第七十三話 新天地へ(2)
――それから数日後、レオは寝室で目を覚ました。
藤を編み込んだ寝台の上で起き上がると、柔らかな白絹のカーテンがはためく向こうに、壮麗なる白銀の建物が並ぶ、エステリアの町並みが見えた。
異国の染料で染め抜かれた大理石のタイルが陽光を浴びる大通りでは、色とりどりの旗が風に舞い、市場では子供たちの笑い声と、商人の喧騒が響き合う。
ベッドから立ち上がったレオは、テラスに立つ。
すると、彼の胸に、名状しがたい郷愁と誇りが込み上げてきた。
瑠璃色に輝く空を見上げれば、空を割断するかのように白い尖塔がそびえ立っている。皇帝の宮殿――エテルノス・パラティウムから伸びる白金の塔は、まるで星々をその手に取らんかと挑むようだ。
エステリア。偉大なる土地。
それは人類の文明の中で最初で、おそらく最も偉大なもの。
ふと気がつくと、テラスに立つレオの傍らに女がいた。
彼女の顔は見知らぬものだったが、琥珀色の瞳には親しみが宿っていた。
「あなた、キリウス陛下が兵を起こすそうですよ。蛮族が東の国境に集まり、民を脅かしていると。あなたも陛下の旗の下、戦うのかしら?」
彼女の声は優しく、しかしどこか遠い。
レオは答える前に、テラスの欄干に手をかけた。眼下では、軍旗を掲げた兵団が行進する。金獅子の描かれた旗が、朝日を受けて輝いていた。
「キリウス陛下のため、帝国のためなら、この命を捧げることにためらいはない」
口からこぼれた言葉は、彼自身のものだったのか。
それとも、夢の中の別の誰かのものだったのか。
兵たちの足音は、まるで彼の心臓の鼓動と共鳴するようだった。
だが、夢は突如として砕けた。馬車の荷台で目を覚ましたレオは、木の軋む音と、ざらざらとした風に混じった灰が頬にへばりつくのを感じた。
現実の不快さが心地よい夢の残滓を吹き飛ばし、彼を現実に引き戻す。彼の目の前には、荒涼とした地平が広がっていた。「ノーマンズランド」の入り口だ。
馬車の仲間たちは無言で、誰もが自らの恐怖と向き合っているようだった。
レオの手には、擦り切れた革のカバンのベルトが引っかかっていた。中には、わずかな食料と、父から受け継いだ古い短剣が入っている。
彼は目を閉じ、額に浮かぶ汗を拭った。あまりにも鮮やかな夢は、それがまるで彼自身の記憶であるかのように心に刻まれていた。
ひどくおぼろげな予感が、しかし、確かに自分を呼んでいる気がした。
レオは荷台の縁に手をかけ、腰を上げた。オンボロ馬車を引く馬の背の先、地平の向こうには、朽ちかけたエステリアの尖塔が、幻のように揺らめいていた。
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馬車が止まり、荷台から飛び降りたレオは、すこし興奮気味だった。
というのも――
「すげー、ちゃんとカットシーンがありますよ!」
「ハトフロのクエストでカットシーンがあるのは珍しいね。ていうか初かね?」
「運営がミライに変わってよかったねー。元の運営よりちゃんと仕事してるじゃん」
「それはそうなんですけど、古島さんが草葉の陰で泣いてそうですね……」
「いやいや、まだ死んでないから」
興奮気味に反応するレオにシルメリアと結衣が同意する。レオの反応は少し極端にも見えるが、無理からぬことだった。
ハトフロはゲームを始めると、クエストもチュートリアルも無しにいきなり世界に放り出される。それがハトフロの「普通」だったのだが、今回の新コンテンツはがらっと趣を変えて、ちゃんとストーリー仕立てになっていたのだ。
高機能VRチャットツール[ゲーム付き]と揶揄されるハトフロが、ちゃんと「ロールプレイングゲーム」をしている。これが感動せずにいられるだろうか。
「ひとまず、招待コード入力時に登録したパーティメンバーが集まってる感じですかね?」
レオが周囲を見回すと、自分たちと同じような5人組が集まっている。招待に参加したプレイヤーは、カットシーンが終わると皆、同じ場所に飛ばされるようだ。
プレイヤーが居るのは、古代の遺跡の発掘場所のようなところで、崩れかけた大理石の床の上に、テントや建築現場のような木の足場が組み上げられていた。
遺跡の奥にはまだ比較的無事な建物があり、開拓者ギルドの所有を示す、ハンマーとスコップが木の柵で囲まれた意匠を描き込んだ旗が掲げられていた。
「で、どうすればいいんだい?」
「うーん……」
「ハナちゃんに聞いてみる?」
「大丈夫です! すぐ始まりますから!」
「ほぇ?」
レオが小首をかしげていると、遺跡に腰掛けていた、ぼろぼろのチェインメイルを着た戦士風の男が突然パーティに語りかけてきた。
「へぇ……またノーマンズランドに入ってきたのか。金か、財宝か? それともこの国を救おうとでも? ハハハハ……」
「なっ!」
「へっ、図星かい? 考えもなしにここに来るなんてな……。」
レオの驚きは男の言葉とは別の意味を持っていた。ハトフロにおいて、基本的にNPCは向こうからプレイヤーに対してアクションを起こさない。
クエストや周囲の情報を聞けば、それなりに反応を返してくれる。
が、基本的には自動販売機と同じだ。NPCが能動的に動いたりはしない。
「奥にある旗のある建物が見えるか。ノーマンズランドを開拓しようとしている自殺志願者の集合場所だ。いってみたらどうだ? そのうち集団墓地になるだろうがな。ハハハ……!」
「もしかして、ノーマンズランドのNPCって、ハトフロ本編と違う仕様?」
「はい! ここのNPCは、それぞれに記憶と人格を持っていて、クエストの状況やプレイヤーのスキルや装備に合わせて会話内容が変わるようになってますよ!」
「へー!」
「なるほど。とりあえずこいつの言う通り、奥の建物にいけばいいのかね?」
「ですね。ひとまずメインクエストを進めてみましょう」
「はいはい! いきましょー!」
一行は遺跡の奥、旗の掲げられた建物の中に入った。建物の壁は薄ピンク色のレンガを漆喰で塗り固めたもので、漆喰を下地に自然や動物をモチーフにした壁画が描かれていた。色とりどりの染料のほか、金や銀までつかわれているところをみると、この建物は元は貴族の邸宅だったのだろう。
が、招待された客を饗応する料理が並ぶはずの長大なテーブルは、今では博物館の展示台替わりにされている。テーブルクロスは土だらけで、たった今発掘されたばかりといった風の、泥土と埃にまみれた壷や彫刻が並んでいた。
天井を支えるべく、アーチにつながって並ぶ柱の間には、棚やキャビネットが押し込められているが、ワイン棚にはワインといっしょに古ぼけた巻物が詰め込まれている。邸宅の元の所有者が見たら、助走をつけて殴りかかってきそうだ。
「こりゃすごい。まるで博物館ですね。見た感じ、古代ローマ帝国がモデルですかね。見たことあるのがいくつかあります」
「さすがレオ、詳しいね」
「レオさんの部屋、めっちゃいろんな資料並んでたもんね」
「まぁ、俺も歴史にはそんな詳しいわけじゃないですけど……これ、現実の博物館に所蔵されてる立体データ使ってるみたいですね」
「レオ先生のおっしゃる通りですが、壷はローマとギリシャがごった煮ですし、巻物はアラビアのものも混ざって、アメリカの独立宣言書までありますよ」
「古代帝国はアメリカだったのか……」
「んなわきゃないだろ。適当にごった煮で使ったね?」
「はい! 博物館に所蔵されている美術作品のうち、パブリックドメイン。つまり、著作権切れのものを片っ端から使用しています!」
「自慢することかぁ!」
「そこんとこの甘さは、やっぱりハトフロだね……」
建物の奥に進むと、古ぼけた書籍を手に取る老人がいた。老人は一行の姿を認めると、ぱたんと本を閉じて、くぼんだ眼下の奥にある鋭い瞳を投げかけた。
「君は……そうか。新しく来た開拓者だね? 私の名はエンリコ。君は?」
「レオといいます。ノーマンズランドの開拓に来ました」
「なるほど。レオ君は……この土地のことをどれだけ知っているかね?」
「いえ、そこまで詳しくは。ただ、古代帝国が発展して、今は滅んでアンデッドだらけになっている、ってくらいですかね」
「ならば説明しよう」
そういって老人は、レオ一行に向き直った。
「エステリア。人類の揺籃にして、頂点を極めたその名は、夜空の星ほどある詩歌に称賛と共に刻まれた。大理石の町並みは夜も輝き、尖塔は雲を突き抜けて天の庭に触れた。市場には東方の絹と南の香辛料が溢れ、詩人たちは征服帝キリウスの治世を『黄金の千年』と讃えた。――だが、その栄光も長くは続かなかった」
「というと?」
「君も知っての通り、不死の呪いがエステリアの都を呑み込んだからだ。かつての楽園は灰に覆われ、不死の亡魂が彷徨う呪われた荒野、ノーマンズランドと化した」
老人は深い溜め息を放って、言葉を続ける。
「今やエステリアの名は、忌まわしき呪いの言葉にとってかわった。開拓者たちは、富と名誉を夢見て、あるいは過去の真実を求めて、灰の地に足を踏み入れるが、帰還する者は少ない。生きて帰った者たちの目は、恐怖と狂気に曇り、口にするのは断片的な呪詛の言葉ばかりだ」
「それで、呪いの正体は何なんです?」
「……真実を求めるなら、これを読み解きたまえ。この遺跡で見つかったものだ」
老人は手に持っていた古ぼけた書物をレオに手渡した。
レオは耐熱グローブを脱ぎ、ひどく乾ききったページをめくる。
「ふむふむ……」
どうやら、老人がよこした本は遺跡で見つかった書籍を現代語に翻訳してまとめたもののようだ。栞がわりのメモが挟まれたページは、次第に異様に変化していく日常を記録したパン屋の日記だった。
「レオ、そのメモにも何か書かれてるね」
「ホントだ。どれどれ……」
筆者はエテルノスの下町でパン屋を営む平民、マリア(性は不明)。帝国の終焉を庶民の視点から記録し、日常が徐々に崩壊していく様子を描かれていた。日記は、ノーマンズランドの廃墟となった市場で、焼け焦げたオーブンの中に隠されていた。
「うわぁ……不穏」
「おぉ! ホラゲにありがちなやつ! 読も読も! こういうの大好き!」
「こわいやつです!?」
なぜか結衣はテンション高めで、制作に携わってるはずのハナが震え上がっていた。レオはページを捲り、翻訳された日記の内容を確認する。
ーーーーーー
エステリア暦1049年、豊穣の節、15日目
今日もパンを焼いた。市場は賑わい、子供たちがパンの耳をねだりに来た。帝国は繁栄し、キリウス様の治世は今年で50年を迎えた。噂では、帝が新たな神を祀るとか。パン屋の私には関係ない。パンが売れればそれでいい。それにしても最近空が曇りがち、妙に灰色だし、太陽が遠い気がする。
エステリア暦1050年、月光の節、2日目
何かおかしい。広場に黒い柱が現れた。誰も触れようとしないが、夜になると奇妙な囁き声が聞こえる。客が減り、パンは売れ残る。昨日、隣の魚屋のお爺さんが死んだ。なのに今朝、彼が店を開けていた。顔が青白く、目は虚ろだった。気持ち悪い。パンを焼く手が震える。
エステリア暦1050年、月光の節、8日目
街が変。死んだはずの人が歩き回り、夜には叫び声が響く。衛兵は「神の恩寵」なんて言うが、信じない。私の弟トマスが、昨夜、怪物に襲われた。彼はまだ生きているが、傷口が黒く腐っている。治療を頼みに聖堂に行ったが、神官は怯えて閉じこもっている。パンはもう誰も買わない。オーブンの火をつけたまま寝る。
エステリア暦1050年、月光の節、10日目
もう終わりだ。街は死者の巣窟だ。トマスは今朝、目を覚まさなかった。なのに、夜に彼がドアを叩いた。トマスの声だったけど、目が白く腐っていた。私は逃げて、倉庫の中に隠れた。空が赤い。パンの匂いも、灰の匂いに変わった。誰か助けて。この日記を見つけた人、私のトマスを……殺して。もう彼じゃないから。
ーーーーーー
「おー! いいねぇ、ホラーはやっぱりこういう読み物がないとね!」
「この文書によると、どうやら広場に現れた『黒い柱』がノーマンズランドの呪いと関係ありそうですね。エンリコさん。この黒い柱についての情報は?」
「ここを発てばすぐに分かる。ノーマンズランドの各所には、黒曜石からなる黒色のオベリスクが屹立している。我々はこれを『ブラックモノリス』と名付けた」
「ブラックモノリス……」
「ブラックモノリスの周辺では、アンデッドが無限に湧き出し、近づく者に幻覚と狂気を誘発する。忠告しておくが、力づくでの破壊は止めたほうが良い。我々の隊員の1人がモノリスに触れたところ、即座にアンデッド化した」
「わぉ。そういえば、ここに来る間にも奇妙な夢を見ましたね。というか、カットシーンですけど」
「メタいよレオさん!」
「ふむ。ノーマンズランドを訪れた開拓者が、ここではない何処か、今ではない何時かの情景を見たという情報は我々も得ている。モノリスが見せるのか、はたまた別の何かが見せているのか……とにかく、気をつけたまえ」
「ま、確かに気をつけろとしか言えないね」
シルメリアがやれやれといった様子で手をふる。
どうやらエンリコから得られる情報はそれほど多くないようだ。
「……行動するにも情報が足らないなぁ。ひとまず情報収集ですかね?」
「だね。ノーマンズランドを回って、アイテム回収がてら、そのブラックモノリスの破壊方法を調べないといけないね」
「待ちたまえレオ君、外に行って拠点を作るなら、これが役立つだろう」
「これは……本、と、革袋? いや、水筒かな?」
エンリコがレオに手渡したのは、「サバイバルブック」と書かれた本と、何かの液体が入った革の水筒だった。レオが本を開くと、ページには焚き火やテントなどの絵が、必要な材料と一緒に載っていた。
「レオ先生、サバイバルブックはキャンプを作るためのレシピブックのようですね。そして、この水筒の中身は察するに、拠点の維持に必要なアイテムでしょうか?」
「君、なかなかするどいな。それは聖水だ。夜、拠点の周囲に撒いておけば、アンデッドの侵入を防ぐことができる。さもなければ……」
「毎日がパーティってことですか」
「左様。聖水の入手方法は古代帝国の神殿の泉からほんのわずかに染み出すだけで、その量は限られている。無くさないようにな」
「ありがとうございます。エンリコさん、調査はまずどこから始めれば?」
「この近郊には、いくつかの遺跡がある。村の跡地と思しき『風鳴きの丘』。そして、帝国の要塞の跡と思しき『物見塔』だ。村は食料や資材、要塞は武器や防具を確保するのに良いだろう」
「ふむふむ……情報収集がてら、資材集めといきますか」
「そうだね。まずはこのあたりを動き回って地形を把握しておきたいね」
「あっ! レオさん! ひとつお伝え忘れてたことが!」
「え、なんです?」
「実は、『ノーマンズランド』では、ハトフロ本サーバーとは違い、装備やスキルの効果が無効化されてるんです!」
「なんですと?!」
「ちょっとまちな、じゃあアタシのビルドも……」
「はい! 全て無効化されてます! ハトフロでのスキル、装備差を無くし、イチからノーマンズランドで強くならないといけません! あ、こちらでPKされても、ハトフロのアイテムと、ペナルティであるスキルロスは発生しないのでご安心ください! 落とすのは、ノーマンズランドで使われるアイテムだけです!」
「そういうことは、最初に言ってほしかった……」
「てことは何だい、アタシの剣術スキルとハイドも使えなくなってて、レオの鍛冶スキルも使えなくなってるってことかい?」
「ですです。今のシルメリアさんは、デッドマンズランドで手に入る最初の武器、木の弓でも致命的なダメージを受けます! 頑張りましょうね!!」
「気楽に言ってくれるねぇ……」
その時、のほほんとしていたレオの表情が、とたんに険しくなった。
「……ってことは!! シルメリアさん、今すぐこの場を出ましょう。今すぐ!」
「レオ先生?」
「説明は後です! 俺ですら気づくなら、悪魔より邪悪なハトフロプレイヤーは必ず気づくはず!」
門をくぐった瞬間、レオたちの視界に飛び込んできたのは、血と埃にまみれた死体の山だった。ノーマンズランドの荒涼とした地平に、不自然なほど鮮やかな赤が広がっている。
「ぎゃぁ! 遅かった!!」
「ヒャッハー! 聖水を置いてきなー!」
甲高い笑い声が響き、遺跡の瓦礫の影から5人のプレイヤーが姿を現した。
リーダー格らしき男は、顔に赤と黒のペイントを施し、木の棒の先を尖らせただけの投げ槍を構える。残りの4人も、粗末な石斧や磨かれた石を手にしている。いずれもノーマンズランドの過酷な環境で手に入れた、貴重な戦利品だろう。
彼らがよこせと抜かす聖水は、ノーマンズランドで夜間にアンデッドの襲撃を防ぐ、拠点維持の要だ。それがなければ、せっかく集めた資材やアイテムも、アンデッドの群れに蹂躙される。目の前のプレイヤーたちが聖水を狙う理由は明白だった。
「やっぱりか! こいつら、先行してた連中だ! 俺たちがカットシーン見て、エンリコから聖水もらって出てくるとこを狙ってたんだ!」
レオが叫ぶと、石斧を持ったプレイヤーが口笛を吹いた。
「ピンポーン! 大正解! この建物、出入り口は一個しかないからな。カットシーン終わりの新参がフラフラ出てくるのを待つだけ。楽な商売だろ?」
「くっ、やっぱりか……!」
ノーマンズランドの仕様――スキルや装備の無効化、そしてPKフリー。
確約されたレアアイテムの受け渡し。
これらの要素は、彼らにとって絶好の狩りスタイルを提供していた。
すなわち――〝出待ち狩り〟だ。
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せっかく独自ルールサーバーを作り上げたのに、さっそくプレイヤーにメチャクチャにされてる…w
あ、夢の中の蛮族が集まってる~の蛮族は、開拓者たちのことです。
ハトフロプレイヤーゆえに、まるで否定できねぇ!(
資料作成のため、明日の更新はいったん未定です!




