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第10話 行方不明

 地本問屋。主に庶民の娯楽書物を扱う本屋である。


 医学や歴史等、学術関係の本を多く取り扱う本屋は書物問屋しょもつどいやと呼ばれる。


 現在の書店と大きく異なる点は、新刊だけでなく古本も同時に販売することだ。また、出版も手がける。本屋と古本屋と出版社を合わせたような商売なのである。


「どれ、話を詳しく聞かせてもらおうじゃねえか」


 藤次が座敷に腰を下ろしながら言った。


 番頭の正助に案内されて、藤次・輝斗・お咲の三人は文湧堂内の六畳間に案内された。


 文湧堂側の人間は正助と、お内儀かみのおあさの二人。


 計五人が部屋の中に集まっている。


「何が起こったのか、こちらとしても全く把握しておりませんが――」


 言いながら、お朝は茶とタバコ盆を客人たちに差し出した。


 輝斗以外の人間は全員タバコを吹かし始める。


「昨日の昼間、うちの主人は本町ほんちょう(東京都中央区)へ向かいました。しかし、それきり戻ってきていないのございます」


 そう言うお朝の目は真っ赤になっている。おそらく、夫が心配で涙を流していたのだろう。


 彼女の見た目年齢は二十代後半。夫が行方不明ということで、化粧をする余裕がなかったようであるが、色白な上に顔立ちが整っているのでそんなものは不要なのではないかと思えるくらいの容貌だ。


「分かっていることは全てこの俺に教えてくれ。本町へは何をしに行ったんでい?」


「仕事にございます。鰻屋さんが引き札を出すのをうちで請け負いまして、口上を戯作者の式亭三馬先生にお願いをしております。先生のお宅がそちらなので、主人はその話をしに出向きました」


(ここでも式亭三馬か)


 朝に話が出てきたばかりの相手だ。何やら縁があるようである。


ちなみに引き札とは現代でいうチラシのことだ。


「三馬先生の家に使いは出したのかい?」


「ええ。主人の帰りがあまりにも遅いので、六つ半(およそ午後七時)頃に店の若い者を出しました。三馬先生が仰るに、主人は七つ半(およそ午後五時)には先生の家を出たとのことで――」


「先生の家から失礼する時に、何か言っていたりは?」


「店に帰ると言っていたそうにございます。それなのに、主人は店に戻っておらず。何か悪いことに巻き込まれたんじゃないかと、もう心配で心配で……」


 堪えきれなくなったのか、お朝の目から涙がこぼれ始めた。


「そりゃあ、心配だろうさ。できるだけ早く捜し出してみせるぜ。お内儀さんにこれ以上話させるのは酷だ。正助さんに聞こう」


 藤次が番頭の方へ顔を向ける。


「ここの旦那がひと晩帰らないってわりとあることなのか?」


「ほとんど夜遊びをしない方なのですが、毎月末に一回だけしておりまして、旧い友人の長八ちょうはちさんと会って朝まで二人で飲み明かしています。ですが、昨日は月末ではないので……」


「長八ってのはどういう奴でい?」


室町むろまち(東京都中央区)に住んでいる鋳掛屋いかけやとしか知りません。旦那も長八さんも江州(近江国。滋賀県)の出ということで気が合ったようにございます」


「室町は本町のすぐ近くじゃねえか。昨日、三馬先生の家を出た後に旦那は長八と一緒になったんだろ」


「うちの若いのもそう思って長八さんの家にも寄ったのですが、留守だったとのことで」


「長八の話はいったん置いておこうか。旦那の様子が近頃おかしいとかあったかい?」


「――特にはございません」


 番頭が一瞬言いよどんだのを、藤次は見逃さなかった。


「おいおい、正助さんよ。隠しごとなしで全て話してもらわなきゃ、捜せるものも捜せなくなっちまうぜ」


「申し訳ございません。件の怪談騒ぎのせいで文湧堂は世間様から好奇の目で見られておりまして……。特に旦那は非常に心を痛めていたご様子でした」


 正助は額の汗を拭きながら、お朝の様子をしきりに窺っている。


「怪談の話も聞かせてもらおうか。よもやノコギリが人をかどわかすとは思えねえが、旦那が行方知れずになったのと繋がりがあるかもしれねえ」


「承知いたしました」


 彼が語った内容は、先ほどの藤次の話とほとんど一緒で、特に新しい事実はなかった。店の近くでノコギリの音が聞こえたのは事実だが、音の発生源は不明とのことである。


「ふむ、怪談との繋がりは特になさそうだな。ここで話を聞いているばかりじゃ埒が明きそうにねえから、足を使って捜し始めてみるぜ。旦那が行ってそうな所を教えてくれ」


 藤次がこう言った時だ。部屋に少年が入ってきた。年齢はお咲と同年代くらい。格好からして、この店の奉公人のようだ。


「失礼いたします。お内儀さん、蔵を開けてくださいませ」


「コレ、新平しんぺい。こんな時に何を言い出しますか。店を開けていないのだから、蔵の扉は閉めっぱなしにしておきますよ」


 お朝が涙を拭いて、奉公人を叱る。


「だけど、頼まれている本を今日中にお届けしなければなりません」


「ああ、そんな話もあったね。正助さん、一緒に行って本を出してあげて」


 彼女が懐から鍵を取り出して、番頭に預けた。


「すみません。お武家様との商売では、その場でやり取りをせずに、後々お届けするということも多いのでございます」


 お朝が藤次たちに事情を説明する。


 蔵へ向かったはずの二人だったが、すぐに部屋へ引き返してきた。


「鍵が見当たりません。お内儀さんはご存じありませんか?」


「何を言っているんですか、正助。いつもの所にあるはずでしょ?」


「それが見当たらないんです」


 番頭とお内儀の会話を聞いて、輝斗が首を傾げる。


「鍵って、たった今お内儀さんが正助さんに渡しましたよね?」


 すると、お咲が輝斗を軽くつついた。


「輝斗さん、蔵の扉は二重になっていることが多いんですよ。だから、鍵も二つ要ります」


「お嬢さんの言う通りで、外扉の鍵は旦那とお内儀さんが肌身離さず持っていて、内扉のものは店の帳場にしまってあります。見当たらないのは内扉の方でして。こちらは一つきりの物だから、見つからないと蔵に入れません」


 お咲の言葉を正助が引き継いだ。


 それを聞いた藤次が頬をなでながら番頭に質問を投げた。


「外扉の鍵を持っているのは旦那とお内儀の二人か。ひょっとして、旦那は蔵の中にいるんじゃねえか? 借りたりしなくても入れるわけだしな。帳場の鍵も一緒に持っているかもしれねえ」


「――確かにあり得ます。でも、どうして旦那はずっと籠もったきりなのでしょうか?」


「ぐっすり眠っているだけなら笑い話で終わるが、出るに出られねえのかもしれねえ。たとえば卒中を起こしているとか」


「すぐに向かいます!」


「俺たちも付いていく。案内してくれ」


 部屋の中にいた者たち全員が急ぎ足で蔵に向かっていく。

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