、結局異常が見つからなかった。
町内の誰かが夜にノコギリを使ったのだろうと捨て置くことになったが、翌日の深夜にもまたノコギリの音が聞こえてきた。二日続けてとなると、さすがに放置はできない。自身番だけではなく町の男たちも幾人か出て、夜中に音を鳴らす不届き者を探すことになった。
その音はまたもやすぐに止んでしまったが、地本問屋「文湧堂」から聞こえてきていたようだと突き止められた。主人の善左衛門は町の男たちが押しかけてきたことに驚き、奉公人たちに店の中を調べるように言い渡す。しかし、ノコギリを使った者や形跡は全く見当たらなかった。
この不思議な話は噂として広まる。はたして正体は人間なのか、それとも物の怪の類いなのか。「ノコギリを持った男がうろついているのを見かけた」だの「ノコギリが宙を舞っていた」だの、さも本当に目撃したかのように言い振らす輩まで現れて、噂話に尾ひれがどんどん付いていった。
町の方では夜の巡回を強化することにする。すると、翌日から全くノコギリの音が聞こえなくなり、町の者も安心して警戒を緩め始めた。
しかし、一昨日の深夜のこと。久しぶりにノコギリの音が町に響き渡る。音の発生源を探すと、やはり文湧堂の方からであった。文湧堂でも警戒はしていたので、町の者が駆けつける前に奉公人たちが調べ始めていた。だが、やはり何の異常も認められなかったのである。
「……誰かのいたずらですよね」
話を聞き終わって、輝斗は素直に感想を述べた。
「私もいたずらだと思います」
お咲も賛同する。
「俺もそう思う」
藤次もアッサリ認めた。
「しかしだな、お化けノコギリの噂が八丁堀の旦那まで届いちまって、調べるように命じられちまったんだ」
「こんなくだらない話を調べなきゃならないなんて、町奉行所も大変なんですね。オレだったら聞かなかった振りをしたくなります」
「残念ながら八丁堀の旦那は聞き捨てることをできねえ。そんなわけで、徳兵衛に調べさせようと昨日神田相生町へ行ったら、銀三殺しの騒ぎで怪談話どころじゃなかった。取りかかるのは一日遅れちまったが、何だかんだでお前さんを拾える幸運に恵まれた。新米子分に物を教えるってことで今日から調べ始めるぞ」
「はい。頑張って仕事を覚えます」
神田松下町と神田相生町はすぐ近くだ。まもなく目的地に到着した。
「おや? 店が閉まっているな。どうかしたのか?」
藤次が不思議そうに首を傾げた。
戸を叩くと、三十歳前後くらいの男が顔を出した。江戸時代の男性の平均くらいの背丈で痩身。少し疲れているような表情をしている。
「正助さん、久しぶりだな。今日はお休みかい?」
この正助は文湧堂の番頭だと、藤次が輝斗たちに紹介した。
「これは下谷の親分。ご無沙汰しております。ごらんの通り、今日は休みにございます」
「何かあったのか?」
「ちょうど親分のところまでご相談に行こうかと話し合っていたところでして……」
ここで、正助が声をひそめた。
「ご内密にお願いします。実はうちの旦那が昨夜から行方が分からなくなっております」