表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/30

第7話 居候暮らし

 六月二十二日。


「やっぱりダメか――」


 輝斗が大きなため息をついた。


 江戸時代にタイムスリップした翌朝。彼は稲荷神社をあれこれと調べていた。


(昨日も調べたけど、やっぱりどこにも変なところはない)


 現代へ戻る方法が見つからないということでもある。


(たまたま、このお稲荷さんの周辺の時空がゆがんでいたのかな?)


 それに巻き込まれてしまったのなら輝斗は相当に不運だ。家族や友人が心配しているだろうから、なるべく早く元の時代に戻りたいのだが、簡単には叶わないようである。


 再び時を旅する方法が見つかるまでは、やはり江戸時代で生きていくしかなさそうだ。


 不幸中の幸いなのは、飛ばされたのが平和な時代で、しかも江戸の町だということだ。この時代、江戸で暮らす民は他の地域の人々とくらべて大きなアドバンテージがある。江戸では頑張って働けば、三度の食事に困ることはよほどの大凶作が起こらない限りあり得ない。体が動いてくれていれば、少なくとも食いつないでいけるのだ。


 さらに幸運だったのは、岡っ引きの親分に拾ってもらえたことだ。無宿人のままなら、人足寄場にんそくよせばという収容所に収監される羽目になっていただろう。


(何か発明して一攫千金といきたいところだけど……)


 大学は文学部。働いた経験はアルバイトが少々。役に立ちそうな専門知識なんて皆無である。若くて体が動くということしか取り柄がない状態だ。ただし、体を鍛えていないので、現代基準でも貧弱な体型な部類である。江戸の力仕事ができるかどうか微妙だ。


 ならば、タイムスリップで持ち込んだ未来の道具で大儲けできるかといえば、手元にあるのは衣服とスマートフォンと眼鏡だけ。


 衣服をお金に換えるのは最後の手段にしておきたい。布が高価な時代だから売れはするとは思っている。スマートフォンはバッテリー切れで何の役にも立たない。眼鏡は輝斗にとっての必需品で、どれだけ大金を積まれたとしても絶対に手放せない。一応、江戸時代でも眼鏡は生産されているが、輝斗の目に合う物が売られているかどうかは不明だ。


(オレって江戸時代でかなりの役立たずじゃん)


 これが現実なのだ。


 岡っ引きの子分として結果を出して、見限られないようにしなければならない。


(民間人が事件捜査をするって、フィクションでの探偵っぽいけど、推理小説で読んだ知識が都合良く何度も役に立つとは思えないよなあ)


 ともかく、コツコツ頑張って仕事を覚えていくしかない。


 輝斗は身につけている薄手の着物を正して、居候している徳兵衛の家に戻ることにした。着物は徳兵衛に用意してもらったものだ。


 目的の家は、稲荷神社から徒歩で五分もかからないところにある。何かのお店をやっているだろうと昨日の会話から察していたが、まさか湯屋(銭湯)だとは思いも寄らなかった。


 屋号は「神田相生町の湯」。風情もへったくれもない名だが、江戸の湯屋の名前は町名がそのまま付けられることが多いのである。


 勝手口から中に入ると、お咲が顔を洗っているところだった。


「――おはようございます、輝斗さん。早起きですね」


 挨拶をする彼女は寝ぼけまなこだ。目がとろんと垂れ下がっていて、泣きほくろも心なしか少し下がっているように見える。


「早く起きたから外を歩いてきたんだ。夕べの雨も上がっていたし」


「ああ、ずいぶんと降ったようで」


 夜が静かなうえに木造の建物ということで雨音が大きく室内に響いていた。


 そんな他愛のない話をしながら二人はお互いの部屋へ戻った。


 輝斗に与えられた部屋は三畳間。ただでさえ狭いのにくわえて隅には荷が積まれてあるので、人間が一人寝るのがやっとくらいのスペースしかない。元々は物置として使われていた部屋とのことだ。それでも個室が与えられているということで、彼としては文句を言えるはずもない。


 部屋で少し休んでいると、朝食の準備ができたと呼ばれた。


(朝食か。心して挑まないと)


 輝斗は一つ気合いを入れて部屋から出た。


「遠慮せず好きなだけ食べてくだはい、輝斗さん」


 にこやかな笑みを浮かべて、関西訛りそのままで言ってきたのは徳兵衛の妻、おかつだ。


 既にきちんと化粧を済ませているその顔は、とても上品そうにみえる。娘のお咲がつり目がちなのに対して、母親のお勝は垂れ目がち。あまり似てはいないが、双方共に現代日本でも通用しそうな整った顔立ちということには間違いない。


 お勝の背丈は娘とほぼ同じくらいで、見た目年齢は二十代後半。十七歳の娘がいるにしては若すぎるので再婚相手なのではないかと輝斗は勘違いしてしまったが、実母とのことだ。見た目が若いだけであって、実際は三十四歳で夫の徳兵衛より一つ年下とのことだ。


(江戸時代らしい朝食だなあ……)


 膳の上に乗せられた食べ物を見て、輝斗はこう思う。


 ご飯と味噌汁とヒジキだ。一般的な江戸時代の朝食だということは分かる。しかし、こんな食事を毎日続けていたら栄養不足で脚気になるのが確実だ。白米でなく玄米なら脚気を回避できるのだが、白米の味を覚えてしまった江戸町人がわざわざ玄米を食べるなんて嫌がるだろう。


 輝斗としては健康のために食事のメニューを変えてもらいたい。しかし、居候の身で文句を言うことはためらわれる。


(ビタミンB1が豊富な食べ物をどこかで摂取しないと)


 いつの日かお金をある程度納められるようになったら、食事の改善を意見しようと心の中で決めた。


 徳兵衛の家の食事で気になる点がもう一つある。


(ここの家の人たちって、すっごく行儀がいいんだよな)


 輝斗が食事で気合いを入れる必要があるのは、これのせいである。


 この場で食事をしているのは徳兵衛・お勝・お咲の親子と、居候の輝斗の四人だ。他にも湯屋の奉公人が五人いるが、彼らは別の部屋で食事をしている。


 問題点として、親子三人の食事作法がきちんとしすぎているのである。輝斗としては、江戸の庶民は作法なんてそこまで気にしていないだろうと思い込んでいた。だがこの親子を見るに、思い違いだったようだ。


(どこの上流階級だよ? 元無宿人の家庭とは思えないぞ)


 行儀が良いのは別に悪いことではない。しかし、周りがしっかりしすぎていると、こちらが落ち着かない。


 輝斗も最低限の食事マナーくらいは心得ている。しかし江戸時代で正しいのかどうかは不明だ。今のところ注意が飛んできていないので、上手く乗り切れているとは思ってはいるが。


「お咲、いつまでも眠そうにしてへんで、シャンとしなはれ」


 輝斗が戦々恐々していると、母親から娘に小言が飛んだ。


「夜更けに勝手口の方からガタガタと音が鳴って、いったん目が覚めちゃったからね。別に盗人とかじゃなかったみたいだけど、ネズミが住み着いちゃったかも」


「おやまあ、近所から猫を借ってこな。それはそれとして、寝付けなんだとはいえ、お師匠はんのところで居眠りはあきまへんよ」


「他の子の琴が心地よい子守歌代わりになるからね。もう少し騒々しい弾き方をしてくれれば眠くなったりしないのに」


「口答えはやめなはれ」


 母娘が言い合っている横で、輝斗は黙々とご飯を食べる。


 そんな彼に徳兵衛が話しかけた。


「そうそう、昼過ぎに親分が来るようだから、輝斗はどこにも出かけないでくれ。厄介ごとを抱えているらしく、手伝って欲しいそうだ」


「分かりました」


 どうせ予定なんてないのだから、特に問題ない。


「何もしないで親分を待つのは辛いので、昼まで湯屋の仕事を手伝わせて下さい」


「そいつはありがたい。木拾いを頼むわ。ただし、親分が来たときにすぐ顔を出せるようにな」


 ここで母親と口論していたお咲が、男たちの会話に加わってきた。


「おっ父さん、輝斗さんを働かせるのは考えた方がいいよ? 危なっかしいし」


 彼女は心配そうな顔で告げる。


 こう言われてしまうのは仕方がない。なにせ、輝斗は江戸での常識を全く知らないのだ。家に上がるときに足を拭くということが分からなかったことから始まり、昨日だけで何度もお咲を仰天させた。


幸吉こうきちを一緒に付けるからよっぽど変なことはないだろ。輝斗、幸吉はお前さんよりだいぶ若いが、仕事を教えてもらえ」


「一人でやらせないなら平気かもしれないけど……」


 お咲はなおも不安そうである。


「輝斗さん、迷子にならずにきちんと帰って来てくださいね」


「――オレのことを幼子か何かと思っているの?」


 いくらなんでも酷い扱いである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ