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第8話 天ぷら屋台での騒動

「しんどいなこりゃ……」


 汗を拭いながら、輝斗が呟いた。


 木拾いとはその名の通り、江戸の町に落ちている木を拾う仕事だ。湯屋では朝から晩まで火を使い続ける。これを購入した薪で全てまかなうとなるとコストがかかる。だから、無料の木を奉公人に集めさせて、少しでも経費削減に努めているのだ。


 現代人の感覚からすると買った方が安くて手軽だと思うのだが、江戸時代では人件費が安いのでこのような仕事があるのだろう。


「輝斗兄ぃ、こっちに大きい木があるから手伝ってくれ」


 神田相生町の湯の奉公人、幸吉が輝斗を呼んだ。十四歳の少年で、まだ幼い顔立ちをしている。体つきは細いが、全身に引き締まった筋肉をまとっていて、実際に輝斗よりも力が強い。


 輝斗は呼ばれた方向へ向かっていく。二人は店の近所の川岸で木を集めているのだ。


「ずいぶんと立派な材木だな。上流に普請現場でもあるのか?」


「昨日の雨で流されちゃったんだろ。ありがてえぜ。兄ぃ、端っこを押さえといてくれ。おいらが川から引き上げる」


 二人は協力し合って木を岸に引き上げた。


「これって持ち帰っていいのか? 届けるべきなんじゃ?」


「今まで探しに来てねえってことは、別に要らねえってことだろうさ。おいら一人じゃ持って帰れねえから、兄ぃも一緒に抱えてくれ」


「待て待て。オレの力じゃ無理だ。途中で落としちゃうって」


「男なのに情けねえなあ」


「こんな重い物を持ったことないんだよ。無理無理無理」


 既に何度か木を担いで湯屋まで往復していて、輝斗の両腕は悲鳴を上げている。


「無理とか言いながら、兄ぃは全然汗かいていないじゃねえか。本気を出してねえだろ?」


「江戸の夏が涼しいだけであって、体は疲れているってば」


「……涼しいってふざけたことを言っちゃいけねえぜ」


 輝斗も多少は汗をかいているが、着物の色が変わるくらいに全身汗まみれの幸吉とくらべたら全然少ない。


 今は一年で最も暑い時期だ。しかし、産業革命が欧米で始まったばかりの時代の気温だから輝斗にとってはどうってことない。午前中の今の気温は、輝斗の体感だが摂氏二十五度を下回っているだろう。二十一世紀の関東地方平野部の夏では、深夜早朝でも二十五度より上なのが当たり前だ。


 しかも、江戸の町には強い風が吹く。臨海部の高層ビル群が風を遮っている現代と違い、江戸湾の海風が吹き続けているのだ。さらに、江戸の町は水路がいたるところまで張り巡らされているので、心地よい川風もある。


 輝斗にとっては春か秋の気候同然なのである。


「汗の話はさておき、おいらはこの木は持ち帰りてえ」


「斧かノコギリで小さくしてから運ぼうぜ」


「そうだな。いったん戻って道具を持ってくるべえ」


 材木を持って行くのは保留にして、先に集めていた細かい木々を運ぶことにした。昨晩の雨で道がぬかるんでしまっているので、どうにも歩きにくいが、輝斗は足腰に力を入れて踏ん張る。


「そろそろ女湯が始まるから、あんまりモタモタしてられねえぜ」


「なあ幸吉、どうして女湯が開くのは男湯よりも遅いんだ?」


「そりゃあ、江戸の女の朝は忙しいから、湯屋なんかに来れねえからだぜ。朝から来るのは夜に働いている芸子とか料理屋の娘くらいだ」


「へえ、そうなんだ」


「あと女湯に来るとすれば、八丁堀の旦那方だな」


「――八丁堀の旦那って女なのか?」


「べらぼうなことを言っちゃいけねえ。女が組屋敷を拝領できるわけがねえよ」


「じゃあ、なんで女湯に入るんだよ!」


「誰にも聞かせられねえ話をするのに、朝の女湯は都合いいからな」


「全く誰も来ないわけじゃないんだろ? もし女客が入ってきたらどうするんだよ?」


「そんときゃ一緒に入るだけさ。女の方も分かっているから悲鳴を上げたりはしねえぜ」


「うらやましい! なんだその特権は!」


「湯気だらけでろくに見えねえと思うけどな。輝斗兄ぃが女湯に入りてえなら、修業を積んで三助(浴場のサービス係)になるしかねえな。覗くだけでも構わねえのなら、湯屋の二階に上がるといいぜ。うちではやってねえけど、女湯を覗ける窓が二階に付いているところもあるから」


「江戸の町すげー!」


 銭湯が覗きのサービスを提供するなんて、現代日本では考えられないことだ。


「上からだと肝心なところは見えねえぞ。あと、女連中も覗かれているのを知っているのか、若い娘は窓の下に決して近づかねえ。湯気の中、大年増の白髪をながめて何が楽しいんだって話でい。だったら、庭で水浴びしている女を覗く方がよっぽどマシだ。おいらはどちらもやらねえけど」


「ずいぶんと冷静だな。オレがお前くらいの年頃だったらかぶりついているぞ」


「おいらは見るより触る方が好きなんだ。地女(江戸の女)はなかなか触らせてくれねえけどな」


 幸吉にもこだわりがあるらしい。


「話を戻して八丁堀の旦那だけど、うちの湯屋でも女湯に入るのか?」


「そりゃそうさ。子分の湯屋だからな。いくらなんでも、どこでも入れるわけじゃねえ」


「神田相生町の湯は徳兵衛さんの店だから、定町廻り同心も女湯に入れるってわけか」


「兄ぃは勘違いしているみたいだけど、うちの店は下谷の親分のものだぜ」


「え? どういうこと?」


「株を持っているのが親分なんだ」


 輝斗は少し考えてしまったが、すぐに思い当たる。現代の株式とは違って、店の経営権のことだ。


 二十一世紀風に言えば、藤次が店のオーナーで、徳兵衛が雇われ店長という形なのだろう。


 そんな話をしながら木っ端を運んでいると、ごま油の香ばしい匂いが鼻に届いてきた。匂いの元を探してみると、どうやら天ぷらの屋台から漂っているようだ。


 屋台の前では、四十代くらいの男性が天ぷらを立ち食いしている。シワ一つない羽織を身につけていて、屋台なんかで飲食するのが似合っていない立派な格好である。どこかの大店の旦那だろうか。


「そこの兄さん、天ぷらを食いたそうな顔をしていますね。揚げたての天ぷらが一本四文(八十円)でっせ」


 屋台の店員が輝斗に話しかけてくる。


「ごま油の匂いで小腹が減ってきた。幸吉、一緒に食べていかないか?」


「おいらは銭なんか持ってねえぞ」


「オレがおごるから食べようぜ。小麦粉でビタミン補充だ」


 昨日、藤次から小遣いとしてお金をもらっているから、輝斗は買い物が可能なのだ。


 屋台の中を覗いてみると、串に刺さった天ぷらが大きな皿の上に乗っている。


「今日の種はキスとアナゴ、あとはイワシ。お好きなのを取って下せえ」


 輝斗はアナゴ。幸吉はイワシを選んだ。


「兄ぃ、そのままかじるんじゃなくて、これを付けて食べるんだぜ」


 壺に入っている醤油の中に、幸吉が串を突っ込んだ。


(天つゆじゃなくて醤油かよ……。しかも、醤油に天かすがたくさん浮いているし)


 さすがにためらってしまう。


(それにしてもこの食べ方って、大阪名物の串カツっぽいな。ソース二度付け禁止とかいう)


 思い出しながら輝斗は覚悟を決め、天ぷらに醤油を付けて口に運んだ。


 まず唇と歯に当たるのは衣。かなり分厚い衣で、そこまでサクサクではないがアツアツだ。揚げたてという言葉に嘘偽りはなさそうである。


 かみしめると、ごま油の香りが鼻を抜けていく。その後、アナゴの弾力を感じたので一気にかみ切る。口内が火傷してしまいそうなくらいに種が熱い。魚の脂が口内に広がっていき、先のごま油と混じって旨味のハーモニーを奏でる。


「美味い! 醤油も天ぷらに合うし!」


 口をハフハフさせながら、輝斗が感想を述べる。魚と醤油の相性は最高だし、油と塩分の相性も抜群だ。天つゆでなくても十分に味を楽しめる。


 幸吉の方を見てみると、衣を地面にポロポロとこぼしながら天ぷらを頬張っている。


「どうしたんだ、兄ぃ? おいらの方を見て?」


「幸吉の食べ方が汚くてホッとしていた」


「ヤイヤイ、道端での立ち食いで折屈おりかがみ(礼儀作法)のことを細かく言うんじゃねえぞ」


「気を悪くしないでくれ。徳兵衛さん一家の食事の作法がやたらと立派だから、江戸の町人はみんなそうだと思っていたんだ。けど、やっぱり違うんだなって」


「ああ、そういうことか。噂だけど、おかみさんが御屋敷奉公上がりらしいから、その辺りがしっかりしているんだと思うぜ。旦那とお嬢さんはおかみさんに教わっているんだろうな」


「食事の時に窮屈なのは、武家風の礼儀作法だからなのか」


「あくまで噂だぜ。おかみさんのあの厚化粧を見て、武家と勘違いしているだけかもしれねえし」


「――お前、厚化粧呼ばわりは酷いだろ?」


「別に悪口じゃないやい。化粧を厚塗りしているのは上方生まれってことでい。江戸であそこまで白粉を塗ったくるのは武家か粋筋の女くらいだから、江戸っ子が勘違いしやすいって話だ」


「なるほど。化粧も東西で違うのか」


(現代日本でも関東はナチュラルメイクで、関西はバッチリメイクの傾向だと聞いたことがあるぞ。この時代で既に東西の好みが分かれているのか)


 そんなこと話している二人を、先に天ぷらを食べていた商家の旦那風の男が興味深そうに眺めている。


 その視線に気付きながらも、輝斗は幸吉との会話を続ける。


「一本だけじゃ物足りないから、もう少しもらおうかな。幸吉も食べるか?」


「天ぷらをたくさん食べると、腹を壊しちまうぞ」


「オレは油ものに強いから平気だ」


 欧米化した食生活を輝斗は小さい頃から送っていたのだ。油をあまり摂取しない江戸人とは違って慣れている。


 輝斗が二本目の天ぷらを手に取ったその時だ。彼と同世代くらいの男が屋台に近づいてきた。格好からすると、どこかの店で働いている商人のように見える。


「魚の練り物を揚げた天ぷらはおまへんか?」


 明らかな関西訛りで屋台の主人に話しかける。


「練り物は置いてねえです」


「やったら、しゃあないわ。これ一本もらおか」


 関西商人がイワシの天ぷらを手に取った。


「この醤油を付けて食べてくだせえ」


「――ほんまに江戸は醤油か砂糖の味ばっかりやな。たまらんわ」


 ため息をつきながらかじりついた。


「ヤイ、江戸に出てきておいて、江戸の悪口を言うなんてどういう了見でい?」


 幸吉が腕をまくりながら、関西商人に近づいていった。どうやら、彼の言葉が気に食わなかったようだ。


 輝斗が止める間もなく、幸吉は早口でまくし立てる。


「上方の味がどんなもんか分からねえが、ずいぶんとお高くとまっているじゃねえか。だが、ここは江戸だ。郷に入っては郷に従えって言葉を知らねえのか?」


 関西商人は軽く面食らっていたが、気を取り直したのかすぐに反論する。


「いきなりなんやねん、このぼんは。魚も青物もうどんも何もかもが同じ味しかせえへんのを、文句言うただけや」


「上方者の貧乏舌には、ほとほと呆れるぜ。地廻り醤油(江戸近郊で生産される醤油)の味が分からないで威張るとはとんだお笑いぐさだ」


「貧乏舌なのは江戸者や! どれもこれも同じ味にしよって。そのくせ、酒や菓子は下りもの(京阪地方で生産されたもの)をありがたがってるんやさかい、始末に負われへん」


「上方が偉いって抜かすってか? ろくな本を書けねえから江戸の版木を買いあさっている上方者があんまりふざけたことを口にするなら甘茶を嘗めさせるぞ(酷い目に遭わせるぞ)!」


「東都だの江都だの名乗って威張ってる江戸の連中やけど、結局は京の都に憧れているだけやん! よう聞きなはれ。京・大坂を上方って呼んで、上方から江戸に持って行く品は下りものって呼ぶやろ。ほれ、これでどちらが上か分かったやろう?」


 お互いにヒートアップして、どんどん激しい口論になっていく。二人ともに諸肌を脱いでにらみ合った。


 もう喧嘩を阻止できない。輝斗がそう思ったときだ。


 これまで一言も発しなかった大店の旦那風の男が間に割って入った。


「東西只今の角力すもう、行司あづかおきます」


 この言葉で、関西商人と幸吉が鼻白んだ。


「――行司が預かるって言うならしゃあない」


「十一月場所までまだ何ヶ月もあるし、勝負はお預けで仕方ねえな」


 喧嘩に水を差されてしまったので、二人の頭が冷えたようだ。静かに離れていく。


「ごちそうさん。騒いでしもうて堪忍な」


 関西商人が勘定を済ませて屋台から離れようとする。


 その背中に、輝斗は声をかけた。


「『さつま揚げ』って名前で探せば、あなたが探している練り物の天ぷらが見つかるかもしれませんよ」


 関西商人は少し驚いたような顔で振り返り、すぐに「おおきに。探してみますわ」と頭を下げて去っていった。


「ほう、上方者はさつま揚げを食べたがっていたのか」


 旦那風の男が感心したように頷く。


「故郷に大阪出身の友人がいまして、関西ではさつま揚げのことを天ぷらと呼ぶと聞いたことがあります。あの人も国許を離れて食べ物に苦労しているようでしたし、教えてあげた方がいいかなと」


「いやはや、やさしい性分だ。あっぱれあっぱれ」


 旦那風の男がおかしそうにひとしきり笑う。そして、彼も勘定をして屋台から離れていった。


「あっぱれなのはあの旦那だ。ここで三馬さんばを持ち出して喧嘩をおさめようなんてそうそう思いつきませんよ」


 天ぷら屋の主人が男を見送りながら言う。


「三馬? 式亭しきてい三馬のことですか?」


 輝斗でも知っているくらいに有名な戯作者である。


「そうです。さっきの行司うんぬんってのは『浮世床うきよどこ』の台詞から持ってきています。江戸者と上方者の喧嘩をおさめる時に出てきた台詞ですね」


 浮世床は式亭三馬の代表作の一つだ。


「じゃあ、あの人はそれを知っての発言だったんですか」


「本当に喧嘩がおさまるとはビックリです」


「粋な仲裁方法ですね。――そろそろオレたちの勘定もお願いします」


「へい、三本で十二文(二百四十円)になりやす」


 輝斗は懐から財布を取り出した。


「なあ、幸吉、この銭貨を十二枚でいいのかな?」


「――四文銭が混じっているぜ。よく見ろよ」


「違いが分かんねえ。面倒だから銀で払っておつりをもらおうか」


「いやいや、十二文って言われているんだから銭を出そうぜ。勘定のやり方を知らねえなんて、お嬢さんが仰っていた通りだな」


「お咲さんはオレのこと何て言ってたの?」


芥子坊主けしぼうずみたいな人だから決して目を離すなって仰っていたぞ。全くもって正しいぜ」


「酷い扱いだな……」


 芥子坊主とは幼児の髪型のことである。お咲は輝斗のことを本当に子供同然だと思っているようだ。

 会計を済ませて、再び木を運び始めると、話題になったばかりのお咲と出会った。


(江戸の薄化粧。なるほど)


 先刻の話を思い出して輝斗は感心した。彼女は顔に軽く白粉を塗って、唇に少しべにを乗せているだけだ。目の縁を薄赤く塗ったり、唇を黒光りさせたりして完璧なメイクを施している母親とは違い、江戸風にしているのだろう。


「お咲さん、お稽古の帰り?」


「ええ、先ほど終わったところになります。輝斗さんも木拾いを頑張って下さってご苦労様です」


「苦戦しまくりだけど、なんとか働けているよ」


「それは何より。今持っている木を店に置いたら、輝斗さんは私の手伝いをお願いします」


「何をするの?」


「お稲荷様の掃除をします」


「へえ、お咲さんが担当なの?」


「誰かに言われたわけじゃありませんが、神様が汚れたままなのは申し訳ありませんので」


「若いのに心がけが立派すぎる……。幸吉、さっきの材木はお咲さんの用事が終わった後で運ぶぞ」


 大きな材木の運搬は後回しにしなければならなそうだ。


「というわけで、輝斗さんは店に戻った後に、井戸で水を汲んで運んで下さい」


「井戸で水汲み? どうやるの?」


「えぇ……?」


 お咲が目をむいて絶句してしまった。


(子供扱いされても仕方ないかもしれないな……)


 そう思う輝斗であった。

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― 新着の感想 ―
黄表紙風の軽妙な会話が良いですね。また江戸事情のうんちくも興味深いです。
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