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第6話 真犯人

(記憶が正しければ、オレが見た時は地面に血だまりは存在していなかったはず。で、次に来た与介さんとお咲さんは血の海を見ている。匕首が抜かれたのはこの間ってことか。刃物を抜く時に血が噴き出すことは推理小説で知った知識だけど、役に立ってくれそうだ)


 匕首を抜いた可能性が高いのは一人だ。


 第一発見者の与介である。


 どうして抜いたのかいうと、輝斗の手に握らせて罪をなすりつけるために違いない。


(オレを殴る前、与介さんはどこにいたんだろう? 表通りの手前でスイカ屋さんと話してからここに来るまで、オレは誰一人として見かけていないはずだ。狭い路地裏で見落としなんてあり得ない)


 与介が大通りからずっと輝斗の後を付けていたということも考えられるが、その可能性は頭の中から消去してしまう。井戸端へ向かうかどうかも分からない輝斗を尾行する合理的理由なんて思いつかないからだ。


(となると、考えられるのは、この広場のどこかに潜んでいたということか)


 輝斗が殴られる直前、彼は倒れている人しか見えていなかった。注意が完全にそちらへ向いていたのだ。だからといって、こんな狭い場所に人間がもう一人いたらさすがに目に入りそうなものである。


「この空間で人が隠れられる場所は……」


 輝斗は辺りを見回してみた。


「どなたかそこに転がっているタライをひっくり返してくれませんか? 中に何かあったらめっけ物ってことで」


「はて、別に構いませんが? ――ヒィ!」


 タライをひっくり返したお咲が叫んだ。


「親分! タライの中に血が付いていますよ!」


「何だって!」


 藤次が駆け寄り、タライをあらためる。


「こりゃあ、まだ新しい血だぞ。どうしてまたこんな所に?」


(勘が冴えていたようだ)


 犯人が被害者の胸をひと突きした際、まだ刃を抜く前でも多少の返り血があったのだろう。その血を拭き取る前にタライを触ったと考えられる。


 何のためにタライを触ったかというと、おそらくこの中に身を潜めたからだろう。このタライの大きさは、人間一人が隠れるのに十分だ。


 輝斗は藤次に一つ確認をお願いすることにした。


「親分さん、タライの血って手とか指とかの形になっていませんか?」


「いや、そんな形にはなってねえな。布か何かで引きずった跡だな」


「残念ですね……」


 思惑通りにいかなかったので、輝斗が悔しがる。手や指の形が残っていたら、その大きさに合う者が犯人だと立証できたのだが。


 現代なら血が付いていようがいまいがタライに付いている指紋から犯人を割り出せるのだろうが、それが日本で実用化されるのは明治維新以降の話になる。


(布で引きずった跡か……)


 衣服に付いていた血がタライに付いたのだろう。


 しかし、ここにいる誰の着物にも血らしきものは見えない。


(また振り出しか。――ん? 布といえば)


 輝斗の頭にまた考えが浮かんだ。


「もう一つお願いがあります。物干し場にぶら下がっている着物を調べてもらえませんか? どれかに血が付いているかもしれません。何もなかったらその後に井戸の中をさらってください」


「今度は物干し? 確かに布ではあるがな」


 言いながら、藤次が物干し場の着物を調べ始める。


「――こりゃ驚きだぜ。このひとえの袖口に血がべっとりと付いているじゃねえか」


「案の定ですね。返り血を浴びた真犯人が着物をそこにぶら下げたんでしょう」


「おめえ、誰がやったのか見当が付いているな?」


「もちろんです」


 輝斗はきっぱりと言い切って、犯人をにらみつけた。


「与介さん、この着物はあなたのですよね?」


「ふざけたことを抜かすんじゃねえ! わっしはあんな着物なんて知らねえ!」


「ずっと思っていたんですよ。あなたって、ずいぶんと大きな着物を身につけていますよね」


「ああん? これが江戸っ子の着こなしって奴よ」


「本当にそうなんですか? そこに干してあった着物を勝手に拝借したんじゃないですか?」


「人を盗人みたいに言うんじゃねえ!」


「――親分さん、近所の人に与介さんの着物を見てもらえませんか?」


 輝斗は藤次にお願いをしてみる。


「そうだな。おい、徳兵衛。何人か連れてこい。縄は俺が預かる」


「すぐに呼んできますわ!」


 親分の指示で、徳兵衛が早足で広場から出ていった。


 間もなく、町人を五人ほど連れて戻って来る。


「わざわざすまねえな。そこの男の着物に見覚えはねえか?」


 藤次が町人たちに尋ねる。


「あれ? その模様って曲物屋まげものやのじいさんの着物じゃねえか?」


「間違いねえ。じいさんのだ」


 やはり物干しにあった着物だったようだ。真犯人を追い詰めるまであとひと息である。


 しかし、まだ与介は着物を盗んだことを認めようとしない。


 そこで、藤次は町人の一人に命じて、曲物屋のじいさんを呼びに向かわせた。


 少しすると、大柄な老人が広場にやって来た。身長は輝斗よりも大きい。この時代基準なら、かなりの大男だ。


「この野郎! おれの着物を盗みやがったな! 板の間稼ぎならぬ井戸端稼ぎたあ、太え野郎だ!」


 与介を見るなり、じいさんが掴みかかった。


「ジジイ、放せ! ――わっしは着物を盗んだ。これは認める。だけど、人殺しはしてねえ!」


 もみ合いをしながら与介が叫んだ。


 その与介に藤次が一喝する。


「てめえ、見苦しいぞ! お縄を頂戴しやがれ!」


「下谷の親分、だったら血の付いた単がわっしのものだって証拠を見せて下せえ」


「むむむ……」


 藤次が唸る。確かに、与介の着物だという証明はできていない。


 輝斗も困ってしまう。証明方法が全く思い付かない。


(このままじゃあ、犯人を逃がしてしまうかもしれない。どうすればいいんだ?)


 気持ちが焦るばかりで、打開方法が出てこない。


「ええい! 放せって言っているだろうが、このクソジジイ!」


 与介が老人を力任せに振り払った。曲物屋は地面に腰を打ち付けてうずくまってしまう。体格差があるとはいえ、さすがに若者と年寄りでは力が違うようだ。


 その時だ。与介の懐から、藍色の布が落ちた。同時に高い金属音が鳴り響く。


「おい、そりゃなんだ?」


 与介が拾う前に、藤次が先に掴んだ。


「これは財布だな。――何だこれは? 血が付いているじゃねえか。どういうことでい?」


「ど、どういうことなんでしょうねえ?」


 与介は顔面蒼白になって後退りをした。


 彼の代わりに、輝斗が答える。


「これが与介さんの財布だとしたら、銀三さんを殺した時に血が付いちゃったんでしょうね。銀三さんのものなら、与介さんが彼を殺した後に財布を奪ったんでしょう」


「ち、違う。わっしは殺してなんかいない。てめえを殴った後に、仏さんの懐をちょっくら探ったんだ。そうしたら思わぬ収穫があったから頂いただけよ。決して殺したりはしていねえ」


 与介の顔色は青いを通り越して、白くなってしまっている。


「死体の上には俺が乗っていたんですよね? どかしてから懐を探ったんですか?」


「そ、そうだ」


「じゃあ、また俺を死体の上にわざわざ戻したのは、どうしてなんですか? 死体の横に転がしたままでも問題なかったのに」


「う、それは……」


 もう決定的だ。


 やっと真犯人を追い詰めたのだ。輝斗は高揚感と安堵感に包まれていた。


「はて、まだ私には分からないんだけど、どういうからくりだったのでしょう?」


 お咲が小首を傾げた。


「順を追って話そうか」


 輝斗が彼女の疑問に答えてあげることにした。


 まず、この広場で銀三とお咲が喧嘩をした。股間を蹴られた銀三は悶絶し、蹴ったお咲は広場から出ていく。


 その後、水を汲みに来た与介が広場にやってくる。井戸のそばで身なりの良い男が苦しんでいるのを見て、悪い考えが芽生えてしまう。こいつを殺して金を奪ってやろうと。


 そして、与介は銀三を殺害した。凶器の匕首は彼が所持していた物だろう。財布を盗んだのもこの時だと思われる。


 悪いことはなかなか上手く進まないもので、誰かが近づいてくることに与介は気付いた。彼は慌てて近くのタライの中に身を隠す。彼の着物には返り血が付いていたので、この時タライに血の跡が残ってしまった。


 広場に入ってきたのは輝斗だ。彼は倒れていた銀三に気を取られて、タライの中の人間には気付かない。


 そこで与介はタライからこっそり出て、輝斗を後ろから殴り倒した。そして、被害者の胸から匕首を引き抜き、輝斗の手に血を付けて握らせた。男二人の体を持ち上げつつ刃物を抜くわけだから、強い力が必要だったと思われるが、そこは天秤棒を担いで歩き回るのが稼業の与介だから充分な腕力があっただろう。


 この時に血が噴き出して地面を大きく汚した。同時に、与介の身に相当な血が付いたことが想像される。


 体に付いた血は井戸の水で洗い流し、続いて与介は物干しにかかっていた着物を盗んだ。代わりに血で汚れた着物をかけておく。血が付いた着物は、輝斗が犯人とされた後に回収すれば問題ない。


 このまま逃げきることができていれば、与介は疑われなかっただろう。しかし、そうはいかなかった。今度は、お咲が広場に来てしまったのだ。仕方がないので、彼は第一発見者を演じることにした。


「推測も多々混じっているけど、おおよそこんな流れだったと思うよ。大きくは違っていないはず。このあとのことは、お咲さんの知っている通りかな」


 輝斗が長い話を締めくくった。


「なるほど。随分と手の込んだやり口だったようで」


 お咲が感心する。


 同時に藤次は愉快そうに笑う。


「たまげたな、こいつは。お縄についている奴が本物の人殺しを捜し出すなんて思いも寄らなかったぜ。――さあ、与介。おとなしくしやがれ」


「殺していないって言っているだろうが!」


 突如、与介が駆けだした。輝斗の方へ向かって真っ直ぐに。


「黙って聞いてりゃあ、好き勝手ぬかしやがって!」


 手には光る物が握られている。匕首だ。もう一本持っていたのだろう。目はぎらぎらと輝き、とても正気には思えない。錯乱してしまっているようだ。


 輝斗は逃げようと思ったが、体がこわばって動いてくれない。死が目の前に迫って、身がすくんでしまったのだ。


(ダメだ。避けられない)


 刃が腹部に刺さる。その寸前――。


 徳兵衛が与介の横から組み付いた。


 そして、あっという間に殺人犯を投げ飛ばす。


「おとなしゅうしろ! 見苦しい!」


 背中から地面にたたきつけられてうめき声を上げている与介を、徳兵衛が手際よく縄で縛っていく。


「た、助かった……」


 輝斗はヘナヘナと座り込んでしまった。全身の力が抜けてしまって、なかなか立ち上がれない。幸いなことに、体には傷一つ負わずに済んでいる。


「徳兵衛さん、ありがとうございました」


「いいって事よ」


 巨漢が白い歯を見せた。


「すまねえな。俺も油断していた。危うく仏さんが増えちまうところだったぜ。徳兵衛に救われたのは俺もだ」


 藤次が謝りながら、輝斗の縄を解き始めた。


「ところで輝斗、おめえは無宿人だって言っていたよな。横浜から出てきたのは何かアテがあってのことか?」


「いいえ。そんなものは全くありません」


「……聡いのかバカなのか、どっちなんだよ?」


「えっと、褒めてくれています?」


「褒めてねえよ!」


 ここで、輝斗の縄が完全に解けた。やっと自由の身になれたのだが、腕が痺れていて上手く動かせない。腕や指をとにかく動かして、血の巡りを良くしようとしてみる。


「アテがねえのなら、俺の下で働かねえか?」


「え? 子分にしてくれるんですか?」


「おめえみたいに頭が回る奴を放り出すのはもってえねえ」


「だけど、無宿人を雇ったら親分さんが罪に問われるんじゃ?」


「八丁堀の旦那に頼み込んだら、どうにでもなるさ。人別帳に載せてやる」


「人別帳ってどうにかなるものなんですね……」


「そこの徳兵衛も元は無宿だったのを俺が拾ったわけだしな」


「そういう過去があったんですか」


 戸籍を簡単に偽造できるなんて、江戸幕府の内部は大概のようだ。おかげで輝斗は市民権を得られるかもしれないのだから文句は言えないが。


 現代日本に帰るのがもちろん第一希望だ。しかし、それが叶わなかったら江戸時代で暮らすことになる。そうなると人別帳に記載されているかどうかは大きな違いとなる。


「選択の余地がありません。親分のお世話になります」


「おう歓迎するぜ。――徳兵衛、ちょっくらすまねえが、こいつをおめえの家にしばらく居候させてやれ」


 藤次が徳兵衛に指示を出す。


「へえ、使ってない部屋ならありやす。ただし、うちの娘に手を出したらぶっ殺すってことでよろしければ」


「はっはっは。それで構わねえ。頼んだぞ」


「……いや、構いますってば。手を出す気なんてないですけど」


 輝斗が小声でツッコミを入れる。


「おい、お咲。そいつを連れて先に帰れ。御検視が終わるまでワシはまだ帰れん」


「あいよ、おっ父さん。――輝斗さん、立てますか?」


 まだ腕が軽く痺れているものの、たいした支障はない。危機が去ったので足は動いてくれるようだ。輝斗はお尻の砂を叩きながら立ち上がった。


「あまり気兼ねしないでくださいね」


「気兼ねしないと命が危ういような……。そうだ、一つ尋ねたいんだけど」


「何でしょう?」


「お咲さんはオレが人殺しなんかじゃないと思っていてくれたんだよね? どうしてなのかな?」


 輝斗の質問に、お咲がキョトンとした顔になる。しかし、すぐに小さく微笑んだ。


「嘘をついているように見えなかったので」


 その笑顔を見て、輝斗は恥じ入ってしまう。何せ彼の方はお咲のことを疑っていたのだから。


「お咲さんゴメン」


「何がでしょう?」


「謝っておかないといけない気がして」


「どうしてなのでしょうか?」


 彼女は不思議そうな顔になった。


「よく分かりませんが、輝斗さんはうちでゆっくり休んで下さい。疲れていますよね?」


「確かに人生で一番疲れた日かも――」


 こうして、輝斗はなんとか江戸での初日を乗り切ることができたのであった。

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