第3話 冤罪
気が付くと、輝斗は固く冷たい床の上に寝転がっていた。頭の後ろがズキズキと痛む。
頭を触ってみようとしたが、手が全く動かない。首を後ろに回してみると、なんと両手が縄で後ろ手に縛られているではないか。
(何だ? 一体どういうことなんだ?)
驚き絶句していると、頭上から声をかけられた。
「おや、起きましたか?」
そちらの方へ顔を向けると、誰かが座っているようだ。
「――ひょっとして、さっき話した女の子かな? 声から察するに」
「先ほどは道を譲っていただきましてありがとうございました」
「眼鏡がどこかに落ちていなかったかな? あれがないと、君の顔が分からないくらいに、オレって目が悪いんだよね」
輝斗は重度の近視だ。眼鏡がなかったら日常生活に支障を来してしまうくらいに。
女性は持っていた煙管を傍らに置くと、床に置いてあった眼鏡を手に取った。
「これはあなたの眼鏡でしたか。――どうやってかけるのでしょうか?」
「横の金属の棒を両耳に引っかけるようにお願い」
「変わった眼鏡ですね。はい、どうぞ」
「ありがとう。眼鏡をかけてくれたついでに、この縄をほどいてくれないかな?」
「それはできません」
彼の二つ目のお願いは、残念ながら聞いてもらえなかった。仕方がないので、体を起こして現状を把握することにする。
ここは六畳くらいの広さの板の間。窓は一切なく、出入り口は一つだけだ。中央には太い柱が立っていて、この柱に打ち付けられた鉄環に輝斗を縛っている縄の端が結ばれている。いったい何の部屋なのか、皆目見当がつかない。
妙に右手の指先がザラザラしている。首を回しても見えないので、何が付いているのか分からない。
(俺の頭になにかが落ちてきて、気を失った。そこに誰かが通りかかって、見慣れない服を着ている怪しい人間を見つけた。だから縄で縛って転がしてある。こんな感じかな? さっき倒れていた人は無事だったらいいんだけど)
現状を推測してみる。洋服を身に着けている言い訳を考えなければならないようだ。
輝斗が考えていると、強面の男が部屋に入ってきた。年齢は四十代後半くらいで、身長は一六○センチメートル程度だろうか。
「なんでい、お咲ちゃんが手伝いをしているのか」
「人手が足りないみたいだから、こうして見張っています。親分こそ、ずいぶんと来るのが早かったですね」
「お咲ちゃんのおっ父さんに用があって来たところなんだ。店が休みだっただけでも驚きなのに、近所で事件が起こったって聞かされて二度ビックリだぜ」
「事件の話をしましょうか?」
「特に要らねえかな。軽く聞いただけで目星は付いているし。おっ父さんはどこにいる?」
「件の井戸端を見張っていますよ」
「そうかい。子分がそっちにいるってなら、俺はこの変な格好の奴からゆっくりと話を聞けるな」
「なら、私は失礼いたします」
お咲と呼ばれた娘が部屋から出て行って、親分と呼ばれた中年男だけが残った。その彼が鋭い目付きで輝斗のことを睨む。
「オレの名は藤次。短ぇ付き合いになると思うが、覚えておけ」
藤次が床にドシリと腰を下ろしながら話す。
「はあ、俺は輝斗です」
「輝斗か。気分はどうだ?」
「最悪の気分です。ここはどこなんですか?」
「そりゃあ、自身番の番屋に決まっているだろ」
自身番というのは、江戸時代の町の自警団。番屋はその小屋だ。輝斗はそこに連れてこられて、縛り付けられているようである。
(ということは江戸時代なのか。この親分さんは江戸の下町言葉を話しているから、江戸の町なんだろうな)
輝斗はそう見当付けた。
「じゃあ、今って何年何月何日ですか?」
「うん? 己卯年六月の廿日。――いや、廿一日だ」
「――年は元号でお願いします」
「文政二年だ」
輝斗の知識が正しければ、西暦に直して一八一九年。江戸時代の後期にあたる。二百年ほど昔に時間移動しているようだ。
「今度はこちらが尋ねさせてもらうぜ。輝斗、おめえはどこに住んでいる?」
「横浜です。分かりますか?」
この時代の横浜は小さい漁村にすぎない。
「知っているさ。遠くからわざわざ出てきたんだな。江戸に来たばかりか?」
「ここってやっぱり江戸なんですね?」
「そりゃそうだ。横浜から歩いてきたんだし分かっているだろ。何を言っているんだか」
「この場所は江戸のどこなんでしょう?」
「神田相生町(東京都千代田区)だ」
おおよその現在位置がやっと分かった。未来でもこの町名は残っている。秋葉原駅のすぐ近くだ。場所は移動せずに、時間だけ超えてしまっているようである。
「で、輝斗よ。おめえはいくつだ?」
「数えだと二十一歳です」
「江戸での引き受けは、どこのどいつでい?」
「そんな人はいません」
「無宿人か?」
「そうなります」
無宿人とは、要するに戸籍に載っていない者のことである。未来人の輝斗は当然このくくりになってしまう。
「無宿人だし変な格好しているけど、悪さをするつもりはないので、そろそろ縄をほどいて頂けませんか?」
「そりゃあできねえ。人を殺したんだからな」
「人を殺した? 俺が?」
輝斗の声が上ずった。殺人の濡れ衣を着せられているとは完全に予想の範疇外だ。
先ほど見た、広場で倒れていた男性は死体だったのだろう。その近くに倒れていた輝斗が犯人として囚われているに違いない。
「……最悪の日だ」
江戸時代に飛ばされた挙げ句、犯罪者扱いされてしまった。
何としてでも無実ということを説明しなければならない。この時代の刑罰は厳しく、人間を一人殺したとなると死刑になる可能性が高い。
「おっと、まだ伝えていなかったな。俺は御用聞きだ。そういうわけだから、輝斗は正直に話せ」
「御用聞き? こちらからは別に用なんてありませんよ」
「――とんでもねえ物知らずだな。こいつを見ればさすがに分かるだろ」
藤次は懐から十手を取り出した。
「ひょっとして、岡っ引きって奴ですか?」
江戸の町の治安維持を担当しているのは町奉行所だ。警察業務だけでなく、行政・裁判・防災も執り行っている。
そのトップは町奉行。大岡越前守や遠山の金さんが名奉行として現代でも有名である。
町奉行の下で働く役人が与力。そのさらに下が同心。ここまでが幕府に仕える正式な公務員である。
同心の中で、治安維持を担当している三廻りという立場の者の数は、月替わりで十人少々。こんなに少ない人数で百万都市江戸の町の治安を守れるはずがない。
そこで、同心が私的に雇うのが岡っ引きだ。町人でありながら、ある程度の捜査権を与えられた者なのである。
「そういうわけだ。さあ、どうして殺した?」
「殺してません!」
「正直に話せと言ったはずだぜ。そうすればお上の御慈悲って奴もあるさ」
「だから、殺していませんって!」
輝斗は、自分が見聞きしたことを話した。もちろん、タイムスリップについては伏せたままでだ。
話を聞き終えて、藤次は首をゆっくりと横に振った。
「言い逃れなんてもんはできねえぞ。なんてったって証拠が残っているんだからよ。たしかこの部屋の中に置いてあるって聞いたんだが。――ああ、これか」
藤次が一本の短刀を床から拾い上げて輝斗に見せる。
「この匕首の柄に血が付いているだろ? どうみても指の跡だ。これがてめえの指とピッタリ同じ大きさって話だぜ。――ふむ、やっぱり間違いねえな」
「……え?」
ひょっとしたら、指先がザラザラしている原因は血が乾いたものなのだろうか。
「オレはそんな刃物なんて知りませんって!」
「まだグダグダ言いやがるか! いけぷっとい(図々しい)奴だぜ! だったら、この指の跡は何だって言うんだ! 素直に認めて御慈悲を願いやがれ!」
「そ、それは……」
言葉に詰まってしまう。この物証を否定する根拠が思い付かない。
彼が困っていると、部屋の外からお咲が藤次に声をかけてきた。
「親分、うちのおっ父さんが呼んでいますよ。御検視がまだ来ないから、親分に検分をして欲しいって」
「子分に呼ばれたからにはすぐに駆けつけてえところだが、徳兵衛にはもう少し待てと伝えてくれ。こいつが強情を張って口を割らねえんだ」
「だから、オレが殺したんじゃありませんってば!」
輝斗が食ってかかる。
そんな彼を、お咲が横目でチラリと見た。
「そうですね。仏さんの前で話を聞いてみたらどうでしょう? いくら悪人でも、仏さんの前なら嘘は言えないはずです」
「本物の悪人はそんなの気にしねえもんだが。――まあ、連れて行くか。俺も人殺しの場を見ておきたいしな」
言うが早いか、藤次が縄をほどき始めた。といっても、鉄環に括られている側だけをほどいているので、輝斗は囚われの身のままだ。
「ほら輝斗、外に出るぞ。とっとと歩きやがれ」
縄の端を持った藤次が、輝斗を追い立てる。
とぼとぼと歩き始めた彼が、お咲の横に差しかかった瞬間だ。彼女が素早くささやいた。
「――頑張って」
輝斗が驚いて振り向くが、彼女は素知らぬ顔であらぬ方を見ていて、彼の方に目を向けていない。
「何をしている。早く外に出ろ」
藤次に急かされたので、仕方なく歩みを進める。
たった今、お咲が言った意味は何だったのだろうか。ひょっとしたら、彼女は輝斗が無実だと思ってくれているのかもしれない。知り合いが全くいないこの時代で、たった一人だけでも信じてくれているというのは、この上なく心強い。
何にせよ、流れを変えるチャンスになるかもしれない。いや、変えなければならない。輝斗は気を引き締めて建物の外へ向かっていった。